119 二度と訪れぬ夜
剣が交錯する。
淵礼がルナの喉元に剣を突きつけたその刹那、
セレーネは迷いなく長剣を抜き放ち、その切っ先を淵礼へ向けた。
同時に、凛音も反射的に千雪の刃を抜き、セレーネの首筋に冷たく添えた。
四人の視線が交わる。その瞳の奥に潜む殺意と戸惑いが、空気を鋭く凍らせた。
「クラウス殿下……これは、一体いかなる御意でしょうか?」
セレーネの声には困惑が滲んでいる。
しかし、淵礼が答えるより早く、凛音が先に口を開いた。
「ずっと違和感があったの。」
彼女はルナを冷たく見据え、言葉を継ぐ。
「私たちが国境へ向かう前から、敵はまるで警告を受け取ったかのように、周到に人を配置し、整えられた舞台で私たちを待っていたわ。」
「そうだ。我々の進む道は、最初からすべて仕組まれていた。」
淵礼は淡々とそう告げた。
すると、凛音が言葉を引き継ぐ。
「私が賤民営に入った時から、国境に向かい、シアンを見つけ、アミーリアを救い出し、そして演説をするまで——すべての道を整え、影から糸を引いていたのはルナ……お前よ。」
「それだけではない。林夫人に渡った首飾りがアミーリアの手に渡るよう仕組んだのもルナだ。そのために白瀾国へ赴いた。」
「林夫人」という言葉を聞いた瞬間、凛音の瞳に悲しみと怒りが一瞬よぎった。
「ルナ?」セレーネは震える声で呼びかけた。
その眼差しは焦りとすがるような願いに満ちている。
「お願い……何か言ってちょうだい……」
ルナはセレーネの剣先を見つめ、壊れたように笑った。
「……やっぱり、もうバレちゃったのね。」
その声は震えていたが、それでもどこかほっとしたような響きがあった。
「そうよ。私はずっとデイモンの犬だったの。」
その瞬間、空気が凍りつく。セレーネの目が揺れた。
「お姉ちゃん、覚えてる? ずっと病気がちだったでしょう? でも、ある日突然——お父さんは高価な薬を手に入れて、お姉ちゃんは助かった。その薬、どこから来たと思う?」
セレーネの指が、剣を握る力を失いかける。
「……お父さんは、私をデイモンに売ったのよ。」
ルナは遠くを見るように、どこか他人事のように続ける。
「最初にデイモンと会ったとき、あの男は笑いながら言ったの。『お前の価値を見せてみろ』って。だから、私は証明した。彼が握らせたナイフで、初めて人を殺した。」
「それからよ。私は徹底的に教育された。役に立たなければ、何日も食事を与えられなかった。嘘をつけば、爪を剥がされた。逃げれば、足を砕かれた。」
「でも、私が一番忘れられないのは——デイモンが私に初めて褒美をくれた時よ。」
「『よくやったな』って、私の手にお父さんの指を握らせたの。」
静寂。
セレーネの顔色が真っ青になり、膝が崩れそうになる。
ルナは微笑すら浮かべ、淡々と言った。
「そう、お姉ちゃん。お姉ちゃんの命は、私が地獄に落ち、その代償を払っていたからなの。」
「お姉ちゃんが殺し屋として悪を裁いていた時、その影で血を流し、涙を呑み、金を捧げ、汚れた手で支えていたのは——私だったのよ。」
「……ねえ、お姉ちゃん。そんなに苦しそうな顔しないで?」
「だって、お姉ちゃんはずっと幸せだったでしょう?」
ルナは微かに笑い、歯を噛み締めた——刹那、喉から鮮血が噴き出す。
セレーネはその場に凍りつき、目の前で崩れ落ちる妹を見つめ、動くことすらできなかった。
紅い血が、唇の端から静かに零れ、床へと落ちていく。
「ルナ……?」
セレーネの指先がひどく震えた。
——そして、遅れて現実が押し寄せる。
「あああああああああああああ!!!」
セレーネは衝撃に膝をつき、剣が指先から滑り落ちた。硬い床に当たり、澄んだ音を響かせる。反射的に掴もうとしたが、指先にまったく力が入らない。
血は、剣で貫かれたときのように飛び散ることはなく、ルナの口元から淡々と溢れ、顎を伝いながら衣襟を濡らしていく。深紅の液体が彼女の蒼白い唇を染め、わずかに丸まった指先へと滲んでいった。
いつも意地悪く笑っていたあの瞳は、今、冷え切っていた。
もがくことも、うめくこともなく、ただ——死の静寂だけがそこにあった。
セレーネの指先が震え、ぎこちなく伸ばされる。しかし、その手が触れることはなかった。
「……どうして……こんなことを……」
掠れるような声は、今にも崩れ落ちそうに脆い。
短い沈黙のあと、凛音が言葉を落とした。
「セレーネ、立って。時間がないの。」
その時、清樹が息を切らせて駆け込んできた。額には汗が滲み、わずかに肩を上下させながらも、興奮と焦りを滲ませた表情をしていた。
「霖月商会の地下通路が、ダモンの屋敷へ直通している!」
凛音が眉をひそめる。「確かか?」
清樹は深く頷き、わずかに複雑な表情を浮かべながら続けた。
「調査済みだ……この商会は、元々ダモンが密輸を行うために作った拠点のひとつだったらしい。だから、最初から屋敷へ直通する抜け道が造られていた。」
「……ほう。」淵礼は鼻で笑う。
「なるほどな。いかにもダモンらしい。何もかも、自らの駒として使うつもりだったわけか。」
彼の声には、冷ややかな嘲りが滲んでいた。
凛音はセレーネを一瞥し、何も言わずに、ただ強い眼差しを送った。
セレーネはわずかに息を呑み、それでも静かに頷く。
「……行こう。」
落ちた剣を拾い上げる。無駄な動作は一切ない。
地下通路。
梁がきしむ微かな音が響いた。
清樹は警戒するように膝をつき、そっと床に手を当てる。その眉間には深い皺が刻まれていた。
「……この建物、おかしい。」
その言葉に、凛音は瞬時に異変を察した。しかし、反応する間もなく——
バシュン!
