133 月牙の刃
夜の帳が静かに降り、天鏡国もまた、夢の中へと沈んでいく。風はすでに息をひそめ、ただ砂海が静かにうねり、銀の波のように月光を受けてたおやかに揺れていた。満天の星々は、まるで天に散りばめられた玉石のごとくまたたき、地に広がる銀砂と照り映えて、天地の境さえ曖昧に感じられる。
この果てしなく広がる星と月のもと、俗世の喧騒はどこまでも遠ざかり、ただ静寂と光だけが残っていた。凛音、蓮、そしてアイの三人は砂丘の頂に立ち、天を仰ぎ見ていた。星は手のひらに落ちてきそうなほど近く、月はまるで前世の影を映し出すかのように輝いていた。
「それで、凛音ちゃんと蓮は一緒に雪華国の過去へ戻るの?」
「うん……本当は一人で行こうと思ってたんだけど、もう何を言っても無駄みたい。」
蓮は何も言わず、ただ満ち足りたように微笑んでいた。
「で、どうやって戻るの?」
とアイが目を丸くして尋ねる。その言葉は、凛音でも蓮でもなく——
「白虎、もう拗ねるのやめてさ、ちゃんと教えてよ〜」
白虎はどこからともなくひょいと姿を現した。だが、それはここ数日のような巨大な姿ではなく、まるで小さな白猫のように姿を変えて、凛音の胸元へと飛び込んできた。
「うわっ、白虎ずるい!記憶の番人だなんて言っておいて、めっちゃ甘えん坊じゃん。いいなぁ、僕も凛音に抱っこされたい〜」
アイの言葉が最後まで届く前に、蓮の拳がぽすんと彼の頭に落ちた。
しかしアイは気にする様子もなく、逆に顔を上げて蓮を見つめた。
「ねぇ……もしかして、こうして三人でいるの、これが最後なのかな?」
だが、凛音と蓮が口を開くよりも先に、白虎がぽつりと呟いた。
「過去に戻る方法なんて、俺にもわからない。四歳の凛音がどうして夢の中で未来に行ったのかも……それも知らない。ただ、一つだけは確かだ――凛音に死んでほしくなかったのは、俺だけじゃない。玄武も、青龍も、そう思っていた。」
凛音はそれを聞いても、何も言わなかった。ただ、白虎の頭を静かに撫で続けていた。
「なんかさ……ちょっと皮肉だよね。こっちは悲劇だらけの凛音ちゃんで、そっちは神様たちに守られてる凛音ちゃんなんてさ。」
アイのその言葉が終わる前に、蓮の拳がまたぽすんと彼の頭に落ちた。そして、慌てて口を挟む。
「人の悲しみや喜びは、それぞれに異なるものだ。苦しみの中にこそ、希望が芽生えることもある。」
「うんうん、それ! それが言いたかったの!」 アイはケロッと笑って、自分の頭をぽりぽりと掻いた。
「雪華国が悲劇だったことは否定しない。でも、それを自分の悲劇だとは思っていない。私を守ってくれた人たちが、ちゃんといたから。」
そう言って、凛音は小さく首を振る。
「人だけじゃなくて、神様たちも。浮遊、白虎、朱雀、玄武……みんなが、少しずつ手を貸してくれた。だから、前を向くのも、振り返るのも、もう怖くない。ただ、私は自分にできることをやりたいだけ。」
凛音はふっと笑みを浮かべ、さらに言葉を続けた。
「それに……誰かに守られてばかりの役なんて、つまらないと思わない?自分の幸せは、自分で掴みたい。自分の正義は、自分で貫きたい。そして、自分の過去は――自分で決着をつけたい。」
突然、どこからともなく鋭い風を裂く音が響いた。
蓮が即座に反応し、扇で何本かの銀針を弾き飛ばす。扇の骨が鈍く響き、砂に刺さった針が月光を受けてきらめいた。
同時に隣にいたアイの腕を引っ張って下がろうとする蓮の動きを制し、凛音が前に出る。
「白虎!アイ君を連れてすぐに離れて!あんたみたいな巨体じゃ、この銀針は避けきれない。アイも戦えない……ここは任せて!」
