129 その眠りの裏
白虎は、戦争の神である。
だが、戦うことしか知らぬ者には、何ひとつ守れはしない。
白虎は、孤独の神である。
青龍が眠り、玄武が封じられ、朱雀がまだ目覚めぬ時――
ただひとり、そこに在り続けた。
白虎は、記憶の神である。
望んでも、望まなくても、黙って見届けるしかなかった。
白虎は、強き神でもある。
戦うのは、忘れぬため。
忘れぬのは、再び戦うため。
白虎の記憶は、決して死なない。
覚えている者だけが、真実を語れる。
「ねぇ、白虎ちゃん。あの夜が……私の記憶にある、最後の夜なの?」
凛音はそっと白虎に歩み寄り、いつものようにその毛並みに手を伸ばそうとした。
けれど、白虎はすっと身を引き、その手を拒むように距離をとった。
「知って、どうするつもりだ!」
白虎が低く、鋭く吠える。
「……あの夜に、戻りたいの。」
凛音は怯むことなく、淡々と言った。
白虎の目に映る彼女の姿が、ふと、笑顔を咲かせた幼い少女の面影と重なる。
「戻って、どうするんだよ……」
その声には、哀しみと未練が、滲んでいた。
「……あの夜、お前はもう二度、体験している。」
「……え?」
「忘れているだけだ。いや……忘れさせたのは、俺だ。」
白一面の雪野。
小さな女の子の影が、雪の中にぽすんと倒れた。
遠くの木陰で刺繍をしていた女がそれに気づくと、赤い長衣をひるがえして慌てて駆け寄ってきた。笑顔を浮かべながら、幼い子の体についた雪を優しく払い落とし、その黒髪にそっと手を添えて撫でる。
「さっきの舞、とても素敵でしたよ。大きくなったら、きっと綺麗な舞姫になれるんじゃないかって……母も、今でも想像できますよ。」
「じゃあ、大きくなっても、母上といっしょに踊るの!」
小さな娘がそう言うと、女は笑って指を差し出して、小さな小指と絡めた。
「うん、約束しますね。」
そう言って、女は彼女の着物を丁寧に整え、自分の首に巻いていた雪綿のスカーフを、優しくその首にかけてやった。
「……帰ろうか、千雪?」
雪の上に、大きな手と小さな手。大きな足跡と小さな足跡が並び、ぽつぽつと家路をたどっていく。
炉の火は淡い朱を灯し、乳白の帳がふんわりと垂れていた。女は娘に新しい衣を着せながら、どこか懐かしい旋律の子守唄を口ずさんでいた。それは娘に向けてのもののようであり、自分自身を慰めるようでもあった。
その指先が娘の額の髪をそっとかき上げる。けれど次の瞬間、指がぴたりと止まった。「……熱い。」
幼い娘はぼんやりと目を開けた。光が遠のいたり近づいたり、音は水の中から聞こえてくるようで、世界全体が、ぬるく重たい霧に包まれているようだった。
外から、誰かが慌ただしく駆け寄る音がした。
父が駆けつけた頃には、彼女の意識はすでに沈みかけていた。
再び目を開けたとき、彼女は一本の柱の陰に身を潜めていた。
視線の先では、満開の雪蓮の前に母が立っていた。
その手には、紫色の液体が入った小さな瓶。母は泣きながら、黙ってその液を花に注いでいた。背後には、ひとりの男の姿。何かを話しているようだが、言葉は届いてこない。
まもなく、母は長剣を手に取った。涙を流しながら、それを胸元に深々と突き立てる。
柱の陰でそれを見ていた千雪の体が小さく震え出す。
声にならない嗚咽が喉に詰まり、ただ涙だけが頬を伝った。
逃げたい。けれど足が動かない。
そのとき、父が駆け込んできた。
「父上!早く、母上を助けて!」
千雪はようやく声を振り絞り、父に向かって走り出す。
抱きしめてほしかった。でも、腕をすり抜けてしまった。
彼女の存在に、誰も気づかない。誰にも、声は届かない。
