135 二人の嘘、とある再会の形
「洛先生、昨夜はよくお休みになれましたかな?」
それは何気ない朝のご挨拶――けれど、蓮の顔はぽっと赤く染まった。
だって、昨夜は凛凛と初めて、一晩中ふたりきりだったんだ。
これまでも野営で一緒に過ごしたことはあったけど、そのときは他にも人がいたし……
だって、部屋中が凛凛の匂いで満ちてて、淡くて、ほんのり甘くて、それでいてどこか薬草の香りもして。
今までも彼女の近くにいたことはあるけど、あんなふうに――心がくすぐったくなるような匂い、初めてだった。
だって、眠ってる彼女を少し離れた場所から見てただけなのに、胸がドクンドクンして、目を逸らさなきゃって思っても、どうしても目が離せなかった。
「礼に非ざれば視ること勿かれ、礼に非ざれば聞くこと勿れ」って言うけど……あの、小さく整った寝息まで耳に残って、もうどうしようもなかった。
「……洛先生? どうかなされましたか。お顔がずいぶん赤いようですし、まさか風寒の兆しでも――」
「い、いえっ!滅相もございません!つい先ほどまで薬草を煎じておりまして……その湯気のせいで、ほんの少し火照ってしまっただけです。どうぞご心配なく!」
蓮はすでに雪華国の衣装に着替えていた。
霄寒たちがわざわざ用意してくれたのだろう。保温性のある柔らかな毛皮に、まるで墨をにじませたような水墨模様の絹布が縫い込まれている。
通常、雪華の民は帽を被ることが多いが、蓮の髪型に配慮してか、淡い水色の刺繍を施した毛の髪包が添えられていた。
「陛下、このたびはご丁寧に衣をご用意くださり、誠にありがとうございます。身に余るご配慮、感謝に堪えません。身を尽くしてお力添えできるよう努めさせていただきます。」
蓮は深く一礼し、やや言葉を選ぶように問いかけた。
「……ただ、一点だけ、気がかりがございます。姫君の御病、あまりに急に発して、またあまりに急に癒えました。陛下に何か、お心当たりなどございませんか?たとえば、雪華国には『万病を癒す』という雪蓮の伝承があると聞き及びましたが――もしかして、あの薬草をお使いに?」
その問いに、霄寒の身体がほんのわずかに強張った。
(まさか……青龍と、何か……?)
そう思いながらも、表情ひとつ変えず、かすかに首を横に振った。
「いいえ、雪蓮は用いておりません。おそらくは、洛白先生のご診立てが的確であったのでしょう。」
「とんでもない。身に余るお言葉、恐れ入ります。」
蓮は再び恭しく頭を下げた。
そのとき、清遥が外から慌ただしく駆け込んできた。
「洛先生、大変です。城門の前で、ひとりの女性が倒れておりました。衣には刃物による傷があり、血が雪を真紅に染めております。門を守っていた兵たちが急ぎ知らせに参りましたが――その方、意識が朦朧とする中、ずっと洛白先生の名を呼んでいたそうです。」
蓮は驚きに目を見張った。
「洛白」の名を呼ぶ者――まさか、凛凛!?
すぐさま清遥の前に進み出て、深く一礼しながら叫んだ。
「どうか、王妃様。あの方のもとへ、すぐにお連れいただけますでしょうか!」
蓮が駆けつけたときには、凛音はすでに客間の寝台に移されていた。
唇の色は、血の紅から淡い桜色へと戻りつつある。
「凛凛!」
演技を忘れた蓮は、思わず駆け寄って床脇に膝をつき、凛音の腕の傷口をそっとめくって診察を始めた。
「洛先生……この方は、どなたですの?」
「妻です!なぜここにいるのか、どうしてこうなったのか……私にも分かりません!」
清遥がすぐに近づき、凛音の背を支えながら、治療しやすいよう姿勢を整えてくれた。
「ありがとうございます、王妃様。」
凛音は、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。
顔からは血の気が引いているが、目だけはしっかりと蓮を捉えている。
「洛白……母が亡くなって……白瀾には、もう私ひとりしかいなくなって……だから、あなたを探しに来た……」
そう言いながら、彼女は弱々しく蓮の衣の袖を握りしめる。
蓮にはその演技の意図が分かっていた。けれど、そんな理屈よりも、今は――その姿が、あまりにも痛々しくて、ただ胸が締めつけられた。
「もういい、今は話さなくていい。」
そう優しく言って、そっと彼女の手を包み込む。
やがて蓮が傷の手当てを終え、清遥と共に部屋を後にした。
廊下に出たところで、蓮は深く頭を下げた。
「妻がこのような姿になってしまい……見るに耐えません。なぜこうなったのか、私にも分かりませんが――どうか、陛下と王妃様のお慈悲により、彼女にしばしの療養の場をお許しいただけないでしょうか。回復次第、私ども必ず謝罪に参ります。」
その言葉を聞き、清遥の胸に、どこか他人事とは思えぬ痛みが走った。
年若くして母を亡くし、異郷でひとり助けを求める少女――その姿に、心が揺れた。
「構いませんわ。彼女にはしっかり休んでもらってください。おふたりとも、どうか気兼ねなく、この宮でお過ごしくださいな。」
そう言うや否や、清遥は侍女たちに凛音の衣や食事の用意を命じた。
蓮は部屋に戻るなり、扉をぴたりと閉めると、そのまま凛音の傍らへ駆け寄った。
「……凛凛は、本当に……無茶をしすぎだ。いくら両親に会いたかったとはいえ、ここまでするなんて……」
凛音の手首をそっと持ち上げ、彼は包帯の巻かれたあたりを慎重に指先で確かめる。
その目は、怒りではなく――ただただ深い痛みと心配に満ちていた。
「本気で、自分で傷をつけて……誰にも気づかれないとでも思ったのか?そんな無茶……」
滅多に聞かない蓮の叱責に、凛音はほんの少しだけ肩をすくめ、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね、蓮。本当は、ちゃんと相談しておくべきだったよね。でも――傷のことなら、洛白ほどの名医でない限り、誰も気づかないと思ったの。」
蓮はその言葉に応じることなく、ただ黙って彼女の体を見つめる。白い布の下から滲む淡い紅に、心が締めつけられる。
「……痛むだろう。浮遊を呼んで、ちゃんと治療してもらえ。私にできるのは止血までだし、痛みまでは取れない。治るまでは……まだ、しばらくかかる。」
「平気だよ。痛くない。そして、浮遊は、呼ばない方がいい。もしも誰かに気づかれたら、それこそ不自然だから。」
凛音は微笑みながら、そっと蓮をなだめるように言う。だが、その目の奥にはふと陰が差し――小さく続けた。
「それにね……こっちに来てから、浮遊を呼んでも――一度も、出てきてくれないの。」




