134 帰辰と流年を計らず
「但求風裡同舟渡,
不計歸辰與流年。
此生不負山川遠,
只願星沈共你盼。
但風の里に同に舟して渡るを求む。
帰辰と流年を計らず。
此の生山川の遠きに負けず。
只星沈みて君と共に盼つことを願う。」
月は朧に霞み、星は天にきらめいていた。
柔らかく、水のように優しい、それでいてどこか人を引き込むような声が響くと、まるで風さえも穏やかに変わったかのようだった。
「蓮、どうして突然、詩なんか詠むの?」
蓮はその問いに答えず、静かに凛音のもとへと歩み寄り、そっと彼女の手を取った。
「凛凛、私たちが戻るのが、いつの時間か……知ってるの?」
凛音は小さくうなずいた。
「うん。確かな自信はない。でも……おそらく、私が四歳のときに未来の夢を見た、あの夜じゃないかと思う。」
「どうしてそう思うの?」
「玄武は、陰陽の均衡と時間の流れを司る神。それなのに、わざわざ白虎を探せと言ってきた。ということは……これは、私の失われた記憶と深く関わってるってこと。」
二人は、一歩も動いていないはずだった。
それなのに、足元の銀砂は、いつの間にか真っ白な雪へと変わっていた。
同じく空に浮かぶ月なのに、今はもう――木々の影と楼閣の間で、ほのかに揺れて見えていた。
「ここが……十二年前の雪華国なのか?」
どこか興奮を帯びた蓮の声。しかし、凛音は答えず、口元にそっと指を当てて黙るように合図し、すぐ上を指差した。二人は静かに屋根の軒先へと身を潜める。
不意に凛音が蓮の腕をひねると、蓮は思わず口を押さえながら、声にならない悲鳴を漏らした。
「……実体がある以上、周囲には普通に見えてるはずだ。下手に動けば目立つ。状況によっては、立ち回りを考える必要があるな。」
凛音は無言で首を横に振った。
「ううん。宮廷の中に入らないと。蓮、あなたは『洛白』の身分を使って潜り込んで。四歳の千雪が、ちょうど熱を出して寝込んでるはずだから。」
「……なるほど。随分と大胆な手を打ってくるな、凛凛は。」
かつての雪華国の王宮は、凛音が一年前に見たそれと、見た目こそ変わらぬものの、どこかまるで別物のようだった。
氷に閉ざされることもなく、陰鬱な空気に覆われることもない。
風雪の中にあっても、そこには仄かな灯りと人の気配があり、温かさと明るさが漂っていた。
背後に灯る万家の灯火が、すべてを幻のようでいて、どこまでも現実的に感じさせた。
蓮は「トントントン」と宮門を叩いた。
「ご無礼をお許しくださいませ。私は白瀾国より参りました医者、洛白と申します。陛下のご命により、研鑽のため拝謁を賜りたく、参上いたしました。」
侍衛たちが慌てて門を開けに来る。
蓮はそれらしく恭しく一礼し、懐から腰牌を取り出して差し出した。
「こちらは白瀾国の陛下より賜りました腰牌にございます。何卒、雪華国の陛下へお取り次ぎいただけますよう、お願い申し上げます。」
やがて侍衛や宮女たちが次々と現れ、蓮を先へと案内した。
「陛下、ご機嫌麗しゅうございます。白瀾より参りました洛白と申す医にございます。数日ばかり貴国に滞在させていただくにあたり、非礼を避けるべく、まずはご挨拶に参上いたしました。」
霄寒はその目を細め、蓮の一身の白衣をさっと見やる。
衣には血の跡があり、旅の汚れもまだ目立っていた。
「腰牌はたしかに弟君のものであるが……そなたの衣には、なぜか血の痕が多く見えるが?」
蓮は深々と頭を下げ、慎ましく答えた。
「お答え申し上げます。道中、雪原にて瀕死の狼を見かけ、哀れに思い手当てをいたしました。その際に付いたものでございます。何卒ご容赦いただけますと幸いです。」
「そうであったか……よろしい、顔を上げなさい。今すぐ、洛先生のために着替えを用意させよう。」
霄寒はそう言いながら、自らの手で蓮を支え起こした。
「ちょうど良い時に来てくださいました。娘が本日、少々風邪をこじらせておりまして……診ていただけますかな?」
「洛白、微力ながら尽力いたします。お役に立てれば、これ以上の光栄はございません。」
こうして蓮は更衣を済ませ、案内されるまま千雪ちゃんのもとへと急ぎ足で向かった。
「姫殿下は、やはり風寒による感冒のようです。頭がぼんやりして熱があるのに、汗が出ておらず、鼻詰まりも見受けられます。少量の麻黄の服用をお勧めしますが――まだお年が幼いため、甘草、杏仁、桂枝などをあわせて用いる必要がございます。適宜、分量を整えたうえで、お薬をお作りいたします。当座は、外関、列缺、風池の各経穴への鍼治療を行わせていただきたく存じます。」
「……では、どうぞよろしくお願い申し上げます。」
清遥はにこやかに微笑み、すっと身を引いて浅く一礼した。
一時間ほどして、蓮はようやく一人、用意された客間で休めるようになっていた。窓辺に腰を下ろし、懐から笛を取り出して、吹き始める。
ほどなくして、窓枠の外にそっと人影が現れた。凛音だった。蓮はすぐに立ち上がり、窓も扉もきちんと閉め直す。
「蓮、いきなり陛下の命で来ましたって言っちゃって……大丈夫なの?」
「私ひとりで王宮の門を叩いたんだ。あれくらい言っておかないと、信じてもらえなかっただろう。それに、父上が自らここまで来る理由もない。うまく通ったなら、それでいい。」
凛音は小さく頷いた。
「それにしてもさ――凛凛の小さい頃、あれ反則でしょ。ふわふわの丸顔に、熱で真っ赤なほっぺ。もう、りんごが二つ乗ってるみたいだった。」
凛音の頬が一瞬で赤く染まる。
「私は蓮に潜入して情報を探れって言ったはずなんだけど? どうだったか、早く教えてよ。」
「そのお父上さ、本気で演技してなかったとしたら……ちょっと良い人すぎるよね。雪の夜、あんな冷えた外で倒れかけた狼を助けに行くなんて。それを信じる方もどうかと思うけど。」
「うん、そういう人じゃないと、あんなにあっさり国ごと騙されたりしないよね。」
蓮の顔に、一瞬だけ、何かが刺さるような表情が浮かぶ。だがすぐに笑みに戻り、凛音の頭をそっと撫でた。
「凛凛、ごめん。私が言いたかったのは、君のお父上が、本当に優しい人だったってこと。お母上もそう。血に汚れた私を、何も問わずに受け入れて、娘の診察まで任せてくれた。もしそれがただの社交辞令だったなら、大切な娘を私に預けたりはしないよ。」
凛音はただ、何かを思うように蓮を見つめていた。
「凛凛、あと一年。何が起きても、一緒に乗り越えていくよ。」
後書き:
物語の冒頭で蓮が詠んだ漢詩は、実は蓮と凛音、二人のために私が書いた詩です。
作中では一部しか登場していませんが、全文と訓読・和歌風のバージョンは下記に掲載しています:
https://kakuyomu.jp/works/16818622171416398754/episodes/16818622172400665749
もしお楽しみいただけたなら、嬉しく思います。




