104 月下の狩人
月は穏やかに夜を照らし、風は梢を撫でていた。木々の間、一匹の螳螂がじりじりと蝉へと忍び寄る。葉陰に潜む獲物は微かに身じろぎ、その気配を察していた。
狙いを定め、鎌がゆっくりと振り上げられる。
だが、その背後にはさらなる影。羽音ひとつ立てず、機をうかがう黄雀。
螳螂は目の前の蝉にばかり意識を向け、己が狙われていることには気づかない。鎌が振り下ろされた刹那、蝉が跳ねるように身を翻し、その刃をするりと避ける。そして、黄雀が舞い降りた。
気づいた時には、すでに遅い。螳螂の身が黄雀の鋭い嘴に捕らえられ、捕食者と獲物の立場があっけなく逆転する。
夜は、ただ冷たく静かに、それを見下ろしていた。
――長明堂の奥、凛音はふと顔を上げる。
風の流れが変わった。
外は妙に静かすぎる。虫の音すらない。
窓の向こう、闇に溶けるように佇む建物の影。
そこをすり抜けるかのように、微かな布擦れの音が聞こえた。
「……。」
凛音は無言のまま立ち上がる。指先で灯籠の火を静かに摘み取るように消した。
「凛音?」蓮が眉をひそめる。
「出るわ。」凛音の声は低い。「気配がする。敵よ。」
狙われている。
だが、狩る者が誰で、獲物が誰かは――まだ、決まっていない。
凛音は息を潜め、暗闇に目を凝らした。
その瞬間、外の静寂を切り裂くように、威圧的な声が響いた。
「長明堂の者ども、門を開けろ。王命により、お前たちは逆賊幇助の罪で拘束する。」
バン!バンッ!
無数の足音が周囲を埋め尽くし、門が激しく叩かれる音が響き渡る。まるで待ち伏せていたかのような、計算された動き。
蓮は目を細めた。「……《《偶然》》の襲撃じゃないな。」
「ええ。」凛音は素早く窓辺に身を寄せ、外を伺う。「これは、最初から私たちの居場所を把握していた襲撃よ。」
敵は、長明堂の存在をすでに掌握していた。
「……蓮。」
「分かってる。」
「清樹、すぐにクラウスを連れて逃げなさい。」
「で、でも凛音様――!」
「私たちは後で合流する。今は一刻も早く、クラウスを安全な場所へ運ぶのが先決よ。」
清樹は悔しそうに唇を噛んだが、すぐに頷いた。「分かりました……!」
そして、次の瞬間――
「突入しろ!!」
轟音と共に門が破られた。
長明堂、完全包囲。
一気に敵兵が流れ込んでくる。
だが、凛音は一歩も動かない。
「――全員、足を止めなさい。」
低く、鋭く、命令のように響く声。
一瞬、侵入してきた兵たちが無意識に動きを止めた。
次の瞬間、凛音の姿が、彼らの視界から消えた。
「――なっ……!?」
影のように駆け抜ける。
足音すら感じさせず、最前線の兵士の懐へ潜り込む。
「遅いわ。」
刃が煌めく。
一閃。
首筋へ正確に刃を滑らせ、静かに沈める。
返す刀で二人目の腕を弾き、武器を落とさせる。
「このっ……!」
別の兵士が槍を突き出す――だが遅い。
凛音はわずかに身体を傾け、その刃を紙一重で回避する。
そして、地を蹴り上げ、鋭い回し蹴りが兵士の側頭部に炸裂した。
「ぐ……!」
兵士は呻きながら崩れ落ちる。
しかし、凛音はまだ微動だにしない。
戦況を冷静に見極め、瞬時に最善手を選び続ける。
彼女の周囲には、すでに三名の兵が沈んでいた。
「……流石、林将軍の娘か。」
侵攻部隊の指揮官が唸る。
「だが、《《数》》には勝てまい。」
ドドドドドッ――!
合図とともに、さらに兵士たちが一斉に駆け込んできた。
数え切れぬほどの刃が凛音ただ一人に向かって襲いかかる。
「……おい、凛音様が一人で残ってるんじゃないのか?」
清樹が後ろを振り向きながら、焦ったように蓮に言う。
「……凛凛は、そう簡単にやられる女じゃない。」
蓮は短く答え、暗がりの中を進む。
その時、後方の影が大きく揺れた。
「……っ!?」
長明堂の裏路地、静寂を裂くように矢が一本、空を切った。
――敵の喉元に突き刺さる。
「ぐぁっ……!」
兵士の一人が悲鳴を上げ、崩れ落ちる。
誰だ!?
蓮と清樹が警戒しながら振り向く。
闇の中、一人の男が屋根の上に立っていた。
長い黒髪が風に揺れ、鋭い眼差しが月光を切り裂くように光る。
その瞬間、すでに屋内へ踏み込んでいた兵士の背に、鋭い矢が突き刺さる。
「……なに!?」
絶命する間もなく、兵士はそのまま崩れ落ちた。
次の瞬間、さらに一人、喉を貫かれる。
「あっ……!」
悲鳴が途切れる。
「くそっ、どこから――!」
「包囲を維持しろ!」
指揮官が怒鳴るが、兵たちの動揺は隠せない。
その時、夜闇を切り裂く声が響いた。
「……遅かったな。」
月光が彼の輪郭を浮かび上がらせる。
「お兄様?!」
凛音が息を呑む。
彼はゆっくりと弓を下ろし、敵兵たちを見下ろした。
「逃げ道があると思うなよ。」
最後の矢が放たれた。
鋭い風切り音とともに、一直線に飛ぶ。
「――ッ!!」
敵兵の中で、一番後方にいた指揮官の兜を寸分違わず射抜き、無情にも弾き飛ばした。
金属が弾ける音が響く。隊は完全に混乱に陥った。
凛律は静かに微笑むと、弓を素早く背中に戻し、一瞬の隙をついて地面に飛び降りる。
着地と同時に、素早く状況を見渡した。
「音ちゃん、言いたいことは山ほどあるが、まずはこの場を片付けようか。」
凛音が息をのむ間もなく、二人は背を預ける。
凛律は迷いなく腰の剣を抜いた。その眼差しは、獲物を捕らえた猛禽のように鋭く研ぎ澄まされている。
彼は、ただ螳螂を狩る黄雀などではない。
敵兵たちは混乱し、動揺の色を隠せないまま剣を構え直す。
「貴様……林将軍の……!」
誰かが声を上げる――だが、その言葉が最後まで続くことはなかった。
シュッ――風を裂く音。
次の瞬間、凛律の剣が閃き、敵の喉元すれすれをかすめる。
一拍遅れて、凛音の刃も舞う。斬撃の閃きが交差し、倒れ伏す敵の影。
背中を預ける、あの日と同じ戦場の感覚。
「……お兄様!?」
凛音は驚きの声を上げるが、視線は敵から決して逸らさない。
「久しぶりだな。」
凛律は余裕の笑みを浮かべ、剣を軽く払う。
「ちょっと派手にやりすぎたか?」
「お兄様こそ、まだまだ衰えてないみたいね。」
「そっちこそ、前より腕が上がったな。」
背後で微かに笑う声。その瞬間、二人は同時に動いた。
――疾風の如く。
そして、夜の狩人が誰であるか、ようやく明白となった。




