132 月隠の角宿、帰辰の光
凛音は観宿台の上に立っていた。星台の中央には玉石で作られた杯状の器が嵌め込まれている。これは代々の星官が宿を観て命を問うために用いたものである。内部には常に千年銀砂が満たされており、普段は沈静しているが、占を行う際には新たな銀砂を注ぎ、星象の移ろいを映すのだ。
台の外、八方には柱が立ち、鈴玉が吊るされていた。風もなく、音もない。
女王は階上にたたずみ、銀砂の入った盒をそっと持ち上げると、その一握りを星光杯へと静かに注いだ。銀砂が杯に入ると、杯面は微かに光を放ち、星の紋様がゆらゆらと浮かび上がる。そこには、まるで月の光が宿っているかのようだった。
「そなたの生まれた刻は、記しておるか?」
凛音は目を上げ、少し躊躇いながらも落ち着いた声で答えた。
「……五歳以前のことは、記憶にございません。養い親が記した生まれ時も、あくまで推測に過ぎぬものです。」
女王は頷き、言葉を発さなかった。やがて、自ら一本の指ほどの長さのある銅の匙を手に取り、星光杯の中の銀砂を撫でるように動かした。砂はその指先に従って緩やかに流れ、まるで天図が移り変わるかのように、星々が杯の中に姿を現していく。
ほどなくして、一つの星が徐々に明るさを増した。それは角宿の位置にあるはずの星だった——
だが、星の光は長くは続かず、流れ動く砂の中に呑まれ、杯の中央から満月の姿が浮かび上がった。その月が、角宿をちょうど覆い隠すかのように重なった。
女王の眉がわずかに寄る。
「……角宿、月に隠されし。」
そこで星暦を読み上げる。
「今宵、月は辰に入り、空は晴れ渡りしも、命の宿が掩われるとは、稀なる兆し。」
銀砂はさらに流れ、杯の中で星宿の図が次第に分かれていく。その中で、角宿の先に現れたのは、どの宿にも属さぬ見知らぬ星だった。一隅にひとつ、淡い光を放ち、ただそこに在った。
そして、女王の口からゆっくりと占語が紡がれる。
「角宿を月が覆い、命の星は見えず。
ただひとつ、帰辰のみが光る。魂には旧き劫あり。
命破れて帰らぬ者は、宿に星は応えず。
されど、なお星が帰ろうとするならば、必ず帰辰を生む。
道を問わば、照影の時を待つべし。
天の啓きは変えられようとも、人の心は測れぬもの。
一歩誤れば、今の己には戻れぬ。」
その声は杯の銀砂に染み入り、夜の静寂にそっと溶けていった。
凛音はただ杯の中に浮かぶ「帰らぬはずの星」を見つめていた。
扉の外に身を潜めていたアイは、思わず頭をかきながらぼやいた。
「母君の言葉、さっきからずっと……天書だよ!」
「はあ?お前、天鏡国の第一王子なんだけど? そんな寝言言ってる暇があったら、もっと真面目に書物を読めよ!」
蓮は容赦なくジト目を向けると、軽くため息をついた。
するとアイはすぐさま蓮の袖をつかみ、興味津々な顔で食い下がった。
「『命破れて帰らぬ者は、宿に星は応えず』ってさ、つまりどういう意味?」
蓮は落ち着いた声で、一つひとつ言葉を選ぶように答えた。
「命の道が一度絶たれた者、つまり……一度死んだ者のことだよ。そういう者には、もはや星宿が応じない。」
「じゃあ、その『帰辰』って何? 普通の星宿じゃなさそうだけど……」
「帰辰は宿じゃない。死者の星——あるいは、異なる軌道を持つ異星だ。」
蓮の視線は遠くの夜空へと向けられていた。
「過去に戻ろうとする者だけに、それは姿を現す。戻れるかもしれないし……また同じ道を繰り返すだけかもしれない。」
「一歩誤れば、今の己には戻れぬ……それは分かる!」
アイは女王が詠んだ最後の一節をそっと繰り返し、言葉の重さに思わず声を潜めた。
「もし間違ったら、凛音ちゃんは……もう二度と戻ってこれないってこと、だよね?」
蓮は何も答えなかった。
ただその手が、知らず知らずのうちに、ぎゅっと拳を握りしめていた。
「陛下。お久しゅうございます。蓮、ここにてご挨拶申し上げます。」
「無礼者!誰が入ってよいと許した!」
女王だけでなく、凛音もまた、蓮の突然の登場に目を見張った。
「陛下、私もまた命の星を失い、正しき宿に帰らぬ者です。凛凛と、何も違いはありません。彼女が過去へ戻るのならば、私も共に行きます。」
そう言うと、蓮は凛音の手をそっと取った。
女王は二人を見つめ、思わずふっと笑った。
「やれやれ……昔よりずっと、我がままになったようね。」
ゆるやかに玉座へと戻りながら、軽く肩をすくめるようにして言う。
「蓮。あなたがどう幻想していようと……うちの国の『月を占い、星を問う術』なんて、所詮は命占に過ぎないわ。この私に、誰かを過去へ戻すような力があるとでも?それに、白虎洞に試しの道はあるけれど、そのお嬢さん――どう見ても、簡単に妥協するような子じゃないわね。」
凛音は笑みを浮かべながら答えた。
「私はもともと、ただ従うだけのおとなしい娘ではありません。以前、浮遊を目覚めさせたときにも言いました。『試される必要なんてない』って。私は、自分のやりたいことのためにここへ来ました。試練があろうとなかろうと、成功しても失敗しても――何があったとしても、やるべきことは変わりません。」
「では、天鏡国に来たその『やるべきこと』とは?」
「天鏡国には、神をも縛ろうとする禁術があります。なぜそんな術が生まれたのか、過去に何があったのか、私は知りません。でも事実として、それは過去に少なくとも二度、玄武に対して使われています。つまり――また同じことが、貴国の神に対して起こる可能性もあるということです。」
凛音はゆっくりと胸元から、雪蓮の結晶を取り出した。
「雪蓮は青龍の力の源でした。だが、毒と血に侵され、『血蓮』として歪められた。おそらく、神を束縛するには、他の神の器物と、特定の王族の血が必要です。もし、私が『悪』だったとしたら? 血もある、器物もある、禁術もある……そのすべてが揃っている天鏡国は、まさに一番狙いやすい標的です。アイ君が罰を受けたのも――その嵐の中心に立っていたから、ではありませんか?」
女王は一瞬、身体を強く震わせた。
「……そこまで推理するとは。あなた、本当に……聡い娘ね。」
「陛下。私は、天鏡国がこの問題に対処できないとは思っていません。けれど、卑劣な策というのは、いつもこちらの想像を超えてきます。雪華国のような悲劇が、再び起こってほしくないんです。国としてでなくとも――陛下が、淵礼兄上や凛律兄様と個別に動くこともできるでしょう。民は、何も悪くありません。アイ君も、そうです。」
そう言って、凛音は深々と拱手をし、頭を下げたまま、もう顔を上げなかった。
女王は、凛音がアイや白虎のために来訪したなどとは、夢にも思わなかった。
だがその姿を見て、思わず胸を打たれた。ゆったりと歩み寄ると、そっと凛音を起こしながら言った。
「では、あなた自身は? それでもなお、過去に戻るつもり?」
凛音は短く、しかしはっきりと頷いた。
「はい。最悪の場合……もう一度、死ぬだけのことですから。」




