142 その綿毛は、願いを乗せて
「ところで――天鏡国には、どうやって行くの?」
とぼけたように、けれどどこか真剣な顔で、蓮が問いかける。
ぱっちりとした瞳をわざとらしく見開いて、ふてくされたような口調で続けた。
「私たち、あの件で間接的に『国外追放』されたんだよ?馬車もないし、白虎もいないし……」
ちら、と浮遊を見る。
言外に込められたのは、
――ねえ、ちょっとくらい乗せてくれてもいいんじゃない?という圧。
かつて、凛音がアイに誘われるまま白虎にまたがったとき、蓮はその光景を内心で噛みしめていたのだ。
しかも今回は「龍」――それも、伝説の青龍。
なんとなく。
ほんのちょっとだけ、凛音と同じ景色を見たくて。
今、蓮は淡く、それを期待している。
浮遊はじろりと蓮を見やった。
その目には、明らかに「乗せてやるもんか」というプライドがきらめいている。
「ふん、まったく……最近の若造は、神に物乞いでもする気か?」
しっぽをばさりと振って、偉そうに鼻を鳴らす。
「わしは青龍ぞ。天を司り、万象を導く存在じゃ。まさか、おまえら人間風情を背に乗せて、ぽこぽこ飛んで行けと申すか!」
そう言いながらも、浮遊の身の下には、いつの間にか風が集まり、誰かを迎え入れるように、雲がふわりと舞い上がっていた。
「……ただし、乗り心地は保証せん。途中で振り落とされても、文句は言うなよ?」
凛音はくすりと笑い、浮遊の角にそっと手を添えた。
「浮遊ったら、口では嫌がってるくせに……もう、しっかり準備できてるじゃない。」
その瞬間、風が一気に巻き起こる。
龍――天を駆ける神の化身が、しなやかな身を弾ませ、ひと跳ねで雲の海へと舞い上がった。
九万里をひと息に駆け、天風を従え、雲霞を纏いながら空を裂いてゆく。
白虎に乗ったときも、空は高く澄んでいた。
夜風が肌を刺し、月の光が身体を照らし、獣の鼓動が背に響いた――あれは、緊張感と凛冽さを伴う、地を離れた旅。
だが今は――違う。
音が遠ざかり、風はやわらかく、ただ身を預けるだけで、ふわりと浮かび上がる。
上下の感覚すら薄れ、空と雲の境すらあいまいで、どこまでも白と青の揺らめきに包まれていく。
下界には、まだ灯のともる街、眠る湖、雲の上に浮かぶ山の峰々。
時も、地形も、すべてが遠く、静かだった。
三日かかる道のりを、一夜で越えていく。
これはもう、単なる旅路ではない。
風と雲を従えるまさに「浮遊」の道――
人の世を離れ、空の理をなぞるような、神々の通う領域だった。
星杯の表面に、またひとすじの亀裂が走る。
その高所に佇む白虎は、言葉もなく、それを見下ろしていた。
風が、彼のたてがみをかすかに揺らす。
星杯が淡く脈動し、光の波が静かに広がってゆく。
「……過去の天鏡国に、辿り着いたか。」
星々が震えるような音が、遠く、ひどく遠くで鳴っていた。
雲の海を裂いて、ひとつの影が飛ぶ。
浮遊の背に、ふたりの影が揺れていた。
目指すのは――月と星の記憶が眠る国。
未来では地上からしか見ることのなかった神殿を、いまは天から臨んでいた。
天を映すように造られた水晶の穹頂は、まるで夜空の一部のように月光を返している。
そのさらに上、塔の頂に立つ細き尖塔は、天と地を結ぶ「星の杭」――
「……着いたみたいだね。」
凛音の声が、ゆっくりと雲の間に溶けていく。
浮遊の背がゆるやかに下降し、星宮の庭の縁にそっと降り立つ。
待っていたかのように、星官たちが静かに整列していた。
ひとり、金色の冠をいただいた若い星官が歩み出る。
「天鏡国へようこそ。女王陛下より、使節団としてのお越しを賜りました。」
凛音と蓮は、思わず顔を見合わせた。
使節団――
その呼び名の中に、彼らが「来るべき者」として既に受け入れられていることがはっきりと示されていた。
「予想以上に、用意がいいね……」
蓮が小さく肩をすくめ、冗談めかしてつぶやく。
その瞬間、星宮の回廊の上方、透き通る白の衣をまとった影がひとつ、静かに姿を現した。
