110 砕けた満月
「我が愛しい甥よ、素晴らしい。」
クラウスが宮殿へ足を踏み入れた瞬間、デイモンの高らかな拍手が響き渡った。
声は朗々としており、満面の笑みを浮かべている。
クラウスは彼を一瞥し、口元に皮肉めいた笑みを浮かべると、デイモンの芝居がかった調子をそのまま真似た。
「まったく、大仰すぎて吐き気がするな。」
そう言うなり、わざと壁に手をつき、喉を押さえながら、苦しげに肩を震わせる。
デイモンの微笑みは崩れなかった。だが、その双眸の奥に、一瞬、鋭い殺気が閃いた。
宮殿の中央には、大きな落地窓が広がっている。
外には、風に揺れる樹々の影が長く伸び、一輪の満月が静かに輝いていた。
透き通るガラス越しでも、その輪郭は驚くほど鮮明で、銀の光が床へと流れ込んでいる。
緩やかな風が流れ、窓辺の帷をそっと揺らした。
まるで、この宮殿の行く末を見守る者が、息を潜めているかのように。
「蒼霖国は、お前の思い通りにはさせない。」
「……ほう?」デイモンはわずかに眉を上げ、微笑のまま短く息を漏らす。その声音には、すでに勝負はついていると言わんばかりの響きがあった。
彼は卓上の酒杯を持ち上げ、ゆったりと口に含む。
「民がどれだけ泣き叫ぼうと、剣を握れぬ者に何ができる?真に国を操るのは、軍隊ですらない。」
「……なら、お前だと?」
クラウスの問いに、デイモンは小さく笑い、ゆるく首を振った。
「お前が王になるのを、私は止めないよ。むしろ、その行動こそが、お前がアミーリアより遥かに有用だと証明している。」
「だったら……すべては『雪蓮』のためか!!」刹那、クラウスの怒声が宮殿を切り裂き、銀の刃が奔った。「デイモン!!」
剣の切っ先が、一直線にデイモンの喉元を狙う。
暗がりに潜んでいた凛音は、思わず拳を握りしめた。
心臓が激しく跳ねる。
目の前にいるクラウスは、以前の彼とはまるで別人のようだった。
デイモンは逃げなかった。
彼はただ、窓際に立ち、じっとクラウスを見据えたまま、微動だにしない。
満月は高く昇り、銀の光が彼の背を照らす。
その輪郭は闇の中で鮮明に浮かび上がり、まるで彼自身が月の中心に佇んでいるかのようだった。
「……ククッ。」
不意に、デイモンが低く笑う。
その漆黒の瞳が、クラウスの剣先を映しながら、僅かに歪んだ。
「お前はまだ、何も知らないんだな。」
「……何?」
クラウスの剣が、一寸、デイモンの喉元へと近づく。
だが、それでもデイモンは微動だにせず、余裕の笑みすら浮かべたままだった。
「残念だよ、クラウス。私は、お前がもう少し聡い男だと思っていたのに。」
「それに……」
デイモンはふっと息を吐き、軽く首を傾げると、剣の刃を二本の指で挟み、ゆるりと押し戻した。
「お前はまだ甘い。私だったら――迷わず心臓を貫いている。」
クラウスの指先が一瞬、微かに震えた。
だが、彼はそのまま力を込め、剣を握り直す。
デイモンはその様子を見ても、ただ冷笑を浮かべるだけだった。
彼は悠々と外套のフードを持ち上げる。
「私が欲しいのは、この国でもなければ、雪蓮でもない。」
そして、迷いもなく振り返り、目の前の窓へと駆け出した。
「クラウス、またな。」
次の瞬間、ガラスが粉々に砕けた。
散った破片は月の光を受け、氷の欠片のように煌めきながら宙を舞い、デイモンの姿とともに夜闇へと消えていった。
残されたのは、ゆっくりと降る硝子片と、それが地に触れる、遅れて響く破裂音だけ。まるで、世界が彼の速さに追いつけなかったかのように。
「何が起こった?」
凛音、凛律、それに望月公会の暗殺者たちが、外から駆け込んできた。
「追うか?」
凛律がクラウスを見て問いかける。
クラウスは沈黙し、深く考え込むように視線を落とした。
「追う必要はない。」
凛音は先に答えた。
「相手は、こちらが重臣たちと手を組み、宮廷の守りをすり替えたことも、望月公会の動きも、すべて把握していた。それでも刺客を差し向けることなく、あえて我々を泳がせた。さらに、最初に辺境へ向かったときも、着いた途端に待ち構えたかのような芝居と民の姿があった……最初から、すべて監視されていたんだ。」
彼女の声は冷静で、確信に満ちていた。
「だが、殺しには来なかった。つまり、彼の目的はそこではない。」
一瞬、場に静寂が落ちた。
「私の父は、こう言っていた。どれほど窮地に立たされても、冷静であれと。」
クラウスの表情が僅かに揺らぐ。
彼はふと凛音を見つめた。
その瞳には、驚きと、僅かな悲しみが滲んでいた。
「……林将軍か?」
凛音は小さく頷いた。
「それに、白瀾国の軍が城の外を囲んでいるとはいえ、もしもこの国の内乱を外の軍勢で平定するなら、それはお前にとって決して得策ではない。」
クラウスは、彼女の意図を瞬時に察し、口元を歪めた。
「私は、いつ王になると言った?」
「お前は、この国を立て直すと言った。」
凛音は真正面から彼の瞳を捉えた。
「ならば――民がいるうちに、急がなければならない。」
その最後の言葉は、まるで警告のようでもあり、あるいは彼女自身の拭えぬ悔いのようにも聞こえた。
クラウスは深く息をつき、頭をかきながら、小さく笑った。
「本当に……お前がいると、頭が痛くなることばかりだ。」
その後、アミーリアたちも宮廷に到着した。
「それでは、対外的には兄上が叔父上を討ったということにするのはどう?」
クラウスは、迷いなく首を振る。
「それは嘘だ。この国に、もうこれ以上の偽りは必要ない。」
彼は窓の外に浮かぶ月を仰ぎ、静かに続けた。
「真実を伝えろ。デイモンは逃げた。だが、私は、この国をもう一度誇れる国にする。」
そう言い切ると、ゆっくりと振り返り、まっすぐに凛音を見据えた。
「凛音、玄武を探しに行くぞ。」
夜は深く沈み、静寂が支配していた。確かに満月は空に高く輝いている。それなのに、その姿は無限に砕け散ったかのようだった。
凛音はクラウスを見つめ、胸の奥に消えぬ不安がじわりと広がっていくのを感じた。
クラウスの表情は一見穏やかだったが、その奥には隠しきれぬ疲労の色が滲んでいた。まるで、背負うにはあまりにも重いものを抱えているかのように。
誰も口にしなかった言葉は、闇に潜む刃のように、静寂の中でその時を待ち続けている。




