143 風よりも、月の味方を
翌朝。
天鏡国の朝は清らかな風に包まれていた。空は澄み、星宮の庭園には月草がひっそりと咲いている。
「こっちこっち!ここが『観宿石』だよ!」
元気な声が響く。
アイは小さな足で庭をぴょんぴょんと跳ねながら、凛音と蓮の前を元気よく歩いていた。今日はどうやら「星宮案内の日」らしい。
「星から来たって言ってたけど、君は『星の案内人』か何かかな?」
からかうように蓮が言うと、アイはぴたりと足を止めて、ぷくっと頬をふくらませた。
「ちがうよ!ぼくは『月の見習い』だもん!」
そのやり取りに、凛音は思わず笑ってしまう。
朝の光の中、風が木々を揺らし、星宮の影が静かに地を滑っていく。
と、蓮の足がふと止まった。
視線はまっすぐ、アイの後ろ姿に向いている。
「……ねえ、アイ。ひとつ、実験してみない?」
「じっけん?」
きょとんとした顔で振り返るアイに、蓮はふっと笑って頷いた。
「そう。『未来の君』にメッセージを届ける方法。ここに何かを埋めて、君が大人になったら思い出して、掘り返してみるんだ。」
「なにそれ……すごい!」
アイの目がきらきらと光りはじめる。
「なにを埋めるの?なに書くの?」
「そうだな……」
蓮はわざとらしく唇に指をあて、凛音の方をちらりと見る。
「まず、『未来の凛音ちゃんのお兄さんは元気ですか?』って書いてみようか。」
「ええっ……?」
予想もしなかった言葉に、凛音の心がざわりと揺れた。
あれは、ただの冗談なんかじゃない。
アイは興味津々に尋ねた。
「凛音ちゃんのお兄さん?その人はどこに行ったの?」
「さあね、その答えは――未来の君なら、きっとわかるよ。」
そう言って、蓮はくしゃりとアイの髪を撫でた。
その手つきは、少しだけ照れくさく、けれど優しかった。
彼が「観宿石」の根元に膝をつき、真剣な顔で土を払うその姿に、
凛音はあらためて気づかされた。
これは、運命を変えるための行為ではない。
けれど、確かに未来と繋がるための、小さな第一歩だった。
三人で紙を用意し、それぞれ短く言葉を書き記す。
アイは紙の隅に、ちいさな「願いの月と星」の絵を描いた。
そして、蓮は誰にも見られないように、何かを最後にこう書き加える。
そっと折りたたんで、三人の指で一緒に土をかぶせる。
蓮はしばらくその場所を見つめていた。
やがて、ほとんど聞こえないような声でつぶやく。
「届くかな。あいつに。」
その言葉に、凛音は何も言わず、ただ隣に立ち、そっと彼の手を取った。
朝の光が星宮の塔を染めるころ、アイはぱちりと目を覚ました。
「……!!」
跳ね起きた彼は、布団をぐしゃぐしゃにしながらベッドの上に立ち上がり、手足をばたばたと動かした。
「白虎ーっ!」
廊下に響くほどの声で叫びながら、勢いよく部屋の扉を開け放つ。
「……なんだ、朝からうるさいぞ」
階段の先から現れた白虎は、欠伸混じりに低くうなるような声で返す。
「白虎、白虎!すごい夢を見たんだ!ちっちゃいころの僕がね、大きくなった凛音ちゃんと蓮と一緒に、庭で遊んでたの!なんだかほんとにあった気がするんだよ!」
その目の輝きに、白虎のまぶたがすこしだけ開く。
「……夢じゃない。」
「えっ?」
「それは『改ざんされた記憶』だ。過去の彼らが、何かを変えた……それだけのことだ。」
アイはぽかんと口を開けたまま、きょとんと白虎を見つめる。
「そ、そんなこともできるの?過去の記憶、書き換えるなんて……なんかすごい!」
目をきらきらさせながら、楽しそうに笑う艾に、白虎はわずかに眉をひそめた。
「……できる。だが、危険でもある。」
「危険?」
「微かな記憶、たとえば夢のような感触ならばいい。だが、それがもっと深く、大きな記憶になると――」
白虎はそこで言葉を切った。
口にしなかった「先」は、重すぎるからか、あるいは言うまでもないと感じたのか。
けれど、艾は気づいていない。
むしろ顔をぱっと明るくし、両手を広げて言った。
