126 語る前にまず一杯
見たこともないほどの激しい雨が空を叩きつけていた。
雨粒は細い絹糸のように連なり、天鏡国の珠の簾よりもなお美しく、水の帳を織り上げている。
墨を流したような空には一片の雲もなく、月はまるでかくれんぼをしているかのように、その姿を潜めていた。
風は唸りを上げ、銀砂を巻き上げては、星の軌跡のような模様を描き——けれど、それらもまた雨に流され、跡形もなく地に落ちていく。
「凛音ちゃん、大丈夫ですか!」
アイが慌てて駆け寄ってくる。
「僕がいるんだから、凛音に何かあるわけないでしょ!」
ユルがアイの前にすっと立ちはだかり、堂々と胸を張って言い返す。
「は?凛音様が無事なのは、凛音様ご本人が強いからだよ。ユルは関係ないでしょう。」
清樹はそう言いながら、凛音様の手を取ってそっと脇へと引いていった。
「アイ君、私は大丈夫ですよ。なんか……久しぶり、ですね。」
「ふんっ。兄上は母君に叱られてただけだよ。婚約を勝手に結んで、勝手に破棄して、おまけに天鏡国を飛び出して……禁足一週間じゃ、むしろ足りないくらいだと思うけど!」
アイは珍しく笑みも冗談も見せず、清樹とユルの言葉を聞き流すようにして、凛音の手をぐいと引いた。
「凛音ちゃん、例の件……今こそ動く時だ。行こう。」
二人は油紙傘を差しながら、果てしなく続く銀砂の大地を、長い時間をかけて歩き続けていた。人波にあふれる街道を抜け、奇妙な形をした山々をいくつも越え、ようやく辿り着いたのは、真っ暗な砂の洞窟の前だった。
「でも、あの方がそう簡単に僕たちの問いに答えてくれるとは思えないんだよね……」
アイは足を止め、どこか躊躇うような声で言った。
油紙傘の下では凛音の表情はよく見えなかったが、その声には迷いが一切なかった。
「当然でしょう。入りましょう。」
「……このこと、蓮に知らせなくて本当にいいの?」
凛音はそれには何も答えなかった。
砂の洞窟の中も、また長く深い道が続いていた。そしてようやく、その先でアイがぱあっと顔を明るくし、ひとりの白髪の老女のもとへ駆け寄っていった。
「曾祖母様、アイ帰ってきたよ〜!」
老女はそっと手を差し出し、手探りでアイの輪郭を確かめると、ふっと微笑んで言った。
「……おかえり。」
そして、首を少し傾けて耳を澄ませるようにしながら、ぽつりと呟いた。
「……どうやら、おぬしの後ろには『招かれざる客』がいるようじゃな。」
「もう、曾祖母様、何言ってるのさ。凛音はそんなのじゃないよ、ちゃんと僕の大切なお客さんだよ!」
「曾祖母様にお目にかかれて、このうえなく光栄に存じます。どうかご機嫌麗しゅうございます。」
凛音は老女が目が見えないことを承知しつつも、礼を欠かすことなく、ひざを折って深く頭を下げた。
老女はゆっくりと前に歩を進め、凛音の手に触れると、静かにその手を取って彼女を立たせた。
「申してみよ。何ゆえ、ここまで来た?」
老女は声を低くし、年の功を感じさせる迫力を帯びてそう問うた。
「……天鏡国の白虎だけが、歴代絶えることなく姿を保ち、契約者の系譜もまた途切れていないと聞きました。ゆえに、凛音は四神にまつわることを、どうしてもお尋ねしたいのです。」
老女は眉根を寄せ、警戒の色をあらわにする。
「……それがしが、なぜおぬしの問いに答えねばならぬ?」
「曾祖母様、凛音は僕にとってとっても大切な友達なんだ。お願い、力を貸してあげてよ〜」
アイはそう言って、老女の腕にすり寄るようにしがみつき、子どものように甘える。
老女は呆れたように腕を振り払った。
「……よかろう。」
ふっと笑みを浮かべると、急に声に覇気が宿り、まるで別人のような気迫で言い放つ。
「老いぼれの我が唯一の楽しみは――酒だ。もしもおぬしが、この身に酒で勝てたなら、答えてやってもよい。」
「……お酒、ですか?」
凛音がやや戸惑いながら問い返すと、老女はすでに矮卓の前へ移動し、腰を下ろしていた。そして卓下から取り出したのは、ひと組のサイコロだった。
「ルールはいたって簡単じゃ。交互に賽を振り、目の小さい方が一杯飲む。倒れるまで、続けるのじゃ!」
「曾祖母様、それは……」
