105 道を見失わぬ強さ
林府が炎に包まれたその日、凛律は李禹と共に兵営にあり、黒市での火薬取引の急増を密かに調査していた。だが、誰が予想しただろう。その炎が焼き尽くしたのは、他でもない彼自身の家だった。
王都を守り、身を挺して外敵を防ぐと誓った――だが、見たのは、燃え尽きた空。
苦難を厭わず、国境を護ると誓った――だが、待ち受けていたのは、家族を喪う報せ。
民を守り、甲冑の身を捧げると誓った――だが、結局、最も大切な人すら守れなかった。
手にする剣はなお重く、生まれ育った家は灰となった。
林府の焼け跡に跪き、凛律は何も言わなかった。
彼は目の前の灰に手を伸ばした。
そこに、かつて母が生きていた証はもうない。
残るのは、焼け落ちた梁と崩れた瓦、そして嗅ぎ慣れたはずの家の香りが煤けた臭いに上書きされる感覚だけだった。
掌に落ちた灰が、指の隙間から零れ落ちる。まるで、それまで守ろうとしてきたものが、指の間からすり抜けていくかのように。
彼は母を愛していなかったのか?
――そんなはずがない。
彼はこの国を憎んでいなかったのか?
――憎んでいるに決まっている。
傍観していた者、火に油を注いだ者、追い詰めた者。
その誰を憎まずにいられるというのか。
だが、この世に憎しみしか残らなければ、増えるのは自分と同じく、すべてを失った者たちだけ。
聖人になりたいわけではない。
ただ、私には冷静でいなければならない理由がある。
復讐か?音ちゃんと同じように?
……彼女が歩む道は、決して安易なものではない。
彼女の憎しみは、生きる証。
彼女の復讐の旅路、その一歩一歩は、血と痛みに満ちている。
ならば、私は?
彼女が傷つき、迷いそうになったとき――
私にできることは、支えることではないのか。
私は、音ちゃんのようにはならない。
私が目指すのは、彼女が道を見失いそうになったとき、呼び戻せる存在だ。
私は誰よりも復讐を望んでいる。だが、私は考え続けなければならない。もっと遠くへ進むために。
――現在、教養院の隠し部屋。
「お兄様、どうしてここに?」
だが、凛律が答える前に、蓮が先に難しい顔で彼を見つめ、深く頭を下げた。
「すまなかった。私がもっとちゃんとやっていれば……」
「謝らないでください、蓮殿下。」
凛律の声は冷静で、しかし鋭く切り込むようだった。
「私は、あなたがなぜ王位を拒んだのかを知っています。ですが、それを理解することはできません。」
蓮が息をのむのがわかった。
凛律は一歩も引かず、真っ直ぐに彼を見据えながら続ける。
「あなたが謝る相手を間違えています。私ではなく、国民よ。」
律がこんなふうに私に言葉を向けたのは、一体何年ぶりだろう。
彼はいつも、正しく、そして冷静だった。
怒りが強ければ強いほど、なおさら冷静さを増す。
その静けさの奥には、氷のような冷たさがあり、揺るぎない威厳が滲んでいた。
そうだ、間違えたのは私だ。
私は国民の前で、感情を選んだ。
痛みに沈む兄弟を、支えることなく、ただ置き去りにした。
彼はきっと立ち上がり、再び私のそばに戻ってくる――そう、勝手に思い込んでいた。
ごめんね。
たとえ君が、それを聞きたくなくても、律。
「お兄様はそんな風に言って、まるで私が悪いみたいじゃない。」
凛音は一歩踏み出し、凛律の腕を軽くつかむと、ふわりと揺らしながら甘えるように言う。
「はいはい、清樹、聞こえたでしょう?お兄様ったら、私のことを『紅顔禍水』みたいに言うのよ。」
「実際、お前のせいで、私は頭を抱え続けている。」
「えー、そんなことないでしょ?」
「ある。」
「じゃあ、お兄様の眉間の皺を増やさないように、次から気をつけるね。」
「次があるのか……?」
そして、凛音も蓮と同じく深く頭を下げた。続いて、清樹も。
「ごめんなさい、お兄様。」
そう、この三人は林夫人の死後、現実から逃げるように、すぐに白瀾国を離れた。
それが認めたくない残酷な事実であることを、凛律も分かっている。
だからこそ――
凛律は深く息をつき、一気に三人を腕の中へと抱き寄せた。
「……無事でよかった。」
「お兄様はどうして私たちが長明堂にいることを知っているの?」
「ルナから連絡を受け取った。お前たちがとんでもないことに巻き込まれたって。」
「お兄様はルナ様の知り合いなの?」
「ええ。昔、蒼霖国に外交で訪れたとき、ずいぶん世話になったよ。」
凛律は話の流れを変え、「要人を倒すのに、ただ剣を振るうだけで済むと思っているのか?」と問いかけた。
「では、凛律ならどう考えてる?」
「蓮、お前は白瀾国の皇子だ。表立ってこの件に関与してはいかない。そして、アミーリアの救出は、今夜未明に決行する。 この伏撃で長明堂を落とせなかった以上、敵はまだ混乱の最中にある。今こそ、やつらが態勢を立て直す隙を与えず、一気に仕掛けるべきだ。」
そう言いながら、凛律は凛音の髪にそっと手を伸ばし、短くなった髪を指先で撫でた。その目には、どこか哀惜の色が浮かんでいる。
「もしアミーリアを救出しても、クラウスがまだ目覚めないなら……彼女とお前は、兵権を握る将軍や実権を持つ大臣に直接会いに行くことになる。白瀾国はすでに、蒼霖国の反乱鎮圧を支援する意向を示している。そして、国境には軍が待機していることを伝えろ。」
「国は、一日たりとも主を欠いてはならぬ。彼ら二人のうち、どちらかが新たな王として立たねばならない。」
「お兄様、今回の計画……本当に上手くいくと思っている?」
凛音が問いかけると、凛律は一瞬だけ沈黙した後、静かに答えた。
「計画は計画だ。確実性が保証されているものなど存在しない。」
「じゃあ、何を基準にするの?」
「敵がこの機を逃すことはあり得ない。それなら、こちらは先に動くまでのこと。」
「まるで将棋ね。」
「違うな。将棋ならば、勝敗が決まるまで盤上で続くだけだ。しかし現実では、一手のミスが命を奪う。」
戦略を練ることに長けた凛律。状況を制することにも秀でた凛律。
そんな男を、味方にしたいとは思っても――決して、敵には回したくない。




