112 気まぐれなる神
「本当にこの道で合ってるの?」
清樹は信じられないという顔でクラウスの後を追いながら、ぬかるんだ土の上を踏みしめるたびに、苛立ちが募っていった。足元はぬるりと滑り、一歩踏み出すごとに悪態をつきたくなるほどだった。
今、彼ら一行は身を縮め、湿気と闇に包まれた地下水道を慎重に進んでいた。
「私が聞いた話ではな。」クラウスは淡々と言った。「蒼霖国には、かつて巨大な湖があった。だがある日、突然その湖は活力を失い、ただの死水と化した。やがて草木も生えなくなり、動物たちも近づかなくなった。そして最後には、この湖自体が封鎖されてしまった。」
「どうでもいいから、早く行きましょう!」
アミーリアはクラウスの回想を遮るように声を上げた。彼女は膝を折りながら前進せざるを得ず、その長いドレスの裾は汚れた水に浸り、べったりと足に貼りついていた。最悪だった。
湿った空気にはわずかにカビ臭が漂い、壁の隙間から滴る水がぽつり、ぽつりと落ちて、静寂の中に小さな音を響かせる。
どれほど歩いたのか分からない。
果てしない暗闇を抜けた先、ようやく前方に微かな光が差し込んでいた。
彼らはついに、地下通路を抜け出した。
だが、その先に広がる光景を目にした瞬間、誰もが足を止めた。
森はない。遺跡もない。山も川も何もない。ただ、湖があるだけだった。
鳥の姿も、生き物の気配もない。雲すら浮かんでいない。
どこまでも広がる湖水は、静かに天地の狭間に眠っていた。
空は白く霞み、湖は天空を映す鏡のように広がる。ただ、どこまでが湖で、どこからが空なのか——境界が分からない。
「……ここは、一体……?」
清樹は眉をひそめ、警戒しながら周囲を見回した。しかし、何もない。ただの広大な水面が続くだけだった。
彼らの足元すら、幻のように湖面に浮かんでいるかのように不安定に感じられる。
「おかしい……おかしすぎる……」
アミーリアが低くつぶやく。彼女はこれまで、どれほど珍しい秘宝や奇景を目にしてきただろう。だが、ここは違う。
「湖はどこ?」
確かに湖はそこにあった。
だが、湖水はあまりにも澄み渡り、あまりにも白く、まるで世界そのものが消え去ったかのようだった。
ふと、凛音が尋ねる。「蓮、この湖の上に少年が見えない?」
蓮は眉をひそめ、湖を見渡す。「いや、見えないな。」
その瞬間、クラウスの心臓が大きく跳ねた。
「……私には見える。」
彼の瞳孔がゆっくりと収縮する。
湖面には、天空が映り込んでいた。
しかし、そこに映るのは彼らの姿ではなかった。
湖が映し出していたのは、ここにいるはずのない、一人の少年だった。
白い衣が湖の光を受けて揺らぎ、衣の裾がかすかにたなびいた。
しかし、風はない。水も動かない。
それなのに、湖に映る衣の裾は揺らめいていた。
凛音の指がわずかに震えた。
そっと手を伸ばし、水面に触れようとする。
だが、指先が湖に触れた瞬間——何も変わらなかった。
湖は沈黙を保ち、波紋すら生まれなかった。
時間さえもここで止まってしまったかのようだった。
湖に映る少年は、微笑みながら、凛音を優しく見つめていた。
「……あれは……?」
クラウスはかすれた声でつぶやき、指先が無意識に強く握り込まれた。
見覚えのない少年のはずだった。
だが、心の奥底で、何かが強く揺さぶられる。——なぜかは分からない。ただ、言葉にできないほどの懐かしさが、微かに胸を締めつけた。
「おかしいな、なんで二人にしか見えないんだ?」
清樹が腕を組み、不思議そうに言う。
「神獣が関わっているなら、蓮殿下にも見えておかしくないはずだろ。」
「……私には、この湖が静かすぎて不気味に思える。」
蓮の低い声が、静寂に染まった空間に響く。
「一旦、情報を整理しよう。」
清樹は、気づけば自然と参謀役を担うようになっていた。
「まず、神獣を召喚できるのは王族のみ。これは、凛音様、蓮殿下、アイ殿下がその力を持っていることからしても、例外はない。
それに、望月の情報によれば、蒼霖国で正統な王族とされるのはデイモンだけだ。
次に、蒼霖国の神獣——朱雀様と浮遊様が気配を感じ取れないということは、封印されている可能性が高い。
あるいは、デイモンを認めていないのかもしれない。
そして最後に、今のところ、私たちは湖の底に蒼霖国の神獣がいる可能性が高いと考えている。
……だが、クラウス様と凛音様だけが湖の中の人物を見ている。
これ、どう考えてもおかしくないか?