風が止み、空気がわずかに張りつめる。
凛音は、思わずその姿を見上げた。
月光に照らされた女王の立ち姿――
それは、かつて雪華の夜、渊礼を連れて去っていったあの背中と、何ひとつ変わらなかった。
あの時と同じように、揺らぐことのない眼差しで、女王は彼らを見下ろしている。
「星の裂け目が揺れる時、訪れる者が現れる。星はそう告げておりました。」
女王の言葉が夜空に消え、沈黙が落ちる。
凛音と女王、互いに視線を外さないまま、言葉を交わすこともなく、ただ静かに睨み合っていた。
その空気を裂いたのは――どこか高く、透き通るような子どもの声だった。
「ねえ、お姉ちゃん……すっごくきれいだね!」
声とともに、柱の陰から小さな影が駆け出してくる。
真っ黒な髪を跳ねさせ、光る瞳をぱちくりと動かしながら、六つくらいの男の子が、まっすぐ凛音のもとへと駆け寄った。
そしてそのまま、彼女の衣の裾をぎゅっとつかむ。
「さっきから、ずーっと見てたんだよ。お姉ちゃん、ぜったいお星さまから来た人だって思ったもん!」
凛音は戸惑いながらも、そっと目を伏せる。
その横顔に、ふわりと何かが差し出される。
「はい、これあげる!」
男の子の掌に乗っていたのは、一輪の蒲公英の綿毛。
細く、やさしい風に揺れながら、今にも飛び立ちそうに震えている。
「お姉ちゃん、なんだかちょっとだけ、悲しそうだったから。これ吹いたらね、風が味方してくれるよ!」
――そういえば、未来の出会いでも。
アイも、同じように言ってくれた。
その綿毛には、人の願いが込められているんだよ。
その記憶が重なった瞬間、凛音は思わず微笑んだ。
ゆっくりと膝を折り、小さな掌の上に顔を寄せる。
「……うん。ありがとう、アイ。」
そして、ひと息。
優しく吹きかけたその風に、綿毛はふわりと舞い上がった。
夜の月明かりのもと、白い綿毛は空へと弧を描きながら、くるくると踊るように広がっていく。
風に乗って、祈りのように、願いのように――静かに、遠くへ。
「……皆に、少しでも良い未来が来ますように。」
04.19:
遅くなってしまいましたが、少しだけ後書きを書かせてください。本来なら第140話か141話のあたりに載せるべきだったのですが、この数日あまりにも忙しく、手が回りませんでした。申し訳ありません。
第140話は、第四部前半の締めくくりとして、かなり自由に、自分の「書きたいもの」を思いきり詰め込んだ回になりました。個人的にはとても満足しているのですが、「過去」と「現在」が交錯する構成のため、少し分かりにくかったかもしれません。
ネタバレを避けつつ、その話の意図を簡単に整理してみます。
【過去の出来事】
凛音が青龍を早く目覚めさせたことで、雪華国に駐在していた星官がすぐにその異変を察知し、四神のバランスが急速に崩れ始めます。
そのため、天鏡国の女王が雪華国へと足を運ぶことになり――その影に隠れていたのが、淵礼を奪おうと目論むデイモンです。未来で何が起きるかを知っている凛音は、過去の回想で一度阻止できなかった後悔から、今度は一切の迷いなく、デイモンを一瞬で葬りました。
この出来事により、未来が変わるかに見えましたが、淵礼が連れ去られる運命そのものは変えられませんでした。ただし、今回はデイモンではなく「天鏡国の女王」が連れて行ったため、淵礼がその後に迎える幼少期はまったく違うものとなったのです。
第140話のラストで描かれた子供こそが、その「新しい未来」を生きる淵礼でした。
【未来の影響】
現在明らかになっている最大の変化は、「星杯のひび割れ」、そして「女王の失踪」です。
第四部全体は「天鏡国の物語」として構成しており、
・現在の天鏡国
・そこから遡る雪華国(天鏡国の力によって過去へ)
・さらに過去の天鏡国
・そして再び雪華国(天鏡国が導く「未来への帰還」)
という四つの時間軸が交互に展開される構成になっています(各10話ずつの予定です)。