「じゃあじゃあ!急ごうよ、白虎!ねえ、僕ちょっと思い出した気がするんだ。観宿石のところ……きっと何か埋まってるんだよ!蓮が、何か隠してったの!」
嬉しそうに駆け出すその背中を、白虎はしばらく無言で見つめていた。
……この記憶が、吉と出るか凶と出るか。それはまだ、誰にもわからない。
ただひとつ、星杯の底に――また、誰にも気づかれぬひとすじの亀裂が、そっと刻まれていた。
アイは、地面に膝をつくと、目を輝かせながら勢いよく土をかき分け始めた。
「ぜったいここだった、観宿石の……この辺!」
白虎がやれやれとため息をつく横で、アイは夢中で掘る。落ち葉を払い、小石をどかし、ついに小さな包み紙が現れた。
「……あった!」
アイはそれをそっと広げると、ぴたりと動きを止めた。
それは、幼い日の自分が蓮たちと一緒に埋めた手紙。
そしてその最後に、見慣れた筆跡で、こう記されていた。
『風の味方よりも、月の味方が欲しい。』
アイはそれをぎゅっと握りしめた。
「……蓮のやつ……」
一瞬だけ、表情がきゅっと引き締まる。
でも、すぐにいつもの笑顔に戻って、ぱっと白虎を振り返った。
「仕方ないなあ、もう!僕がちょこっと、玄霄国まで行ってあげるよ!」
玄霄の街は、柔らかな午後の陽に包まれていた。通りの子どもたちは、広場に建てられた新しい王の像のまわりで、楽しげに走り回っている。
「玄霄が建った年は、本当にお天気に恵まれてねえ!」そう呟いたのは、道端で花を売るおばあさん。手にした籠には、色とりどりの花と、笑顔がこぼれるような春の香りが詰まっていた。
路地では、湯気の立つ甘い焼き菓子が売られ、母親の手を引く子どもが、うれしそうにはしゃいでいる。
――まるで、最初からずっと「平和」だったかのような景色だった。
王宮の高台。
そこに立つひとりの青年が、静かに街を見下ろしていた。
「淵礼、これは……いったい、どういうこと?」
アイの問いに、淵礼はゆっくりと振り返る。
「一日前、目を覚ましたら、すべてが変わっていたんだ。」
彼は拳を握りしめる。目の奥にあるのは、悲しみと怒り。そして、それらすらも言葉にならないほどの虚しさ。
「まるで、あの血と涙の日々が最初からなかったかのように。私が即位したとき、蒼霖は自然と『玄霄』へと名を変えていた。」
「……そんな、ことって……」
「……彼らは、命を懸けて手にした未来だったはずなのに。」
ぽつりと、絞り出すようにそう言った。
でも、アイは――どこか嬉しそうに目を細めて言った。
「じゃあ、もしかして本当に未来がいい方向に向かったのかも!淵礼、覚えてることに違いは?」
淵礼は少し息を呑んでから、ゆっくりと答える。
「……身体の奥に、もう一人の私がいるような感じがする。その『私』は、子ども時代を幸せに過ごしてた。玄武はいつもそばにいて、デイモンは……ずっと昔に亡くなっていたみたい。」
「玄武は?なんて言ってた?」
「『二つの記憶を耐えられるのは、神獣と契約者だけ』……だそうだ。」
アイは少しだけ首をかしげて考えこむ。
「じゃあさ、もしもその記憶の中で、デイモンがそんなに早くいなくなってたとしたら……もしかして――」
言いかけた、その瞬間。
何かに突き動かされるように、淵礼は、弾かれたように駆け出した。
白玉の広場に、風が吹き抜ける。
金色の陽射しが、石畳に長い影を落とす。
ひとりの青年が、人混みをゆっくりと歩いていた。
名は、クリス。
名は変わっていない。けれど、歩む運命は、もはやまったく別のものだった。
彼は淵礼のすぐそばを通り過ぎる。一瞬、かすかに笑ったようにも見えたが、立ち止まることはなかった。
かつて忠義を尽くした王子の顔も、命がけで何度も叫んだ声も、
そして、自らの命を差し出した記憶さえも――彼の中には、もう残っていなかった。
淵礼は、ただその背中を見つめた。
そして、誰にも聞こえないほどの声で、ぽつりとつぶやいた。
「……生きていてくれて、本当によかった。」




