139 逆流
「凛音! 白瀾国の者も――鳥も――決して信用するでないぞ!」
「えっ、な、なに? どうしたの、浮遊……急にそんな……」
「……朱雀は、ずっと周囲に嘘を吹き込んでおる。あやつが命を落としたその日などと申しておったが――ふん、白々しいにも程があるわ。」
凛音は、なんとなく察していた。
雪華国の滅びの裏には、あまりにも多くの嘘が絡んでいたから。
そして、浮遊の怒りを前に、苦笑しながらこう言った。
「でもさ……だからって、蓮を部屋の外に締め出すのはちょっと可哀想じゃない?彼は嘘、ついてないし」
そう言って、凛音は扉を開ける。
「つ、ついてない!? あやつは過去に別の名でそなたを欺いておったのだぞ!!」
ちょうどそのとき、雲を掻き分けるように蓮が部屋に入ってきた。
「浮遊、どうしたの? なんか怒ってる?」
「全く……白瀾国には、真を語る者すらおらぬか!朱雀、とっくの昔に目覚めておったわ!そして……お主の父こそが、その契約者だったのじゃ!!」
そのときだった。
突然、火光が四方に走った。
一瞬にして、真っ直ぐ立ち上がる炎が壁のようになり、凛音、蓮、そして浮遊を包み込んだ。
その火の壁は、ゆっくりと上へ伸びていき、やがて円を描くように天井を覆い始める。まるで炎の鳥籠の中に閉じ込められたかのようだった。
「朱雀のやつめ……」
浮遊は火壁を睨みつけ、あきれたように鼻を鳴らした。
さらに、火を帯びた羽根の矢が再び降り注いでくる――
だが、今回は浮遊の出番ではなかった。
凛音がすっと月牙の刃を引き抜くと、
くるりと刃を旋回させ、迫りくる火矢のすべてを叩き落とした。
――その様子に、火の壁の向こうから声が届く。
「すごいなあ……」
悠々と、南宮洵は燃えさかる火の中を歩いて現れた。
まるで炎を従えるように、火壁をすり抜けて――
蓮は思わず一歩踏み出し、凛音の前に立ちはだかった。
「下がれ、愚息よ!」
南宮洵の声が、炎の揺らめく室内に響き渡った。
「……なぜ、それを……」
「『なぜ朕が、おまえを我が子と見抜いたか』と訊きたいのだろう?ならば教えてやろう――その娘の腰にある玉佩、あれはかつて朕が、我が息子・蓮に与えたものだ。」
南宮洵は蓮を軽く突き飛ばし、腰の剣を引き抜くと、すっと凛音に刃を向ける。
そして、一度も振り返らずに告げた。
「それに……おまえの面差しは、若き日の朕に瓜二つだ。」
「ならば、なぜ彼女が私の最愛の人と知っていながら、あのような危険に晒した!?
なぜ彼女を牢へ閉じ込め、罠へと追い詰めた!」
蓮の叫びは、目の前にいる南宮洵だけではなく、十二年後――凛音を監に閉じ込め、太后を失脚させるために彼女を利用した、「あの」南宮洵に向けられたものでもあった。
凛音は、手で刃を握った。
血が一滴、また一滴と、静かに床に落ちていく。
「私の前で、父子の情でも演じてるつもり?私はこれから父も母も失っていくのに――さっきあなたが『最愛の雪ちゃん』と呼んだのは、この私よ。」
その言葉に、南宮洵の目が揺れた。
驚き、戸惑い、そして信じたくないという色が浮かぶ。
「……嘘、だろ……」
――「千雪」が目の前に立っていることに、動揺しているのか。
それとも、この私が両親を失うという未来に……怯えたの?
「嘘?そうね。嘘があるとすれば、私はもう『雪ちゃん』なんかじゃない。家族も、国も、名前も――全部、失ったんだからね。」
その瞬間、南宮洵の手から剣がこぼれ落ち、乾いた音だけが、部屋に響いた。
同じ頃、天鏡国・星宮。
「……あっ!」 星官の一人が、ほとんど悲鳴のような声を上げた。
中央に鎮座する「星光の玉杯」が、ひときわ強くきらめいたかと思うと――
次の瞬間、鋭い音とともに、ひびが走った。
「星杯が……砕けた?」
信じがたい光景に、誰もが息を呑む。割れた杯の中から、千年銀砂が逆流しはじめた。まるで、空へ向かって時を巻き戻すように、白く輝く砂が、天へと吸い上げられていく。
「銀砂が……逆流!?な、何が起きている……」
観宿台に設けられた八方の星宿盤も、次々に異常を示し始める。
星辰の位置が、ずれていた。本来の光に重なるように、別の星の軌跡が揺らぎながら重なり、まるで二重写しのように乱れていく。
「女王陛下がいない!」
「星の観儀が始まる直前だったはずなのに……」
誰かがそう叫ぶ。
だが、女王の玉座は空のままだった。
ただ一枚、薄い白布だけが風に舞っていた。
その布の端には、血のような色で書かれた、ひとつの文字。
『未』
そのとき――
白銀の獣が、夜空を裂くようにして舞い降りた。
星官たちは思わずひれ伏す。
その中を、白虎はゆっくりと歩み出て、砕けた星杯を一瞥し、そして静かに呟いた。
「……『過去』にいる凛音が、何かを変えたのだ。」
彼は夜空を仰ぎ、わずかに目を細めた。
星々の光は、どこか歪みながらも、なお燃えている。
「星の運行が狂い、未来の錨が……外れ始めている。このままでは、『未来』という名の現在すら、崩れ去るぞ。」
その声には、揺るぎない重みがあった。
誰も、言葉を返すことができなかった。
また、同じ頃――過去の雪淵閣。
淵礼はふいに足を止め、額に手を当てた。針のような痛みが頭の奥を突き刺し、視界がぐらりと揺れる。次の瞬間、まるで走馬灯のような光景が脳裏に閃いた。
白い雪原。夜風が吹き、月が静かに照らす中、ひとりの少女が雪の上に倒れている。
雪に濡れた白い髪、閉じられた目元はどこか安らかで、その顔は――凛音だった。
「……凛音様?」
思わず名を呼んだ直後、ふたたび激しい頭痛が彼を襲った。視界がぐらつき、像の上に「何か」が重なるように、けれど微妙にずれて、静かに溶けていく。
紅い衣。
華やかなはずの緋が、雪へと滲んでいく。
声もなく、手も動かず、ただ静かに崩れ落ちていく――そこにいたのは、小さな少女。
今度は、間違いなく、いつも自分のそばで笑っていた、あの妹、千雪だった。
さっき見た雪の中で倒れていた凛音の姿と、いま目の前で重なって見えるのは、まだ失われていないはずの、大切な家族。
何が起きているのか、彼には分からなかった。けれど、知ってはならない何かを、これから自分が迎える運命の一端を、この瞬間、ほんの一瞬だけ垣間見てしまった気がした。
ただひとつ確かなのは――そのときから、淵礼の中で、時の歯車が静かに軋み始めたということだった。