呆然と振り返ると、父が母の体から剣を引き抜き、それを自らの喉元に構える。そして——振り下ろした。
鮮血が飛び散る。空気が破裂するような音が耳を打ち、世界の色がばらばらに砕け落ちていく。白銀の雪が、一気に真紅に染まった。叫びたくても、もう声は出なかった。ただ大きく見開いた目から、熱い涙が流れ落ちる。胸の奥で何かが引き裂かれ、千雪はよろめきながら走り出す。
けれど、すでに雪景色は彼女の足元から崩れはじめていた。
氷が割れるような音が空間に満ち、音と光と衝撃が彼女の意識を引き裂く。
次の瞬間、力を失った体は、まっすぐに虚無の中へと落ちていった。
「まったく、とんでもないお姫様だね。未来まで来るなんて。」
白虎はゆっくりと少女に歩み寄り、ぺろりと頬を舐めた。そしてその首元の衣をそっとくわえ、ひょいと背中に乗せてしまう。
「まったく、玄武め、自分から来といて封印されるなんて。青龍も……せめて自分の姫くらい、ちゃんと守ってほしいもんだよ。あーあ、まったく、面倒ごとばっかりだ。」
白虎は千雪を背に乗せたまま、雪の上をとことこと歩いていく。
「さて、どうしたものかな……」
ぐるぐる悩みながら、雪原の中を何周も歩き回る。やがて、一本の木の根元に千雪をそっと降ろし、大きな肉球で少女の頭を優しくぽんぽんと撫でた。
「……忘れるんだ。忘れれば……生きていける。」
その瞬間、千雪がぱちりと目を開けた。無意識のまま白虎の毛皮に手を伸ばし、ぎゅっと掴む。
「……あったかい……虎……きれい……」
白虎は少しだけ笑みを浮かべた——だがその笑顔の余韻も束の間、血のように赤い記憶が、少女の中で一気に甦る。
「……母上っ……父上っ!」
千雪は跳ね起きると、よろよろと立ち上がり、雪の中をふらふらと宮殿の方へと駆け出した。転んでは起き、片方の履きものが脱げて、裸足のまま雪を踏みしめ、足跡のひとつひとつが血に染まっていく。泣きながら、何度もつぶやきながら、ただひたすら前へ。
だが——宮殿の門が見えたその瞬間、何か透明な壁にぶつかるように、千雪の体がふわりと浮き、そのまま雪の上に崩れ落ちた。
「……まだ四歳のお前に、何ができる?」
白虎はまた、のっそりと少女の傍へと歩み寄る。舌を伸ばし、傷口に触れて血を止めると、ぽつりと呟いた。
「お前の記憶を封じよう。お前は、自分の時間に戻るんだ……ごめんな。」
少女の姿は、雪の中からふっと消えた。
白虎はその場で何度かゆっくりと円を描きながら歩き、振り返って宮殿を一瞥する。
そして、雪の上に残る血の跡に視線を落とした。
小さくため息をついたその瞬間、白虎の姿もまた、静かに掻き消えた。
「千雪、起きて!大丈夫?」
目を開けると、彼女は父の腕の中に抱かれていた。
母と兄が左右に寄り添い、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「きっと、昼間雪の中で遊んでいて冷えたのだろうな。」
「母上、今度千雪が外に行く時は、僕も一緒に連れていってください。僕が背負って帰れば、足も冷えません!」
母はふふっと笑い、息子の頭を撫でた後、千雪の額にもそっと手を当てた。
「ふたりとも、なんて頼もしい我が子なのかしら。」
千雪は瞬きをしながら、胸の奥にぽわっと広がる幸福を感じた。
熱もすこし引いてきた気がする。
そして、父のぬくもりに包まれたまま、
彼女は安心しきった顔で、穏やかな眠りに落ちていった。
――その眠りの裏に、一度失われた命の記憶があるとも知らずに。
ーーーーーーーーーーー
小さな補足:
四歳の千雪が熱に浮かされた夜、垣間見た未来の一夜――
それは、第一部の第一話と第三十話に描かれた光景に繋がっています。




