140 星の軌跡、書き換えられて
白虎が言葉を落とした直後、
空に流れていた千年銀砂が――突如として、動きを変えた。
吸い込まれていたはずの銀砂が、今度は空から地へと、奔流のように激しく落下し始めた。
まるで天が裂け、過去と未来の狭間から、何かが零れ落ちてくるかのように。
その銀の奔流の中で、何かが――ゆっくりと、しかし確かに形を成していく。
「……なに、映ってる?」
星官たちが震える声でそう呟いた、そのとき。
割れた星の杯の欠片が、ふわりと宙に舞い上がった。
そして逆流する銀砂と重なり、夜空に一つの像を映し出す。
そこに現れたのは――
凛音だった。
火の粉が、まだ空中に舞っていた。
朱雀の炎が放たれてから、わずか数息。
殿内には、緊張と熱気、そして誰も動けない沈黙だけが残されていた。
「……おまえたちに手出しはさせんぞ!」
南宮洵が凛音たちの前に立ちはだかり、天鏡国の使者たちを睨みつける。
剣こそ抜かぬものの、その声には、国を背負う者の威があった。
「なに? 今さら『父親』ぶって庇うつもり?」
朱雀はにやりと笑い、肩をすくめながら大きく羽を広げた。赤い火が、ふたたび天井を照らした。
「あいにく、あの子たちは――朕の大事な者でね。たとえ異国であろうと、誰であろうと、朕の目の前で手を出すことなど許さん。それだけだ。」
火と雪、神と人、未来と過去――
そのすべてが、今、ひとつの交差点に集い始めていた。
星の杯の欠片が映し出した銀砂の像を、星官たちはただ見つめていた。
その中で、ひときわ大きな声が響く。
「白虎、あれって……凛音ちゃん、だよね? でも、あの刃……千雪の刃と似てるけど、少し違う……」
アイが目を見開き、息を呑むように問いかけた。
白虎の尾が静かに揺れる。だが、その揺れには苛立ちと、かすかな恐れが滲んでいた。
「……あれは、もう、お前が知っている彼女ではない。」
「……え?」
その言葉の意味を問う前に、星宮の奥――
神域の空気が、どこまでも沈黙を湛えながら、じわじわと沈んでいく。
「南宮洵、そなた……自分が何をしているか分かっておるのか?」
白虎が咆哮と共に跳びかかり、鋭い前爪で南宮洵を押さえつけた。その背にまたがる天鏡国の女王は、気迫そのままに言葉を叩きつける。
「我が天鏡国は、時と理を守り、四国の均衡を見守る立場にある。まさかとは思うが、白瀾国の帝として、天鏡に戦を仕掛けるつもりではあるまいな?」
朱雀は空中を旋回しながら、烈火のように鳴き声を上げた。その羽から放たれた火の矢は、敵味方の区別もなく降り注ぎ、天鏡の兵ばかりか、蓮と凛音にさえ容赦なく迫ってくる。
その瞬間、青銀の鱗がきらめく龍が、まっすぐ天へと舞い上がった。垂直に翔け上がるその姿が風を巻き起こし、ひと吹きで火矢をすべて吹き飛ばす。
「朱雀、相変わらず加減を知らぬな!」
浮遊の声が響いた。
「さて――ここは雪華国、わしの統ぶる座ぞ。白虎よ……まさか、己が仕切る場とでも思うておらんじゃろうな?」
浮遊の声がふっと消えたその瞬間、空は青白い光に包まれた。まるで世界のすべての音が吸い込まれていくかのように、深い静寂が降りてくる。淡い金の紋が空気に漂い、そこにいた誰もが、時の狭間に閉じ込められたかのようだった。
それは――神聖なる気配か、それとも、息を奪うほどの威厳か。
凛音は思わず問いかけていた。
「……浮遊、これが、浮遊の『力』なの?」
これは、凛音が知る浮遊ではなかった。
失うことも、絶望することも、孤独に沈むこともなかった――かつての、在るべき姿。
どこからともなく、星宮の穹頂から、脈打つような音が鳴り響いた。まるで天そのものに心臓があるかのように、空気が微かに震えている。
再び銀砂が天へと吸い上げられ、ゆっくりと屋根全体を覆っていく。
陰陽が交差するように、その流れは複雑に揺れ動き、何かに導かれるように分秒を争って進みながら、やがて一幅の動く「砂の絵巻」を描き出した。
その片隅には、夜空の星をそのまま映したような、巨大な龍の爪があった。
黒く、静かに、すべてを呑み込むような気配を放ちながら、ゆっくりと爪先を伸ばしている。
その迫る気配の中、ひとりの少女が剣を構えて佇んでいた。
少女の背後では、一輪の大きな蓮の花が、淡い光をまとって静かに咲いている。
「白虎、ねえ……凛音たち、過去で何かあったんじゃない?この絵……まるで、凛音ちゃんがすべてを消し去ろうとしてるみたい。」
白虎は思案するように砂絵を見つめ、尾をひと振りした。
「絵というものは、人と同じさ。どう読むかで、千の顔を見せる……だが、わしが読むなら――『本物の龍』が目を覚ましたのだとな。」
そのときだった。
何かに導かれるように、凛音の視線が戦場の端を捉えた。浮遊の神気が揺らぎ、時の幕が一瞬だけ薄らぐ――そこにいたのは、あの男。
天鏡の兵の背後に立ち、薄笑いを浮かべるひとつの影。顔こそ覆われていたが、その気配は忘れようもない。
