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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十三章:時の淵に立ちて、還る道にも月の導きあり
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144  忘れられ、隠され、奪われて

「……なによ、その椅子は兄上のものでしょう!どうしてあなたがそこに!」


 アミーリアが怒ったように詰め寄る。けれど、当の本人はまったく気にする素振りもなく、椅子の上でくるりと身体を回し、舌をぺろっと出した。


「だって~今からお手紙書くんだもん!」

「……は?」


「凛音ちゃんたちにお返事書くの!やっと思い出したから!」


 アイは机の上に紙を広げ、嬉しそうにぺたんと座り込む。その無邪気さに、アミーリアの表情がふと揺れた。


「……凛……音……ちゃん?」


「……やめよう。」

 柔らかく、けれどどこか切実な声音で、淵礼が筆を取ろうとするアイの手をそっと止めた。


「……ねえ、淵礼……最近ちょっと、優しくなったんじゃない?」

「え?なにそれ……淵礼兄上は、最初からずっと優しいよ?」


 その一言で、アイの目がふっと細められる。  

 そして静かに立ち上がると、アミーリアをそっと書斎の外へ押し出した。


 バタン、と扉が閉まる音が響く。


「……アミーリアも、忘れてるんだ。さっき、『淵礼兄上』って呼んでたし。」

「うん、凛音のことも……たぶん。」


「彼女たちは、あんなに頑張って過去を救おうとしたのに……その結果が、忘れられることだったなんて。」


 アイは言葉を切ると、ほんの少しだけ俯いた。その横顔には、どこか寂しげな影が差していた。


 これは、あまりにも残酷なことだった。  

 たしかに、生死を共にしたわけではない。  

 けれど、それでも――アミーリアは、かつて心から大切に思っていた人の記憶を、ゆっくりと、けれど確かに、失っていっていたのだ。


「……『忘却』だけで済むなら、まだいい方だ。」

 淵礼の声は低く落ち着いていたが、その響きには確かな痛みが滲んでいた。

「このままでは、彼らは――この世界から、本当にいなくなってしまうかもしれない。」


 白銀の砂に覆われた中庭の一角。

 凛音は白虎にもたれながら本を読んでいた蓮の横顔を見つめ、そっと問いかけた。

「……ねえ、蓮。アイたち、返事……書いてくれると思う?」


 蓮はページをめくる手を止めず、淡々と答える。

「書かないよ。仮に書いたとしても、届くはずがないと思う。」


「じゃあ……どうしてアイに、あんな手紙を?」


 風がさらりと銀砂を揺らした。

 蓮は少しだけ目を細め、悠然と口を開いた。

「……私たちが帰れる未来を、ちゃんと守ってもらうためさ。」


 砂の洞窟には、銀白の風が静かに流れていた。石壁に揺れる微かな光は、まるで時の残響。


「おばあさま、星杯にヒビが入りました。しかも……音まで――」

 沈黙を裂くように、足音が響く。清樹が紙片を手に、息を切らしながら駆け込んできた。額には汗。整える暇すらない。

「このままでは、完全に崩壊するかと……そうなれば、凛音様たちの帰還手段が、断たれてしまう可能性が高いのでは?」


 洞窟の隅で目を閉じていた老女が、ゆっくりとまぶたを開けた。灰色の瞳が、時間そのもののように澄んでいた。

「……焦りすぎじゃな。杯が割れたところで、どうということはない。」


「……え?」


「星杯は、ただの媒介にすぎぬ。壊れるべきものは、いずれ壊れる。だが――記憶そのものは、壊れたりはせんよ。」

 老女はゆるやかに手を動かし、清樹の紙片を示す。

「本当に大事なのは、記憶の根――意図的に『隠された過去』のことじゃ……」


 清樹は言葉を失い、その目をまっすぐに見つめ返す。


 老女の口調は変わらぬままだったが、そのひと言ひと言が、胸の奥をじわじわと締めつけてくる。

「その記憶が呼び覚まされなければ……たとえ杯を修復しても、ただの抜け殻にすぎん……」


 風が止まったような静けさが、洞窟を包み込む。


 やがて、清樹が低く、ぽつりとこぼした。

「……隠された、過去……」


 星宮の奥深く、限られた者しか足を踏み入れられない、書庫の禁域。

 高い天井には星辰の紋が刻まれ、柱という柱に銀砂が埋め込まれている。

 書架は漆黒にして荘厳、息を呑むほどの静謐が、場を支配していた。


 この書庫は、天鏡国においてただひとつ――星と記憶をつなぐ「記録の聖域」。

 過去と未来の狭間に置かれた、運命を保存するための場所だった。


 凛音はそっと歩を進め、封印された扉の前に立つ。

 その瞳には、決して揺らがぬ意志が宿っていた。


「ここが、あのとき――アイが『賊が入った』と証言した部屋だ。」

 蓮は声を落として、ぽつりとつぶやいた。


 凛音は小さくうなずき、手を伸ばす。

 銀の刻印が反応し、扉がゆっくりと開かれると、重苦しい空気が流れ出した。


 そこは記録の墓場だった。

 棚に並ぶ星図の巻物。その中の――「盗難の夜」の記録だけが、綺麗に抜け落ちていた。


「……これだけじゃないな」

 蓮が指先で書簡をなぞる。「星図原本も、書庫出入りの記録も、その夜の分だけが抜けてる。」


 凛音は棚の裏に落ちていた古びた木片を拾い上げた。

 焼けた痕。焦げた布。そして、封蝋の一部。微かに残る、かすれた印章。


 蓮の動きが止まる。


「……この印、『雪華国』の文印だ。」

 彼の声が低くなった。


 凛音の肩が、わずかに揺れた。彼女は蓮と視線を交わすと、無言のまま立ち上がった。

「盗賊なんかじゃない……最初から、『誰かにとって都合のいい盗難』だったのよ!」


 改ざんされた記録、埋もれた過去、盗まれた神術。

 この国の神獣の均衡は――もしかすると、もっと昔から。

 より大きな陰謀の中で、歪められ、崩れ始めていたのかもしれない。


 凛音は振り返り、楽しそうに笑った。。

「ねえ、蓮。……今夜だけ、『殺し屋』やってみる気、ある?」

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