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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十三章:時の淵に立ちて、還る道にも月の導きあり
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141 游離者

 崖の上には、一本の老いた桜の木が立っていた。光を浴びてほんのりと輝くその枝には、朝焼けを映したかのような満開の花が、節くれだった枝先に咲き誇っている。


 春風がそよぐと、桜の花がひらひらと舞い始めた。淡い桃色の花びらが空をくるくると踊りながら、細やかな雪のように、静寂に包まれた山あいへと降り注いでいく。


 その大樹の根元には、一匹の青い龍が花の陰に身を預けるように、穏やかに横たわっていた。風にそよぐ髭が草をなで、瞳には舞い落ちる花びらの影が映る。その顔には安らぎが満ち、まるで夢の深みにたゆたっているようにも見えた。


 幹の上には、黒髪の男が静かに座っていた。ゆったりと膝を組み、風に揺れる衣の裾をはためかせながら、手にした笛を吹いている。その音色は澄みきっており、泉のせせらぎのようでもあり、遥かに漂う霧を思わせもした。旋律は春の記憶をそっと呼び起こすように、やわらかく空気へと溶けてゆく。


 そして、花の下では一人の女性が舞っていた。

 真っ白な衣をまとい、裾には凛とした雪蓮の刺繍。腰にはひとすじ、鮮やかな紅の帯が結ばれ、雪景色に揺れる焔のように、ひときわ目を引く。


 舞うたび、花びらがそのまわりで踊り出し、風とたわむれる衣が空にやわらかな軌跡を描く。


 その姿は、まるで絵から抜け出した仙女。

 春風と花の雨に包まれながら、ただひとり、夢と詩のあわいに咲き誇っていた。


「……つまり、浮遊の言う通りなら――今の私と凛凛は、この時の流れから外れた『異物』ってこと?」

「そなたらだけではない。わしもまた、本来なら、この時代ではまだ眠っているはずだった。」


 凛音はふと足を止め、遠くを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。

「『游離者』か……悪くない響きだね。」


 そう言いながらも、その瞳にはうっすらと涙の光が浮かんでいた。


 あの時代に戻って、家族のぬくもりに甘えて。

 ほんのひとときの安らぎを手に入れただけだった。

 ……それ以外は、何ひとつ変えられなかった。


 私は、何のために剣を取ったのだろう。

 そして、何のためにそれを置いたのだろう。


 あの日、彼らはやはり淵礼を連れていった。

 父上も母上も、結局あの子を――息子を失った。

 何も知らずに笑っていた四歳の千雪は、ある日突然、兄を奪われて。

 それから少しずつ、その小さな身体が、私のせいで壊れていった。


 朱雀は、自らが従うべき者のもとへと去った。

 蓮のそばには、残らなかった。


 むしろ――南宮洵。

 あの男は、恐ろしい。


 あの時、私を辺境の鎮圧に向かわせておきながら、朱雀を蓮のそばに置いた。

 ……その判断が、蓮の命を救うことになった。


 一体、どこまで読んでいたのか。

 雪華国の滅びは、本当に彼と無関係なのだろうか。


 父上には「洛白を連れて帰る」と告げておきながら、

 その実、過去に干渉した私たち三人を――

 雪華国から、静かに、確実に追い出したのだった。


「凛音……そろそろ戻るがよい。おまえの在るべき『時』へ。」

 浮遊は、それだけを残し、もう何も語らなかった。


 神なのか、妖なのか。

 千年。いや、それ以上を生きてきた今となっては、その違いすら、もはやどうでもよかった。


「すべてを守る神」になろうとして、結局、何ひとつ守れなかった。

「ただ力で奪う妖」だったなら、せめて――彼女ひとりだけでも、守れたのかもしれない。


 時間の裂け目は、ゆっくりと、音もなく開いていく。

 そして最後には――

 四歳の時の世界で、未来から来た彼女が、還るようにして、消えてしまう気がして。

 ただ、それだけが怖くてたまらなかった。


「……この時代の天鏡国に、もう一度行ってみないか。」

 代わりに、その答えを口にしたのは、蓮のほうだった。


 凛凛が、ただ帰るなんて決して納得するはずがない。

 どれほどの距離を歩き、どれほどの犠牲を払って、ようやく会えた家族なのだ。

 どうして手放せるだろう……そして、そんな彼女に、どうやって手放せと言える?


 今の時点では、わからないことがまだ多すぎる。

 そして、そのすべての鍵が、天鏡国に残されている。


 彼女の積み上げてきたものを無責任に否定するくらいなら――

 最後まで、その目で見届ける方がいい。


 一緒に死地へ向かうことは、怖くない。

 怖いのは、生きたまま、別れなければならないことだ。


 蓮は、凛音の手をそっと取った。

 春風が、ふたたび花びらを運んでくる。

 その先にある「終わり」へ向かって、彼らは歩き出した。

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