四方の壁が突然弾けるように開き、無数の毒矢が暴雨のように降り注ぐ!
淵礼は即座に剣を振り抜き、迫りくる矢を弾き飛ばした。金属がぶつかり合う鋭い音が、火の光の中で響き渡る。だが、これはほんの始まりに過ぎなかった。
「気をつけろ!」
天井から吊るされた燭台が突然落下し、床を砕きながら炎をまき散らす。同時に、足元が激しく揺れ、黒い裂け目が奔るように広がっていく。地面が崩れ、空間そのものが裂けるかのようだった。
「これは罠だ!」
セレーネは鋭く叫び、即座に剣を抜き、迫りくる毒矢を打ち払った。その表情は硬く、すぐに状況を察知した。
「これは単なる商会の焼き討ちではない……私たちをここに閉じ込めるつもりだ!」
凛音は素早く後退しながら、視線を走らせた。炎が木造の壁を喰らい、猛々しく商会全体を焼き尽くしていく。
その光景は、まるであの日の再現だった。
通路の奥で爆発が起こり、轟音とともに炎が噴き出す。熱風が押し寄せ、呼吸すらままならない。周囲では梁が崩れ落ち、焼けた柱が倒れるたびに、火の粉が舞い散る。
毒矢の仕掛けは止まらない。次々と矢が放たれ、その刃先には暗く光る毒が塗られていた。
……このままでは、全員がここで焼き尽くされる!
玄武は本能的に手を上げ、目の前の火焔を鎮めようとした——しかし。
「動くな。」
低く、威厳に満ちた声が響くと、天地が震えた。
玄武の手が止まる。
ゆっくりと振り返ると、燃え盛る炎の奥——そこに、青い光が浮かび上がる。
烈焔の中、渦巻く風が生まれる。激しく燃え盛る炎が、まるで時間を巻き戻すように逆流し始めた。
青い光が、龍の形を取る。
「ここから先は、わしの戦場だ。」
あの日。
林府が燃え、浮遊の力は届かなかった。
その夜、ただ凛音ひとりを守ることしかできなかった。
燃え盛る屋敷の中、浮遊が抱えたのは、ただ冷たい亡骸だった。
——しかし、今は違う。
再び炎が世界を覆おうとしている。
だが、今の浮遊はもう、何も守れなかった神ではない。
轟!!
青い光が瞬いた。天地が震え、風が舞う。
水のように透明な障壁が広がり、すべてを包み込んでいく。
それに触れた瞬間、炎はまるで命を失ったかのように掻き消えた。
爆発の衝撃もまた、音もなく吸い込まれ、消えていく。
炎に呑まれる夜は、二度と訪れさせない。
「……これが、お前の今の力か。」玄武は低く呟く。
浮遊は答えない。ただ、静かにその巨躯を翻し、燃え尽きた廃墟を見下ろしていた。
「行くぞ。」
その声は静かで、しかし絶対的な力を持っていた。
「今度は、誰も死なせはしない。」
ちょうど第二部の終盤――ラストから二番目の話でも、爆発の場面が描かれておりました。しかしその際、浮遊は凛音以外の誰一人として救うことができませんでした。
そして今回、第三部のラスト二話目もまた、同じく激しい場面となりましたが、浮遊にとっては、あの時とは異なる結末が描かれています。それは、彼にとっての深い後悔であり、同時に、作者である私自身の心にも残る後悔でもあります。
最後まで読んでくださり、誠にありがとうございました。