蒼霖国の神獣がクラウス様を認めているとしたら、なぜだ?
クラウス様は王族じゃない。ただ、蒼霖国を守ろうとしているから?
……なら、凛音様は?
他国の王族である彼女を、認める理由があるか?」
「確かにおかしい。私は蒼霖国の王族じゃない。それなのに……どうして。」
クラウスは眉を寄せ、湖を見つめながら思案する。
蓮は腕を組み、ゆっくりと視線を湖へ向けた。
「それは……本当に『王族』ではなく、『この国を継ぐ者』を選んでいるのかもしれない。」
凛音は湖を見つめ、小さく息をのむ。
「私も……理由は分からない。でも……確かに感じるの。あの湖が、何かを伝えようとしているような気がする。」
沈黙が広がる。蓮が眉をひそめ、口を開こうとしたその時、不意に浮遊がふっと姿を現し、尾をゆるりと揺らした。
「お前たち、まるで神獣を偉大な存在のように語るが——」
肩をすくめ、皮肉っぽく言葉を続ける。
「神なんてな、そんな大層なものじゃないぞ。気まぐれよ、大半は。」
「待ってください!浮遊様の姿が……私にも見えました!」
清樹が突然叫び、驚愕に目を見開く。
アミーリアとクラウスも同様に頷き、三人の視線が浮遊へと向けられた。
今まで、浮遊のミニ龍の姿が見えていたのは、蓮、凛音、そしてアイだけだった。
「やっぱり、この空間……何かおかしいわね。」
そう言うと、凛音は湖面へと一歩を踏み出した。
だが、奇妙なことに——水に足が沈むことはなかった。
濡れることもなく、まるで湖面が彼女の足を支えているかのように、そっとその歩みを受け止める。
「……言葉にするのは難しいけれど、ここにあるもの全てが……止まっている気がする。」
そう言うと、彼女はさらに湖の上を進んでいった。
やがて湖の中央に差し掛かったとき、水面が揺らぎ、波紋がゆっくりと広がる。
湖の中の少年が微笑みながら彼女に手を差し伸べると、湖水がゆるやかに沈み、奥へと続く階段が姿を現した。
その時、岸辺に立っていた蓮が、急いで凛音のもとへ向かおうとした。
しかし、湖水はまるで彼を拒むかのように揺れ、足を乗せようとした瞬間、実体を持たない流れとなり、踏みしめることができなかった。
凛音は振り返り、蓮にそっと微笑んだ。その瞳には、不安を和らげるような優しさと、譲れない決意が宿っていた。
蓮は一瞬、躊躇した。しかし、凛音の表情を見て、ふっと笑みを浮かべると、小さく息をついて言った。
「……分かったよ。」
そう言うと、蓮は踵を返し、浮遊の方へ視線を向ける。そして深く一礼し、短く告げた。
「頼む。」
その瞬間、浮遊の姿が霞むように消えた。
蓮はそれを見送ると、わずかに肩を竦めた。
「……とはいえ。」
ぼやきながら、クラウスの背後に堂々と歩み寄り、遠慮なく一蹴りを食らわせる。
「お前、さっさと行け!」




