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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十一章:砂塵の道、月は行方を照らす
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129 その眠りの裏

白虎は、戦争の神である。

だが、戦うことしか知らぬ者には、何ひとつ守れはしない。


白虎は、孤独の神である。

青龍が眠り、玄武が封じられ、朱雀がまだ目覚めぬ時――

ただひとり、そこに在り続けた。


白虎は、記憶の神である。

望んでも、望まなくても、黙って見届けるしかなかった。


白虎は、強き神でもある。

戦うのは、忘れぬため。

忘れぬのは、再び戦うため。


白虎の記憶は、決して死なない。


覚えている者だけが、真実を語れる。


「ねぇ、白虎ちゃん。あの夜が……私の記憶にある、最後の夜なの?」

凛音はそっと白虎に歩み寄り、いつものようにその毛並みに手を伸ばそうとした。

けれど、白虎はすっと身を引き、その手を拒むように距離をとった。


「知って、どうするつもりだ!」

白虎が低く、鋭く吠える。


「……あの夜に、戻りたいの。」

凛音は怯むことなく、淡々と言った。


白虎の目に映る彼女の姿が、ふと、笑顔を咲かせた幼い少女の面影と重なる。

「戻って、どうするんだよ……」

その声には、哀しみと未練が、滲んでいた。


「……あの夜、お前はもう二度、体験している。」

「……え?」

「忘れているだけだ。いや……忘れさせたのは、俺だ。」


白一面の雪野。

小さな女の子の影が、雪の中にぽすんと倒れた。


遠くの木陰で刺繍をしていた女がそれに気づくと、赤い長衣をひるがえして慌てて駆け寄ってきた。笑顔を浮かべながら、幼い子の体についた雪を優しく払い落とし、その黒髪にそっと手を添えて撫でる。

「さっきの舞、とても素敵でしたよ。大きくなったら、きっと綺麗な舞姫になれるんじゃないかって……母も、今でも想像できますよ。」


「じゃあ、大きくなっても、母上といっしょに踊るの!」

小さな娘がそう言うと、女は笑って指を差し出して、小さな小指と絡めた。

「うん、約束しますね。」


そう言って、女は彼女の着物を丁寧に整え、自分の首に巻いていた雪綿のスカーフを、優しくその首にかけてやった。

「……帰ろうか、千雪?」


雪の上に、大きな手と小さな手。大きな足跡と小さな足跡が並び、ぽつぽつと家路をたどっていく。


炉の火は淡い朱を灯し、乳白の帳がふんわりと垂れていた。女は娘に新しい衣を着せながら、どこか懐かしい旋律の子守唄を口ずさんでいた。それは娘に向けてのもののようであり、自分自身を慰めるようでもあった。


その指先が娘の額の髪をそっとかき上げる。けれど次の瞬間、指がぴたりと止まった。「……熱い。」


幼い娘はぼんやりと目を開けた。光が遠のいたり近づいたり、音は水の中から聞こえてくるようで、世界全体が、ぬるく重たい霧に包まれているようだった。


外から、誰かが慌ただしく駆け寄る音がした。

父が駆けつけた頃には、彼女の意識はすでに沈みかけていた。


再び目を開けたとき、彼女は一本の柱の陰に身を潜めていた。


視線の先では、満開の雪蓮の前に母が立っていた。

その手には、紫色の液体が入った小さな瓶。母は泣きながら、黙ってその液を花に注いでいた。背後には、ひとりの男の姿。何かを話しているようだが、言葉は届いてこない。


まもなく、母は長剣を手に取った。涙を流しながら、それを胸元に深々と突き立てる。


柱の陰でそれを見ていた千雪の体が小さく震え出す。

声にならない嗚咽が喉に詰まり、ただ涙だけが頬を伝った。

逃げたい。けれど足が動かない。


そのとき、父が駆け込んできた。

「父上!早く、母上を助けて!」


千雪はようやく声を振り絞り、父に向かって走り出す。

抱きしめてほしかった。でも、腕をすり抜けてしまった。

彼女の存在に、誰も気づかない。誰にも、声は届かない。


呆然と振り返ると、父が母の体から剣を引き抜き、それを自らの喉元に構える。そして——振り下ろした。


鮮血が飛び散る。空気が破裂するような音が耳を打ち、世界の色がばらばらに砕け落ちていく。白銀の雪が、一気に真紅に染まった。叫びたくても、もう声は出なかった。ただ大きく見開いた目から、熱い涙が流れ落ちる。胸の奥で何かが引き裂かれ、千雪はよろめきながら走り出す。


