115 命の縁
「おい、待て。……お前の後ろの女は誰だ?」
低く鋭い声が背後から投げかけられた。
凛音の心臓が一瞬強く締めつけられる。
そうだ。今は過去。彼が私を知っているはずがない。
だが、条件反射のように、彼女は袖に隠した短剣をそっと握りしめる。
「デイモン兄上、彼女は私が連れてきた侍女だよ。今日、初めて蒼霖国に来たから、少し案内してあげようと思って。」
隣にいた少年が、凛音より先に答えた。
一瞬の沈黙。
デイモン の鋭い視線が、じっと凛音の全身を値踏みするように走った。
「……そうか。」
気のない返事をすると、彼はあっさりと踵を返し、そのまま歩き去った。
そして、少年はぱっと凛音の前に駆け寄り、目を大きく見開いた。
まるで、先ほどの問いの答えを待っているかのように。
「残念ながら、私は妖精でも神様でもありません。私は、凛音と申します。」
「えー? じゃあ、なんで水の中から出てきたの? もしかして、前に僕を助けてくれた大きな亀と一緒?」
大きな亀? 玄武のこと?
凛音は一瞬考えた後、ふっと肩をすくめました。
「違いますよ。ただ……偶然、水の中を泳いでいた、というところでしょうか。」
「うそだ! そんなわけないじゃん! 僕、子供じゃないんだからね!」
少年がむっと頬を膨らませる。
それを見た凛音は思わず微笑み、優しく彼の頭を撫でました。
「ごめんなさい。適当なことを言ってしまいました。でも、私はその大きな亀のことは知りません。私が従う神は龍です。もしかしたら、その龍が私をここに導いてくれたのかもしれません。」
「ほんとに!? 龍!?」
少年の目が興奮に輝いた。
「本当ですよ。でも、これは秘密です。他の人には内緒ですよ。」
「うん! 絶対言わない!」
少年はこくりと大きく頷いた。
……まぁ、嘘はついていませんし、大丈夫ですよね。
その後、少年に連れられ、凛音は蒼霖国の王宮へと迎えられ、部屋まで案内された。その道すがら、彼女は初めて少年の素性を知る。この少年は、蒼霖国の王の孫であり、デイモンの従弟だった。そして、ここは三十年前の蒼霖国——
一息ついたところで、「……浮遊、どう思います?」凛音は問いかけた。
「わしにも分からん。ただ、玄武はもともと均衡を司る神……それほどまでに何かを失ったのかもしれんな。」
「精神的な傷……?」
「実はな、凛音……。ずっと昔、一度だけあやつがわしに声をかけたことがあった。だが……わしは、その時……無視してしまったのだ……。」
「あら、いかにも浮遊らしいですね。」凛音は微笑みながら、そっと浮遊の角を撫でた。
翌日。
凛音は早朝に目を覚まし、王宮内を歩いていた。しかし、あまり進まないうちに、濃厚な血の匂いと、すすり泣く声が聞こえてきた。彼女はそっと壁の陰に身を寄せ、慎重に中を覗く。そこには、動物の死骸が無惨に散らばっていた。
昨日の少年が地面にひざまずき、何かを庇うようにしながら、震える声で泣いている。
凛音は視線を上げる。デイモンの背後、机の上には無数の瓶が並んでいた。その中はどれも深紅の液体で満たされている。そして、机の中央には、一輪の雪蓮の花がひっそりと佇んでいた。彼女は思わず拳を強く握りしめた。
「デイモン兄上、この猫を傷つけないでください!もう、こんなにたくさんの命が奪われているのに……私は、外祖父に報告します!」
少年が震えながら叫ぶ。
デイモンは冷笑すると、少年を無造作に蹴り飛ばし、猫の首を掴んで引き寄せた。
「ほう、告げ口するつもりか?」
彼は鋭い目で少年を睨みつける。
「ならば、殺すのはこの猫だけで済むと思うなよ。」
冷たい声が空気を凍らせる。
「赤い蓮を育てるには、どれだけの血が必要なのか……お前の王族の血なら、もしかしたら役に立つかもしれんな。」
そう言うと、デイモンは猫を放り投げ、机の上に置かれていた匕首を手に取り、少年へと歩み寄る。
この男は、いずれ無数の無垢な命を奪うことになる。
この男は、私の母国の聖なる花を汚すことになる。
――そして今、その男が目の前にいる。
凛音は、迷うことなく千雪の刃を抜き放った。
「我が姫よ、落ち着け。ここで彼を殺せば――お前も、この世には存在できなくなるぞ。」
低く、深い声が響く。
まるで水の底から這い上がるように、ゆっくりと、重く、語りかける声だった。
「玄武か。」凛音は小さな声で呟き、「それで、私はどうすればいいの?」と尋ねた。
彼女の声は震えていたが、すぐに返事は返ってこなかった。
その時、デイモンが少年の前に歩み寄り、あと一歩で彼に手が届こうとしていた。
凛音はその瞬間、無意識に駆け出した。
彼女は少年の前に立ち、彼をしっかりと抱きしめた。
そして、千雪の刃を素早く振り下ろし、デイモンが投げた匕首を見事に弾き飛ばした。
「昨日の女か。」デイモンは軽蔑の表情を浮かべながら尋ねた。
「デイモン様、陛下のお命じで、私は殿下にお仕えしております。もし殿下に害を加えようとするのであれば、どうかご自分で陛下にお話しください。」
デイモンは凛音を一瞥した後、少年にも目を向け、軽く舌打ちをしてからその場を去った。
「……玄武。」凛音は低くその名を呟いた。その名がもたらす重さと悲しみが、彼女の胸に深く染み込んでくるようだった。彼女は震える息をつきながら、デイモンの威圧に怯える少年を見つめた。そして、深く息を吸い込み、意を決して立ち上がった。「私は、全てを知る必要がある。今も、過去も。」
彼女の使命はここにはない。今、彼女がいるのは過去の一部であり、その過去を終わらせ、未来へと進まなければならない。
「分かった。ならば、せめてもう一つだけの過去へ見てみませんか。」
玄武の声が響いた瞬間、何の前触れもなく、光のように、凛音は少しずつ透明になり、その時空から消えた。
再び目を開けたとき、凛音はまだ透明のままだった。夕日の差し込む木の下に立ち、周りは白い雪に覆われている。
一人の男と、巨大な亀が山頂に座っている。亀というより、蛇と龍のような顔を持つその姿は、どうやら玄武の本来の姿だろう。
男は玄武の甲羅を撫でながら、言った。
「玄武よ、お前はどう思う? 妻の腹の中の子、男か女か。」
「さあな。」
「女の子だったらいいな。すでに男の子が一人いるからな。長い髪を持ち、杏の花のように美しい瞳を持った女の子だといい。笑うときに、梨のようなえくぼがあったら最高だな。彼女には幸せになってほしい。」
凛音は不思議と、心の中に喜びと切なさが交錯した。もしかしたら、この男は先ほど自分が助けたあの小さな男の子なのだろうか、とふと思う。
次の瞬間、男は腰をかがめ、木のそばに生えた小さな緑の苗を優しく撫でた。
「彼女は秋に生まれるはずだ。ただ、三角梅が咲くかどうかは分からない。」
「三角梅……」凛音の目に、自然と涙が溢れそうになった。
「清遥は三角梅が大好きだったんだよ。『熱く燃える命の象徴だ』だって。雪華国は寒いから、うまく育つかどうか分からないけどな。」




