103 操られし人形
クラウスの昏睡はすでに数日続いていた。身体に大きな異変は見られないが、目覚める気配もまるでなかった。
蓮と清樹は幾冊もの医書を広げ、治療の術を探し続けた。そして、たどり着いた答えはただ一つ。
「クラウスは、自ら目覚めることを拒んでいる。ゆえに、神の力でさえ干渉できない。」
理屈としては筋が通る。だが、それが真実なのか――誰にも分からなかった。
「……でも、いつまでもこうして待っているわけにはいかない。」
凛音は息を整え、一言。
「アミーリアを助けに行くわよ。」
――静寂は、時にどんな言葉よりも不安を掻き立てる。
窓の外には、闇深き夜が広がっていた。宮城の奥は静まり返り、どこか不穏な気配さえ漂っている。燭火が揺れ、壁に映る影が滲んでは消え、ただ無言でそこにあった。
寝殿の片隅で、アミーリアはじっと座っていた。細い指先が手首をなぞる。そこには、兵士に強く掴まれた痕が赤く残っていた。目を閉じると、あの日の喧騒が脳裏をよぎる。王座は沈黙し、兄の声は届かず、デイモンの命令だけが響いた。
どれほどの時が経ったのだろう。彼女はこの宮殿に囚われ、外の世界と完全に切り離されていた。侍女たちの態度は日に日に冷たくなり、目を合わせることすら避けるようになった。
デイモンは、すべてを掌握するつもりなのだ。
王座を覆すだけでなく、あらゆる反抗の芽を摘み取るつもりでいる。
兄は今、どこにいるのだろうか。いや――まだ、生きているのだろうか。
胸の奥に、冷たい感覚が広がっていく。
その時、静寂を破るかのように、寝殿の外から足音が聞こえた。
「……アミーリア様。」
おずおずとした侍女の声が響く。彼女は反射的に顔を上げた。
「デイモン様が、お呼びでございます。」
心臓が、小さく跳ねた。――デイモン? こんな時間に、一体何の用だというのか。
アミーリアは静かに息を整え、そっと立ち上がる。衣の乱れを直し、表情を引き締めながら、思考を巡らせた。
今は、焦らず冷静に。
彼女には、デイモンの真意を探る術も、頼れる味方もいない。だが、それでも――ただ囚われの姫として待つつもりはなかった。
どんなにわずかでもいい。
この牢獄のような宮殿の中で、今の自分にできることを見つけなければならない。
「叔父上様、一体何のご用でしょうか?」
「アミーリア、そんなに冷たくしなくてもいいじゃないか。」
デイモンは不敵な笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄る。
「昨日のことは、逆賊を捕らえるために必要だっただけさ。」
彼の指がそっとアミーリアの顎に触れ、無理やり持ち上げる。
「つまり、私は叔父上の手の中で動く、ただの駒ということですね。」
その言葉に、デイモンの笑みが僅かに歪んだ。
次の瞬間、彼の指がアミーリアの喉を強く締め上げる。
「そうだな。その駒らしく、しっかり役目を果たしてもらおうか。」
低く囁くと、デイモンは無造作に手を放し、アミーリアの身体を乱暴に押しやった。
「いい子にして、『賢明な女王陛下』を演じてくれよ。」
……何?
アミーリアの瞳が大きく見開かれる。
彼は、自らが王位に就くつもりなのではなかったのか。ずっとそう思っていた。
なのに――
デイモンの真意に気づいた瞬間、背筋を冷たい刃でなぞられたような感覚が走った。
「王位? くだらない。そんなもの、一体何が面白い?」
デイモンはゆったりと歩を進め、アミーリアの髪を指先で掬い上げる。
それを弄ぶように絡めながら、ふっと微かに笑みを浮かべ、鼻先へと寄せる。
「背後に立ち、すべてを操る者こそが、本当の王だ。」
淡々と告げると、絡めていた髪を指の間から滑らせた。
「さて、アミーリア――」
彼は彼女の手を取り、まるで貴婦人をエスコートするような優雅な仕草で、穏やかに王座へと《《導いた》》。
そして、恭しく「迎え入れる」かのように、彼女を王の座へと腰掛けさせる。
そのまま玉座の背後へと回り込み、アミーリアの手首を掴み、自らの掌へと添えるように持ち上げる。
「知っているか?」
囁くような声が、彼女の耳元に落ちる。
「操り人形を動かすのは、実に楽しいものだよ。」
デイモンの声には、心底愉悦を滲ませた響きが混じっていた。
「クラウスには少し期待していたんだがな。もう少し遅く気づいてくれれば、こうして王座に座らせて、存分に遊べたものを。」
まるで心から惜しんでいるかのように、肩をすくめる。
「……では、叔父上は、私がいずれ反旗を翻すとは思わないのですか?」
「反旗を翻す? お前は、なぜ私がシアンに血蓮の研究を命じたと思っている?」
デイモンは王座の正面へと歩み寄ると、ゆっくりとその肘掛に手を添え、軽く膝を折るように身を屈めた。
アミーリアの顔を見据えながら、視線は徐々に彼女の首筋へと滑り、そこに浮かぶ細い血管をじっと見つめる。
彼は喉の奥で愉悦に震える笑みを漏らし、低く囁く。
「せいぜい、今のうちに反抗を楽しんでおくことだな。」
目を細め、唇の端を愉悦に歪める。
「ああ、お前は知らないだろう? 細い針をゆっくりと刺し、じわじわと血がにじむ様を観察するのは、なかなか趣深いものだよ。」
「……変態。」
アミーリアは忌々しげに吐き捨てた。
デイモンは微かに肩をすくめ、ゆるやかに立ち上がる。そして、両手を背に回し、どこか余裕のある笑みを浮かべた。
「そんなこと、言わないでくれるか? 何しろ、誰にも望まれず、冷たい地面に転がっていたお前を拾い上げてやったのは、この私だ。」
軽く息を吐きながら、彼は王座の階段をゆっくりと下りる。だが、ふと立ち止まると、再びアミーリアを振り返り、恭しく片膝をつくような仕草を見せた。
「ほら、ご覧なさい。誰にも望まれなかった赤子が、今やこんなにも立派な女王様になったのだから――実に、感慨深いとは思わないか?」
彼の口元には、嘲弄と狂気が入り混じる歪んだ笑みが浮かんでいた。