曾祖母様は片眉を上げ、興味深そうに問い返す。
「ほう?老いぼれの我が、無理やり遊びに付き合わせておると申すか?」
「では、こういたしましょう!凛音ちゃんが負けた場合、その杯は私が引き受けます!」 アイは凛音の隣に立ち、拳を握ってそう宣言した。
老女は目を細め、「ふむ」と喉の奥で笑ってから、さっそくサイコロを手に取った。
コロコロ……
老女の目は「4・5・6」。
凛音の目は「3・3・2」。
「……一杯じゃな。」
アイはぐいっと酒を煽った。
二投目、三投目……その後も何度もサイコロは振られた。
凛音が勝った回もあったが、全体としてはアイの飲む量のほうが圧倒的に多かった。
ついには、アイは顔を真っ赤にしてその場にぱたりと倒れてしまう。
「さて、困ったのう。我が曾孫が潰れてしもうたわ。」
「……問題ありません。次からは、私がいただきます。」
凛音は静かに姿勢を正し、再びサイコロを手に取った。
そこからの勝負は、さらに加速していく。
じゃらっ。
コロコロ……
凛音は、また負けた。さらにまた……また。
杯を重ねるたびに、頬がじんわりと紅潮していく。
視界が少しずつ揺れて、頭がふわふわとしてきた。
その様子を見て、老女は肩をすくめるようにして笑う。
「見たか、おぬし。今宵はもう、話など聞き出せぬようじゃ。やれやれ……まこと、つまらぬ。老いぼれの酒に付き合う者もおらぬとはのう。」
そのとき――
黒衣に赤い襟をまとった男が、扇子を優雅に仰ぎながら、堂々と洞窟へと姿を現した。
「それほどまでに酒がお好きなら……この在下がお相手いたしましょう。」
その物腰には礼を欠かさぬ余裕がありながらも、どこか只者ではない雰囲気を纏っていた。
凛音は首をかしげつつ、ゆっくりと振り返る。 「れ、蓮!?」
酔いのせいか、それとも驚きからか。
彼女はふらりと体勢を崩し、椅子から落ちかけるが、蓮がすかさず手を伸ばして支え、そっと座り直させた。
「凛凛、次の投を頼むよ。」
凛音はむにゃむにゃと呟きながら、迷いのない手つきでサイコロを振る。
……だが、またも負け。
顔を真っ赤にしながら頬を膨らませ、まるで子どもが駄々をこねるように声を上げる。 「おばあちゃん、絶対ズルしてるでしょ〜!」
老女はくっくと笑いながらも、誇らしげに告げた。
「ふふん、実を申せば、わしは目が見えぬ代わりに、この耳で賽の目を聞き分けることなど、朝飯前なのじゃ。」
凛音は机にばたんと突っ伏し、その様子を見た蓮が肩をすくめる。
「大丈夫。ここからは、私が振ります。」
再び、老女と蓮の真剣勝負が始まった。
――その最中。
「……ああっ!!」
突然、凛音が立ち上がって大声を上げた。
老女は驚き、思わず集中を切らし、耳に入るべき賽の音を聞き損ねてしまう。
開かれた賽の目は「1・1・4」。 対する蓮の賽は「2・5・6」。
「……むぅっ……」 老女は悔しそうに顔をしかめながら、一杯をあおる。
その後も、凛音はことあるごとに「わあっ!」「きゃーっ!」と叫び、時にアイとともに笑い転げ、時にひとりで奇声を上げては場をかき乱す。
「この小娘、なかなかの策士じゃの……」
「だって、おばあちゃんが言ったのは『サイコロ振る』だけでしょ?声出しちゃダメなんて、言ってなかったもん〜」
凛音はしたり顔で言い返し、老女はむぐむぐと唸るばかり。
そして、老女は一杯、また一杯と酒を飲み続け――
ついに、盃を置いて、低く吐き出すように言った。
「……もうええ。わしの負けじゃよ。これ以上は、ほんに飲めぬ……おぬしの、勝ちじゃ……」
老女は盃を机に置き、しばし無言で天井を仰ぎ見た。
やがて、ひとつ息をつき、ゆるやかに口を開く。
「……ほれ、耳を澄ませい。語ってやろう、白虎が今に至るその因果を。」
しかし、蓮は左右のふたりを見て、ため息まじりに言う。
「……せっかくですが、今宵はこのあたりで――続きを伺うのは、明日にいたしませんか。」
勝ったとはいえ、アイは地面にぺたりと倒れたまま、微動だにせず。
凛音も顔を真っ赤にして、ふらつきながら椅子に凭れかかっている。
対して老女は、まだ一杯くらい平然と飲み干せそうな顔をしていた。