白虎は小さく舌打ちしながらも、次の瞬間には白猫の姿を解き放ち、巨大な虎の本体へと戻る。その口でアイの襟首を咥えると、一声も発せず夜の砂丘へ駆け出していった。
その直後、砂が「ぱふっ」と音を立てて宙に舞い、月光の届かぬ陰影の中から複数の人影が飛び出す。
全員、顔を布で覆い、無音で迫る。手には短刀、刃には毒が塗られているかのように不気味な黒が走る。彼らの狙いはただひとつ――命。
「凛凛!」
「わかってる!」
背中を合わせて構える凛音と蓮。
凛音の腰の刃が抜かれ、月光に照らされると、雪の結晶のように白く、冷たい光を放った。
蓮も腰の剣を抜き、舞うような動きで迫る刺客の一撃を受け流すと、そのまま刃を滑らせて反撃に転じた。
敵の一人が凛音へ向けて一直線に跳びかかってくる。
凛音はその動きを一瞬で読み、身体をひねると同時に刃を水平に払った。
銀の光が走り、砂の上に紅が咲く。
そのままの勢いで、もう一人の敵の腕を弾き飛ばし、短剣を蹴り飛ばして転がす。そして咄嗟にその男の首元に刃を突きつけ、身動きを封じた。
「誰に命令されたの……!」
だが、男は答えなかった。凛音の目をまっすぐ見据え、一瞬だけ何かを堪えるように唇を結んだ。次の瞬間、「チッ……!」と吐き捨てるように呟き、バキッという音とともに、舌を噛み切って崩れ落ちた。
その間にも、砂煙の中から次々と敵が現れた。
動きは先ほどよりもさらに鋭く、間合いの詰め方も容赦がない。
まるで、生き残りを一切許すつもりがないかのような殺気が、夜気の中を満たしていく。
「……全員、本気だな。どこかで見ている奴がいるかもしれない。」
蓮は短くそう言い、構えを低くした。
その時、凛音の耳に――白虎の声が風に乗って届いた。
「凛音。もういい。お前は行け!」
「白虎!」
「俺はアイを守る。それでいい。お前は、もう迷うな!」
その声は深く、優しく、どこまでも真っ直ぐだった。
「アイが言っていたことも、あながち間違いじゃなかった。お前は、生まれた時から四神の加護を受けていた。それが何を意味するのかは、過去に戻ればきっと分かるはずだ。玄武が道を開いた。それは、俺への“文”だったのかもしれない。お前は朱雀の玉佩、青龍の雪蓮、玄武の剣簪をすでに手にしている。そして今、俺からはこれを託す!」
月光の中、白虎がひときわ鋭い咆哮を上げると、銀の閃光が空を裂いて凛音のもとへ飛んできた。それは――淡い光をたたえた、白く細い三日月のような刃。
「これは、月牙の刃。かつて誰にも譲らなかった、俺の牙の化身だ……今は、お前の道標にしてくれ!前を向け!」
白虎の声が途切れた瞬間、凛音と蓮の周囲に強烈な光が走った。空間がねじれ、砂と月光が渦を巻く。過去へ――きっと、あの夜へと戻るための光だ。
だがそのとき。
「……まだ、終わってない。」
右手には月牙の刃、左手には千雪の刃が握られている。凛音は両腕をわずかに下げ、つま先に力を込めると、光の輪を突き破るように跳び出した。
蓮が名を呼ぶよりも早く、凛音の身体は砂を蹴って宙を舞い、刺客の只中へと飛び込む。
一人の刺客を蹴り飛ばし、その背を踏みつけて跳び上がる。空中で身体をひねり、両腕を広げて旋回する。二振りの刃が月光を受けて交差し、鋭く煌めいた。
双刃は風を裂き、喉元と胸元を寸分違わず貫く。息をつく間もなく、数人の刺客が次々と崩れ落ちた。
着地と同時に、最後の一人の首元に千雪の刃を突き立てる。凛音は静かに息を吐き、足元の砂を踏みしめながら、真っ直ぐ前を見据えた。
「私は――絶対に、天鏡国の純白無垢な命を……お前たちなんかに、指一本触れさせない。」




