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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十章:蒼き水鏡の彼方、運命は廻る
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118 還る者、還らぬ者



彼は、震える腕で、彼女を抱き寄せた。

強く、離さぬように。

まるで長い夢の中でようやく手にしたものを失うまいとするかのように。


凛音の瞳が揺れた。胸が苦しいのは、ただ力が強いせいではない。

その体温が、記憶の奥にある何かを呼び起こしかけているせいだ。


だからこそ、彼女は——


「やめて!」

強く、クラウスを突き飛ばした。


彼の腕がほどけ、よろめく足元が数歩後退する。

それでも彼の瞳はまだ遠く、焦点が合っていないようだった。


凛音は荒い息をつきながら、目の前の男を睨みつける。

「千雪だったことを、否定するつもりもない。でも……今は、千雪じゃない。」


その声音は強くもなく、弱くもなく、ただ確かだった。

「私は、凛音よ。そして——私の歩んできた道は、誰にも奪えない。」


彼女の言葉に、クラウスの瞳がかすかに揺れる。視界が歪んでいく。


「私の歩んできた道は、誰にも奪えない。」

その言葉が、頭の中で響き続ける。


——遠くから、沈んだ声が響いた。


「青龍が目覚めた……」


空気が変わった。冷たい風が吹き抜け、景色が滲んでいく。足元の感覚が消えたかと思うと、次の瞬間、彼はまったく異なる光景の中に立っていた。


そこは、雪華国の宮殿だった。


廊下の陰で、幼い自分は小さな手をしっかりと握りしめ、息を潜めながら扉の向こうをじっと見つめていた。大広間には重苦しい沈黙が漂い、座している貴族たちは誰もが険しい顔つきをしていた。


「このままでは、蒼霖国が黙って見過ごすはずがない!」

「いや、青龍を封じるべきだ!」


重く、暗い囁きが、大人たちの間で交わされていた。ただならぬ空気が、幼い彼の胸に漠然とした不安を刻みつけた。


霄寒は玉座に座っていた。肘掛けを強く握る指先が、内心の葛藤を物語っていた。いつも穏やかだった父の横顔は険しく、沈黙の中で何かを耐え忍ぶように目を伏せている。その視線の先には、自分と、そしてさらに幼い凛音がいた。


「それでは蒼霖国に攻め入る隙を与える!」

「もし玄武を従わせることができないのなら、いっそ大皇子を差し出せ。」


突き刺すような言葉が飛び交う。冷たい音の連なりが、幼い彼の心に突き刺さる。

震える手で、彼はそっと隣の小さな肩に触れた。何があっても離さないと、そう誓うように。


王族たちの恐怖は、青龍そのものではなかった。

彼らが恐れていたのは「神を制御できないこと」。

彼らが求めていたのは「神の力を手にすること」。


心臓がぎゅっと締めつけられるように痛む。


絶対に、千雪を守らなければならない。

絶対に、千雪を傷つけさせない。

絶対に、千雪を誰にも渡さない。


クラウスは、地に膝をついたまま、震える指先で額を押さえた。視界の隙間から見えたのは、目の前に立つ凛音。


クラウスとして生きた年月は、ずっと無為だった。王子でありながら何一つ成せず、ただ流れに身を任せてきた。しかし、ようやく自らの意思で何かを変えようと決めた今になって、危機が訪れるたびに、いつも彼を守るのは彼女の方だった。

なんて皮肉だ。かつて自分が守ると誓ったはずの存在に、守られてばかりいるとは。


彼女の漆黒の髪は無造作に断ち切られていた。幼い頃のあどけなさも、甘えるような笑顔も、もうどこにもない。冷たく、それでいて耐え忍ぶような瞳だけが、ただ真っ直ぐに彼を見つめている。纏う衣は昔と同じ水色なのに、今はもはや何もかもが違って見える。