デイモン。
未来、淵礼の記憶を奪い、血蓮花を育てるために一城を屠った男。
そして、玄武の記憶の中で獣を痛めつけ、霄寒に刃を向けた男。
あのときは、ただ傍観するしかなかった――斬れなかったその刃が、今ようやく彼に届く時が来た。
風が走る。
音もなく凛音の身体が飛び出した。黒髪が翻り、白い地面をかすめながら、矢よりも早く目標へ迫る。その異変に、ようやくデイモンが気づく。
視線がぶつかる。その瞬間、彼の表情が初めて揺らいだ。
遅い。
刃が閃いた。足音すら残さず、凛音は一直線にその懐へ飛び込む。そして、低く、呟くように言った。
「……これで、あなたにはもう、手を出させない。」
その言葉が終わると同時に、月牙の刃が彼の胸元を真横に裂いた。返り血が空を舞い、雪と混ざって静かに沈む。デイモンは声を発することもできず、その場に崩れ落ちた。
「……そなたが手にかけたのは、蒼霖国の第二王子。――その重さ、理解しているのか?」
天鏡国の女王の声は、どこまでも澄んでいながらも、その響きには鋭さと叱責の色が滲んでいた。
その瞬間、星宮の穹頂に再び異変が走った。
銀砂の絵巻がざわめき、ひとすじの黒い亀裂が映像の中心を走った。未来という名の水面に、小石が投げ込まれたように。
「……今、何かが変わった?」
白虎が低く呟く。
銀砂の流れが不規則に跳ね、映し出された凛音の足元に、暗い影がじわじわと広がっていく。運命の歪みか。
それは、本来なら十二年後に解かれるはずだった玄武の封印が、過去の凛音の手によって――誰にも気づかれぬまま、ひそやかに解けはじめた兆しだった。
「また……何か、見えてくる!」
星官の一人が息を呑む。
絵巻の中、走馬灯のようにうつろう映像の中で、ぼんやりと淵礼の姿が浮かび上がる。本来歩むはずだった道が、誰の手にも届かぬ彼方へと薄れていく。 記憶を失い、名を伏せ、沈黙の歳月を生きたその運命が、まるで書き換えられていくように――
天鏡国の重兵たちは、凛音の両腕を背後にねじり上げ、そのまま容赦なく地面に押さえつけた。
膝をついた凛音の顔は蒼白に染まり、瞳には困惑と怒りが入り混じっていた。
「なぜ……デイモンがあれほどの罪を犯し、未来に血の川を流すと知っていながら、それでも尚、淵礼を奪おうとするのですか!」
四国の平和を標榜するその者に、凛音は正面から問いを投げかけた。
女王はその場に立ったまま、微動だにせず、澄んだ声で応じた。
「玄武が雪華国で目覚めた――それは、揺るぎのない事実。そして、そなたの現れがその運命を早めたのだ。一つの国に、二柱の神獣は共存できぬ。」
ゆっくりと歩を進めた女王は、凛音を押さえていた兵たちの前で、手をひと振りした。
「彼女は、自ら武器を捨てた者。剣を向ける理由など、どこにもない。ましてや……その者の正体すら知らずに、手をかけるつもりか?」
兵たちは顔を見合わせ、一拍の静寂ののち、戸惑いながら手を放した。
女王は静かに膝を屈め、地に落ちた月牙の刃を拾い上げる。
「この剣を使ったのは、天鏡国でも祖母ただ一人だけ。白虎がこれを託したのは、きっと時を越えた私への手紙なのだろう……だが、それでも私は、歩みを止めるわけにはいかぬ。」
そう言って、女王は剣を凛音に返す。
その眼差しは、言葉より雄弁に、揺るがぬ意志を示していた。
「私は、雪華国の第一王子を、自ら蒼霖国へ届ける。誰の手にも堕とさせぬために。今はまだ、そなたが迎えた過去は何も語ってはおらぬ。だが、これから迎える未来は――少なくとも、蒼霖国の未来は、きっと変わるはずだ。」
凛音は、かすかに震える手で剣を受け取り、そっと問いかけた。
「……雪華国の未来も……変わるのでしょうか?」
女王は答えず、ただ南宮洵の方を見やった。
その男は、沈黙のまま立ち尽くしていた。
「私は未来を読む力を持たぬ。だからこそ、なすべきはただ一つ――この務めを全うし、その先に何があろうとも、この目で最後まで見届けよう。」
銀砂のゆらめきの中、ほんの一瞬だけ、別の映像が浮かび上がった。
巨大な甲羅を持つ黒い影のそばで、一本の木剣を振るう少年。
楽しげに笑いながら、何度も構え、何度も空を斬っている。
その顔は――どこか、穏やかで、あたたかかった。
①作中登場する「穹頂」とは、星宮の天井部分を指しています。
その天井は、ただの屋根ではなく、星を観るために造られた透明な観測構造で、古代の技術によって作られた特別な晶石やガラスで覆われています。
天に最も近い場所――それが、この「穹頂」。星と時の声が、そこから世界へと降り注いでいるようなイメージで描きました。
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小さな後書き:
今回のお話、個人的にとても気に入っています。過去と未来が交錯するように、九つの場面を交互に描いてみました──小さな伏線と、小さな願い。ちゃんと、届いていたら嬉しいな。




