141 游離者
崖の上には、一本の老いた桜の木が立っていた。光を浴びてほんのりと輝くその枝には、朝焼けを映したかのような満開の花が、節くれだった枝先に咲き誇っている。
春風がそよぐと、桜の花がひらひらと舞い始めた。淡い桃色の花びらが空をくるくると踊りながら、細やかな雪のように、静寂に包まれた山あいへと降り注いでいく。
その大樹の根元には、一匹の青い龍が花の陰に身を預けるように、穏やかに横たわっていた。風にそよぐ髭が草をなで、瞳には舞い落ちる花びらの影が映る。その顔には安らぎが満ち、まるで夢の深みにたゆたっているようにも見えた。
幹の上には、黒髪の男が静かに座っていた。ゆったりと膝を組み、風に揺れる衣の裾をはためかせながら、手にした笛を吹いている。その音色は澄みきっており、泉のせせらぎのようでもあり、遥かに漂う霧を思わせもした。旋律は春の記憶をそっと呼び起こすように、やわらかく空気へと溶けてゆく。
そして、花の下では一人の女性が舞っていた。
真っ白な衣をまとい、裾には凛とした雪蓮の刺繍。腰にはひとすじ、鮮やかな紅の帯が結ばれ、雪景色に揺れる焔のように、ひときわ目を引く。
舞うたび、花びらがそのまわりで踊り出し、風とたわむれる衣が空にやわらかな軌跡を描く。
その姿は、まるで絵から抜け出した仙女。
春風と花の雨に包まれながら、ただひとり、夢と詩のあわいに咲き誇っていた。
「……つまり、浮遊の言う通りなら――今の私と凛凛は、この時の流れから外れた『異物』ってこと?」
「そなたらだけではない。わしもまた、本来なら、この時代ではまだ眠っているはずだった。」
凛音はふと足を止め、遠くを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「『游離者』か……悪くない響きだね。」
そう言いながらも、その瞳にはうっすらと涙の光が浮かんでいた。
あの時代に戻って、家族のぬくもりに甘えて。
ほんのひとときの安らぎを手に入れただけだった。
……それ以外は、何ひとつ変えられなかった。
私は、何のために剣を取ったのだろう。
そして、何のためにそれを置いたのだろう。
あの日、彼らはやはり淵礼を連れていった。
父上も母上も、結局あの子を――息子を失った。
何も知らずに笑っていた四歳の千雪は、ある日突然、兄を奪われて。
それから少しずつ、その小さな身体が、私のせいで壊れていった。
朱雀は、自らが従うべき者のもとへと去った。
蓮のそばには、残らなかった。
むしろ――南宮洵。
あの男は、恐ろしい。
あの時、私を辺境の鎮圧に向かわせておきながら、朱雀を蓮のそばに置いた。
……その判断が、蓮の命を救うことになった。
一体、どこまで読んでいたのか。
雪華国の滅びは、本当に彼と無関係なのだろうか。
父上には「洛白を連れて帰る」と告げておきながら、
その実、過去に干渉した私たち三人を――
雪華国から、静かに、確実に追い出したのだった。
「凛音……そろそろ戻るがよい。おまえの在るべき『時』へ。」
浮遊は、それだけを残し、もう何も語らなかった。
神なのか、妖なのか。
千年。いや、それ以上を生きてきた今となっては、その違いすら、もはやどうでもよかった。
「すべてを守る神」になろうとして、結局、何ひとつ守れなかった。
「ただ力で奪う妖」だったなら、せめて――彼女ひとりだけでも、守れたのかもしれない。
時間の裂け目は、ゆっくりと、音もなく開いていく。
そして最後には――
四歳の時の世界で、未来から来た彼女が、還るようにして、消えてしまう気がして。
ただ、それだけが怖くてたまらなかった。
「……この時代の天鏡国に、もう一度行ってみないか。」
代わりに、その答えを口にしたのは、蓮のほうだった。
凛凛が、ただ帰るなんて決して納得するはずがない。
どれほどの距離を歩き、どれほどの犠牲を払って、ようやく会えた家族なのだ。
どうして手放せるだろう……そして、そんな彼女に、どうやって手放せと言える?
今の時点では、わからないことがまだ多すぎる。
そして、そのすべての鍵が、天鏡国に残されている。
彼女の積み上げてきたものを無責任に否定するくらいなら――
最後まで、その目で見届ける方がいい。
一緒に死地へ向かうことは、怖くない。
怖いのは、生きたまま、別れなければならないことだ。
蓮は、凛音の手をそっと取った。
春風が、ふたたび花びらを運んでくる。
その先にある「終わり」へ向かって、彼らは歩き出した。