けれど、すでに雪景色は彼女の足元から崩れはじめていた。

氷が割れるような音が空間に満ち、音と光と衝撃が彼女の意識を引き裂く。

次の瞬間、力を失った体は、まっすぐに虚無の中へと落ちていった。


「まったく、とんでもないお姫様だね。未来まで来るなんて。」

白虎はゆっくりと少女に歩み寄り、ぺろりと頬を舐めた。そしてその首元の衣をそっとくわえ、ひょいと背中に乗せてしまう。


「まったく、玄武め、自分から来といて封印されるなんて。青龍も……せめて自分の姫くらい、ちゃんと守ってほしいもんだよ。あーあ、まったく、面倒ごとばっかりだ。」


白虎は千雪を背に乗せたまま、雪の上をとことこと歩いていく。

「さて、どうしたものかな……」


ぐるぐる悩みながら、雪原の中を何周も歩き回る。やがて、一本の木の根元に千雪をそっと降ろし、大きな肉球で少女の頭を優しくぽんぽんと撫でた。

「……忘れるんだ。忘れれば……生きていける。」


その瞬間、千雪がぱちりと目を開けた。無意識のまま白虎の毛皮に手を伸ばし、ぎゅっと掴む。

「……あったかい……虎……きれい……」


白虎は少しだけ笑みを浮かべた——だがその笑顔の余韻も束の間、血のように赤い記憶が、少女の中で一気に甦る。


「……母上っ……父上っ!」


千雪は跳ね起きると、よろよろと立ち上がり、雪の中をふらふらと宮殿の方へと駆け出した。転んでは起き、片方の履きものが脱げて、裸足のまま雪を踏みしめ、足跡のひとつひとつが血に染まっていく。泣きながら、何度もつぶやきながら、ただひたすら前へ。


だが——宮殿の門が見えたその瞬間、何か透明な壁にぶつかるように、千雪の体がふわりと浮き、そのまま雪の上に崩れ落ちた。


「……まだ四歳のお前に、何ができる?」

白虎はまた、のっそりと少女の傍へと歩み寄る。舌を伸ばし、傷口に触れて血を止めると、ぽつりと呟いた。


「お前の記憶を封じよう。お前は、自分の時間に戻るんだ……ごめんな。」


少女の姿は、雪の中からふっと消えた。


白虎はその場で何度かゆっくりと円を描きながら歩き、振り返って宮殿を一瞥する。

そして、雪の上に残る血の跡に視線を落とした。

小さくため息をついたその瞬間、白虎の姿もまた、静かに掻き消えた。


「千雪、起きて!大丈夫?」

目を開けると、彼女は父の腕の中に抱かれていた。

母と兄が左右に寄り添い、心配そうに顔を覗き込んでいる。


「きっと、昼間雪の中で遊んでいて冷えたのだろうな。」

「母上、今度千雪が外に行く時は、僕も一緒に連れていってください。僕が背負って帰れば、足も冷えません!」


母はふふっと笑い、息子の頭を撫でた後、千雪の額にもそっと手を当てた。

「ふたりとも、なんて頼もしい我が子なのかしら。」


千雪は瞬きをしながら、胸の奥にぽわっと広がる幸福を感じた。

熱もすこし引いてきた気がする。


そして、父のぬくもりに包まれたまま、

彼女は安心しきった顔で、穏やかな眠りに落ちていった。


――その眠りの裏に、一度失われた命の記憶があるとも知らずに。


ーーーーーーーーーーー

小さな補足:

四歳の千雪が熱に浮かされた夜、垣間見た未来の一夜――

それは、第一部の第一話と第三十話に描かれた光景に繋がっています。

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