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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第十章:蒼き水鏡の彼方、運命は廻る
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111 水底に消えた声

「お前、まさか凛凛のことが好きになったんじゃないだろうな? 最近やけにくっついてるし。」

朝早くから、クラウスは蓮に壁際へと追い詰められていた。


「そんなわけない。ただ、ちょっと話したいことがあっただけだ。」


「ならいい。」蓮はそう言いながらも、クラウスの手にあった凛音が作ったナツメ糕を、ためらいもなくパクリと頬張った。


クラウスは自分の手元を見つめ、一瞬の沈黙の後、ふっとため息をつく。凛音は呆れたように彼らのやり取りを見届けると、そのままアミーリアと共に書架の奥へと向かった。


「蒼霖国に関する古書なら、この辺りに……。」アミーリアは慎重に書物を探しながら、小さくつぶやく。「玄武の伝説についても、確かどこかの本で読んだことがあるわ。」


凛音は手近にあった古びた書物を手に取ると、ページをめくる。その瞬間、厚みのある紙の間から、一枚の画巻がふわりと舞い落ちた。彼女はそれを拾い上げ、そっと広げる。


画には、水墨で描かれた広大な水面が淡く滲んでいた。その湖底には、眠るように佇む一つの城が、ぼんやりと浮かび上がっている。高くそびえる城門は淡い筆致で描かれ、門額には古びた篆字が刻まれているものの、長い年月の流れに削られ、もはや判読は難しい。


回廊の奥、幾筋もの濃淡入り混じる墨の跡が、残された宮殿の影なのか、それとも崩れ落ちた塔の名残なのか――それすらも曖昧なまま、ただ静かにそこに佇んでいた。


「アミーリア、蒼霖国には、水底に沈んだ遺跡や伝説が残っているの?」

「ええ?」アミーリアは凛音の手元をちらりと見て、小首を傾げた。「本当に水の底に街があるの? そんなところで、どうやって息をして暮らすの?」


二人はそろって首を傾げ、大きな目を見開いたまま、互いに視線を交わしながら困惑していた。

「……なんか、不思議な感じがするね。」蓮が呟く。

凛音も静かに頷いた。「この絵、やけにリアルというか……まるで、誰かが実際に見たものみたいだね。」

クラウスは黙ったまま、画を見つめる。

その視線の先で――ふと、画の中の景色が揺らいだ気がした。


蒼霖国、三十年前。


青空は澄み渡り、白雲はゆるりと漂う。湖は碧く澄み、そよ風が水面を撫でて細かな波紋を広げていた。


湖畔には、小さな影が静かに佇んでいる。少年はそっと野花を摘み取り、それを水面に浮かべた。風がやさしく運び、花はゆっくりと湖の中心へと流れていく。


彼はここに頻繁に来るわけではない。

だが、蒼霖国の地を踏むたびに、必ずここへ足を運び、一輪の花を捧げる。


彼は聞いたことがあった。この湖には神がいると。

——だが、その神が応えたことは、一度もなかった。


時は流れ、季節は巡る。湖は変わらず澄み渡り、少年の姿も時折湖畔に現れる。彼は湖に向かって、日々の出来事や旅先での話を語りかける。時には、些細な不満をこぼすこともあった。

誰にも届かない独り言。だが、彼はそれすらも楽しんでいた。


そんなある日、彼は湖に落ちた。

冷たい水が彼を包み込み、深く沈めていく。必死にもがくも、意識は次第に薄れていった。湖水は静寂の闇となり、彼の小さな体を呑み込んでいく。


……だが、目を覚ましたとき、彼は巨大な亀の背の上にいた。

それは、信じられないほど大きな亀だった。湖面に浮かびながら、ゆっくりと進む。少年はその甲羅の上に横たわり、透き通るような青空を見上げた。まるで夢の中にいるような感覚だった。


少年は興奮気味に城へ戻り、皆に語った。

「湖の底に城があったんだ!本当だよ、俺の目で見たんだ!あの大きな亀が、俺をそこに連れて行ってくれたんだ!」


だが、誰一人として信じなかった。

「ただの夢だろ?だって、お前の服はまったく濡れていないじゃないか。」


大人たちは笑って首を振り、子供たちは冗談めかして囃し立てる。少年は顔を真っ赤にして必死に弁解したが、それを証明する術は何もなかった。


——だが、彼は確かに、あの亀を見たのだ。


それからというもの、彼は蒼霖国を訪れるたびに湖へと足を運び、変わらず一輪の花を捧げるようになった。


やがて、湖底の城のことを語るのをやめた。誰かに信じてもらおうとすることもなくなった。ただ、湖畔に立ち、変わらぬ静けさに向かって語りかけることが習慣になった。


神は相変わらず、何も言わないままだった。

——それでも、彼はその沈黙に慣れていった。


やがて、時は過ぎ、彼は大人になった。

そして、ひとりの女性を愛した。


彼女を連れて湖畔へと訪れ、いつもと変わらず花を捧げる。ただ、今回は——赤い花だった。


「私は結婚する。」

彼は湖に向かって微笑んだ。


隣で彼の言葉を聞いていた女性は、瞳を丸くし、不思議そうに首を傾げる。

「本当に神様なんているの? だって、一度も返事をもらったことないじゃない。」


彼は迷うことなく頷いた。

「いるよ。」


「あなたは、会ったことがあるの?」

「ああ。」


彼女はそれ以上何も聞かなかった。ただ、穏やかに微笑み、彼の手をそっと握り返した。


結婚後も、彼は変わらず湖を訪れた。妻もいつしかその習慣に慣れ、湖が彼にとってどれほど特別な場所なのかを理解するようになった。


そして、ある日——彼の子が生まれた。彼は湖へ行くことができなかった。


だから、代わりに窓辺へと歩み寄り、そっと息を吹きかけ、手の中のタンポポの綿毛を風に乗せた。

「今日、我が子が生まれた。」


微笑みながら、窓の外を見つめる。

そして、ゆっくりと背を向けようとした、その瞬間——


ふと、どこからか水面が小さく揺れるような音が聞こえた気がした。


——そして、彼ははっきり聞いた。


それは、低く穏やかで、どこか懐かしさを感じる声だった。

「……おめでとう。」


彼は息を呑み、弾かれたように振り返る。

だが、窓の外には湖などなく、静寂が広がっているだけだった。


彼は腕の中の幼子を見下ろし、気づけば微笑んでいた。


その日から、

彼は時折、声を聞くようになった。

風のように淡く、天地を彷徨うような声だ。


幻か、あるいは現か。

彼は、その存在と語らうようになった。


その日から、

彼は変わらず蒼霖国を訪れるたびに湖へと足を運び、一輪の花を捧げた。


だが、聞こえる声は、もはや湖の底からではなく、彼のすぐそばから響いていた。


その日から、

世界の均衡は、静かに、そして確かに崩れ去った。

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