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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第九章:飛雪は六月に非ず、沈みし冤ついに天光に
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110 砕けた満月

「我が愛しい甥よ、素晴らしい。」

クラウスが宮殿へ足を踏み入れた瞬間、デイモンの高らかな拍手が響き渡った。

声は朗々としており、満面の笑みを浮かべている。


クラウスは彼を一瞥し、口元に皮肉めいた笑みを浮かべると、デイモンの芝居がかった調子をそのまま真似た。

「まったく、大仰すぎて吐き気がするな。」

そう言うなり、わざと壁に手をつき、喉を押さえながら、苦しげに肩を震わせる。


デイモンの微笑みは崩れなかった。だが、その双眸の奥に、一瞬、鋭い殺気が閃いた。


宮殿の中央には、大きな落地窓が広がっている。

外には、風に揺れる樹々の影が長く伸び、一輪の満月が静かに輝いていた。

透き通るガラス越しでも、その輪郭は驚くほど鮮明で、銀の光が床へと流れ込んでいる。

緩やかな風が流れ、窓辺の帷をそっと揺らした。

まるで、この宮殿の行く末を見守る者が、息を潜めているかのように。


「蒼霖国は、お前の思い通りにはさせない。」


「……ほう?」デイモンはわずかに眉を上げ、微笑のまま短く息を漏らす。その声音には、すでに勝負はついていると言わんばかりの響きがあった。


彼は卓上の酒杯を持ち上げ、ゆったりと口に含む。

「民がどれだけ泣き叫ぼうと、剣を握れぬ者に何ができる?真に国を操るのは、軍隊ですらない。」


「……なら、お前だと?」


クラウスの問いに、デイモンは小さく笑い、ゆるく首を振った。

「お前が王になるのを、私は止めないよ。むしろ、その行動こそが、お前がアミーリアより遥かに有用だと証明している。」


「だったら……すべては『雪蓮』のためか!!」刹那、クラウスの怒声が宮殿を切り裂き、銀の刃が奔った。「デイモン!!」


剣の切っ先が、一直線にデイモンの喉元を狙う。


暗がりに潜んでいた凛音は、思わず拳を握りしめた。

心臓が激しく跳ねる。

目の前にいるクラウスは、以前の彼とはまるで別人のようだった。


デイモンは逃げなかった。

彼はただ、窓際に立ち、じっとクラウスを見据えたまま、微動だにしない。


満月は高く昇り、銀の光が彼の背を照らす。

その輪郭は闇の中で鮮明に浮かび上がり、まるで彼自身が月の中心に佇んでいるかのようだった。


「……ククッ。」

不意に、デイモンが低く笑う。

その漆黒の瞳が、クラウスの剣先を映しながら、僅かに歪んだ。

「お前はまだ、何も知らないんだな。」


「……何?」

クラウスの剣が、一寸、デイモンの喉元へと近づく。


だが、それでもデイモンは微動だにせず、余裕の笑みすら浮かべたままだった。

「残念だよ、クラウス。私は、お前がもう少し聡い男だと思っていたのに。」


「それに……」

デイモンはふっと息を吐き、軽く首を傾げると、剣の刃を二本の指で挟み、ゆるりと押し戻した。

「お前はまだ甘い。私だったら――迷わず心臓を貫いている。」


クラウスの指先が一瞬、微かに震えた。

だが、彼はそのまま力を込め、剣を握り直す。


デイモンはその様子を見ても、ただ冷笑を浮かべるだけだった。

彼は悠々と外套のフードを持ち上げる。

「私が欲しいのは、この国でもなければ、雪蓮でもない。」


そして、迷いもなく振り返り、目の前の窓へと駆け出した。

「クラウス、またな。」


次の瞬間、ガラスが粉々に砕けた。

散った破片は月の光を受け、氷の欠片のように煌めきながら宙を舞い、デイモンの姿とともに夜闇へと消えていった。

残されたのは、ゆっくりと降る硝子片と、それが地に触れる、遅れて響く破裂音だけ。まるで、世界が彼の速さに追いつけなかったかのように。


「何が起こった?」

凛音、凛律、それに望月公会の暗殺者たちが、外から駆け込んできた。


「追うか?」

凛律がクラウスを見て問いかける。


クラウスは沈黙し、深く考え込むように視線を落とした。


「追う必要はない。」

凛音は先に答えた。

「相手は、こちらが重臣たちと手を組み、宮廷の守りをすり替えたことも、望月公会の動きも、すべて把握していた。それでも刺客を差し向けることなく、あえて我々を泳がせた。さらに、最初に辺境へ向かったときも、着いた途端に待ち構えたかのような芝居と民の姿があった……最初から、すべて監視されていたんだ。」


彼女の声は冷静で、確信に満ちていた。

「だが、殺しには来なかった。つまり、彼の目的はそこではない。」


一瞬、場に静寂が落ちた。


「私の父は、こう言っていた。どれほど窮地に立たされても、冷静であれと。」


クラウスの表情が僅かに揺らぐ。

彼はふと凛音を見つめた。

その瞳には、驚きと、僅かな悲しみが滲んでいた。


「……林将軍か?」


凛音は小さく頷いた。

「それに、白瀾国の軍が城の外を囲んでいるとはいえ、もしもこの国の内乱を外の軍勢で平定するなら、それはお前にとって決して得策ではない。」


クラウスは、彼女の意図を瞬時に察し、口元を歪めた。

「私は、いつ王になると言った?」


「お前は、この国を立て直すと言った。」

凛音は真正面から彼の瞳を捉えた。

「ならば――民がいるうちに、急がなければならない。」

その最後の言葉は、まるで警告のようでもあり、あるいは彼女自身の拭えぬ悔いのようにも聞こえた。


クラウスは深く息をつき、頭をかきながら、小さく笑った。

「本当に……お前がいると、頭が痛くなることばかりだ。」


その後、アミーリアたちも宮廷に到着した。

「それでは、対外的には兄上が叔父上を討ったということにするのはどう?」


クラウスは、迷いなく首を振る。

「それは嘘だ。この国に、もうこれ以上の偽りは必要ない。」

彼は窓の外に浮かぶ月を仰ぎ、静かに続けた。

「真実を伝えろ。デイモンは逃げた。だが、私は、この国をもう一度誇れる国にする。」


そう言い切ると、ゆっくりと振り返り、まっすぐに凛音を見据えた。

「凛音、玄武を探しに行くぞ。」


夜は深く沈み、静寂が支配していた。確かに満月は空に高く輝いている。それなのに、その姿は無限に砕け散ったかのようだった。


凛音はクラウスを見つめ、胸の奥に消えぬ不安がじわりと広がっていくのを感じた。


クラウスの表情は一見穏やかだったが、その奥には隠しきれぬ疲労の色が滲んでいた。まるで、背負うにはあまりにも重いものを抱えているかのように。


誰も口にしなかった言葉は、闇に潜む刃のように、静寂の中でその時を待ち続けている。


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