128 記憶の番人
白一面の雪野。
その真ん中で、ひとりの小さな子が、赤い毛織りの服に包まれて立っていた。
ふたつに結んだお団子頭には、ふわふわの毛糸飾り。
ほっぺたは寒さでりんごのように赤く染まり、瞳は星のかけらみたいにきらきらしている。
まるで、冬の中に咲いた小さな花のようだった。
左手には鈴のついた腕輪、右手にはまっ赤な手まり。
その子は「えいっ」と声をあげて、ぴょんぴょんと雪の上を跳ね回る。
ぽすん、ぽすんと小さな足音が雪にしみこむたび、ふわりと白い雪花が舞い上がる。
鈴の音がリンリンと響いて、それに負けないくらい、ころころと笑い声があふれた。
くるくる回るたびに、裾がふわっと花のように開いて、毛糸飾りもぴょこぴょこと揺れる。
頭や肩に降った雪は、回るたびにぱらぱらと落ちていった。
やがて、子どもはつま先立ちになって、手まりを高く放り投げる。
くるくるとそれを追いかけて、何度も何度も回って――
最後には雪の上にふわりと倒れこみ、「えへへっ」と、笑った。
けれど――その笑い声は、風のようにふっと消えた。
雪が止まり、空が陰る。
凛とした寒さが指先から忍び寄り、あたたかな赤が、夢のように遠ざかっていく。
どこかで、鈴の音がひとつ。
しゃらん……と、風に吹かれて鳴った。
「……ん、」
まぶたがわずかに震え、凛音はゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。聞き慣れた静けさ。
胸の奥にまだ、雪の感触と、あの子の笑い声が残っていた。
「夢……だった、の……?」
額に手を当てた彼女の頬を、ひとしずく、涙が伝った。
「凛音様、お目覚めですね!大丈夫ですかっ?」
清樹が机のそばから駆け寄ってきた。
「ん……うん、大丈夫。ちょっと頭が痛いだけ……。アイ君は?」
「アイ殿下なら……蓮殿下に連れて行かれました。」
「蓮……やっぱり、昨日のことは――蓮が……!」
凛音は勢いよく立ち上がり、そのまま二人を探しに部屋を飛び出した。
「蓮!何するのよ!」
彼女はそう言いながら、アイの手から無理やり重たい石を奪い取った。
「だって、守るって言ったくせに、あんなに酔わせて!」
「アイ君はたくさん代わりに飲んでくれたし、それに、私が頼んで連れて行ってもらったの。」
そう言って、凛音は重たくてずっしりした石を今度は蓮に押し返した。
「で?白蘭国に戻るように言ったよね?」
「ちゃんと戻ったよ~言われた通り、一回はね!」
蓮は悪びれもせず、いたずらっぽく笑いながら肩をすくめた。
「まったく……凛音ちゃんと話す時だけ、こいつ、まるで別人だもんね。……ふん。」
アイがふてくされたようにそっぽを向くと、続けて言った。
「凛音ちゃん、こいつ……全部知ってて、ここに来たんだよ!」
凛音はそっと顔を上げて、蓮と目が合った。
けれどすぐに視線を逸らし、少しうつむきながら言った。
「……とにかく、行きましょう。アイ君の曾祖母様のところへ。」
一行が洞窟に入ると、曾祖母は相変わらず酒壺を抱え、榻に腰かけて足を組んでいた。口元にはまだ酔いの残る笑みが浮かんでいる。
「ん?あんたたち、誰だい。見覚えがないねぇ〜」
アイの顔がぐしゃっと歪んだ。
「曾祖母様!凛音ちゃんが勝ったら、質問に答えるって、約束したでしょ!?」
「へぇ?昨日の夜?この老いぼれは、自分の名前すら忘れるほど酔ってたんだよ。賭けなんてしたかねぇ?」
そのとき、蓮がにっこりと笑いながら口を挟んだ。
「曾祖母殿下、昨夜は『あんたにはアイの父君の若かりし頃の気骨がある』とまで仰っていたはずですが。しっかりと、ね。」
「ほぉ〜、それじゃあ老いぼれも、いよいよ耄碌したってことだねぇ。」
くすくすと笑いながら、彼女はころんと骰盅を持ち上げた。
「ま、そんなに覚えてるってんなら――あんたが投げな。ちょうどいい、手慣らしだよ。」
蓮が目をぱちくりと瞬かせた。
「……え、私?投げるって……何を?」
曾祖母はにやりと笑って言った。
「決まってるじゃないか。《《あの門》》を開ける者を、決めるのさ。」
しゃらん――と澄んだ音を立てて、骰が卓上を転がり出す。
その音は不思議なほど静かで、かえって場の空気をぴしりと引き締めた。
「賭けってのはね、覚えてる方が損をするものさ。」
曾祖母はぐいと酒を呷り、口元に笑みを浮かべながらぽつりと呟いた。
「そして――忘れる自由を奪われた者が、一番強くて、一番哀しいんだよ。」
凛音がふいに、洞窟の隅からそっと問いかけた。
「……もし、忘れたくない人だったら?」
曾祖母の手がぴたりと止まる。
しばしの沈黙ののち、彼女は初めてまっすぐに凛音を見据え、低く呟いた。
「忘れたくても、忘れられない神様がいるんだよ。だから、この国の記録は本になんか書かれない。牙と爪に……刻まれていくのさ。」
その言葉を聞いた瞬間、凛音は何も言わずにくるりと背を向けた。
「……凛音ちゃん?」アイが戸惑いながら声をかける。
凛音は足を止めず、言った。
「白虎を……探しに行く。」
天鏡国の宮廷、後苑の奥。
女王陛下は白虎の長い尾を撫でながら、丁寧に毛並みを整えていた。
金細工の耳飾りも、柔らかな布で磨かれ、陽光を受けてきらきらと輝いている。
まるで、今日という日を祝うかのように。
けれど——
庭の奥から足音が近づいた瞬間、白虎の耳がぴくりと動いた。
その青い瞳に走ったのは、かすかな警戒と……恐れ。
普段なら、凛音を見るたびに小さくなって飛びついてくるはずの白虎は、
今日は一転して、女王陛下の背に身を隠すようにそっと回り込んだ。
「来たのね。」
女王陛下は白虎の頭をそっと撫でながら、そう呟いた。
そして、ふわりと笑みを浮かべると、凛音の方へと向き直った。
「我が国の神様だから。優しくしてあげてね。」
そう言い残し、女王陛下は静かにその場を後にした。
「……また、思い出させる気かよ、その婆さん。」
凛音と白虎は、白澜国で出会ってからというもの、ずっと仲睦まじく過ごしてきた。
ふと気づけば、白虎は猫のように凛音の膝や腕の中に丸く収まり、凛音がいる時はいつも、抱かれるのが当たり前のようになっていた。
けれど——
一度たりとも、白虎が言葉を発したことはなかった。
それが、今。
初めて、白虎は凛音に言葉を投げかけた。
「……白虎ちゃん、しゃべれるんですね。てっきり、実体があるから話せないのかと思っていました。」
「俺は、戦の神にして、記憶の番人。千年前も、百年前も、そして——お前が泣いたあの夜も。ずっと、見ていた。」