——あの短剣。

かつて母上にせがみ、一緒に考えたもの。だが今、それは彼女の手の中で、殺し屋の剣として鋭く輝いている。


喉が渇くような感覚に襲われる。こんなはずではなかった。彼女を戦わせるつもりなんてなかったのに、守ると誓ったのに。

視界が歪む。頭痛はまだ消えない。しかし、もう迷う理由など、どこにもなかった。


「……行くぞ。」

低く、掠れた声。その響きは、不思議なほど穏やかだった。


「……え?」凛音が目を瞬かせる。まさか、この状況で彼がそう言うとは思わなかった。


クラウスはゆっくりと立ち上がり、剣を引き抜く。金属が空を裂き、寒光が揺れた。

「ここに留まる理由なんてない。」

彼の瞳は、まっすぐ玄武を見据えた。

「どれだけ悔いても、過去は変わらない。時間を止めても、父上の死は覆らない。」


「玄武——行こう。全部を取り戻すために。」


凛音はその言葉を聞くと、ふっと笑った。反手で剣柄を握り、軽やかに身を翻す。水色の長袍が舞い、黒髪が空を切る。その姿は、冬を越えた海燕のようだった。


空と湖は、来た時と同じように一つに溶け合い、果てなく続いていた。しかし、ほんの一瞬——その刹那、目に見えぬ壁が霧のように消えた。鏡のような湖面は、無数の破片となり、音もなく砕け散る。そして、空もまた、その青を変え始めた。淡く、濃く、揺らぎながら——まるで、命を吹き込まれたかのように。


「凛音様、クラウス殿下!? さっき湖に入ったばかりなのに、どうしてまたここにいるんですか!?」

清樹の慌ただしい声が、異なる時の流れを引き裂いた。


「私の名はクラウスではない。凌淵礼だ。」


誰も、声を発することもできなかった。

クラウスがまるで別人のように変わったのは、これが二度目だ。しかし、今回はまた違う——彼は、最初の自分へと還ったのだ。


淵礼は目の前の妹を一瞥し、ほんの一瞬ためらった後、あえて顔を背けて言った。

「凛音、私は今から霖月商会へ行く。お前は望月公会へ行って、セレーネを呼んできてくれ。」


凛音はわずかに瞳を伏せ、無言で踵を返した。

淵礼はそれを見送ることなく、歩き出した。


霖月商会の門前。

「……つまり、お前は凛音の実の兄だと言うのか?」

蓮は信じられないという表情を浮かべながらも、どこか安堵の色を滲ませていた。

「勘違いするな。お前が安心しようが、彼女が抱えたのは一国を染めた血。そして、彼女が抱いたのは、滅びし魂の嘆きだ。」

淵礼は、蓮の心中を見透かしたように、冷たく言い放った。


そして、一度も振り返らず、そのまま中へと足を踏み入れた。


「ようこそ、クラウス殿下。」

ルナは笑顔を浮かべながら駆け寄り、「今日はまた、一戦交えて勝利を収めてきたのかしら?」と軽やかに言った。


凌淵礼は何も答えなかった。ルナもすぐに察し、すっと手を前に出して招くような仕草をし、彼を貴賓室へと案内する。淵礼は無言のまま腰を下ろした。ルナは微笑み、彼の向かいに座ると、何も言わずに茶を淹れ始めた。


しばらくして、セレーネと凛音も部屋に入ってきた。その瞬間、淵礼は静かに立ち上がり、目の前の茶を手に取ると、躊躇なくセレーネに差し出した。


「飲め!」


凛音とセレーネは思わず目を見開いた。ルナは慌てて前に出て、「姉さんの分、すぐに淹れてきます!」と言いかけたが——淵礼は冷笑し、無言でその茶を自らの剣にぶちまけた。


刹那——銀色の柄に刻まれた紋様が、じわりと黒く染まっていく。


「まだ言い訳があるか?」

淵礼は剣をゆるりと構え、その鋭利な刃先をルナの喉元に突きつけた。


体調不良のため、一週間ほど更新をお休みしてしまい、申し訳ありませんでした。お待たせしてしまってごめんなさい。ここまで読んでくださっているすべての方に、心からの感謝を。また一緒に第三部の物語を最後まで見届けましょうね。第四部も執筆中です。

どなたでも、お気軽に感想や思ったことなど、コメントで話しかけてくださるととても嬉しいです。いつも本当にありがとうございます!

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