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雪の刃—殺し屋の元王女さま  作者: 栗パン
第九章:飛雪は六月に非ず、沈みし冤ついに天光に
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102 夢の檻

まるで海の底へと沈んでいくようだった。

冷たい水流が全身を包み込み、俺の呼吸を締めつける。


しかし、不思議なことに――あの喉を掴まれるような窒息の苦しさは感じなかった。


俺の想像では、溺れる者は皆、必死に喉を押さえつけ、窒息の痛みを引き裂こうとするはずだった。

では、俺は今……本当に溺れているのか?


クラウスは、そっと目を開けた。


周囲の水が、滲み出る血によって紅く染まっていく。

いや、滲むのではない。「吸い取られている」。

まるで、己の一部が容赦なく剥ぎ取られ、深海へと溶け込んでいくように――


恐怖というものは、痛みから生じるわけではない。

本当の恐怖は、「目にしてしまうこと」にある。

気づかなければ、何も感じない。だが、ひとたび見てしまえば、それは無限に膨れ上がり、逃れようのない現実となる。


クラウスは、もがいた。

想像していた「溺れゆく者」そのもののように、手足を乱暴に動かし、何かを掴もうとし、

この深淵から逃れようともがいた。


しかし、抗うことに意味はなかった。


やがて、彼は諦める。

力なく喉元へと手を添え、身体の奥底から這い上がる恐怖に飲み込まれていく。


そして――意識は、完全に闇へと沈んだ。


彼が再び目を覚ましたとき、そこはまるで虚無のような空間だった。

白――そう形容するしかない世界。だが、彼の視界を満たしたのは、鮮烈な赤だった。


血の海……ではない。

彼は、燃えるように鮮やかな紅い花々の上に横たわっていた。


「目が覚めた?」


突然響いた女の声に、クラウスは驚き、反射的に身を起こした。

両手を地面につき、花の上から身を支えようとする――だが、その瞬間、手のひらの感触に息を呑む。


花は柔らかく押し潰されることなく、まるで意志を持つかのように、しっかりと形を保っていた。

その異様さに、クラウスは慌てて手を引いた。


「そんなに怖がらなくてもいいのに。花を傷つけないよう、気をつけてね?」


「……これは、何の花だ?」


彼の問いに、女はクスリと笑った。

まるで、最初からその言葉を待っていたかのように。


「普通、こういう時は『お前は誰だ?』って聞くものじゃない?」


「……お前は誰だ?」


女は、わずかに目を細めると――


「さあな。」


そう言って、女は楽しげに微笑んだ。


次の瞬間、彼女はふわりと歩み寄り、クラウスの隣にしゃがみ込む。

そして、まるで幼子をあやすように、そっと彼の頭を撫でた。


「よく頑張ったな。よくやった。」


優しく囁くその声は、どこか懐かしさを感じさせた。


彼女の手が、次に紅い花の花弁へと触れる。指先がそっと撫でるように滑り、まるでそれを愛おしむかのようだった。


「これはね、私が一番好きな花なんだよ。」


そう言い終えると、彼女の姿はふっと消えた。


クラウスは、一瞬のことに反応できなかったのか、それとも彼女の言葉が妙に心に沁みたのか――

再び、まぶたが重くなるのを感じた。


視界がぼやけ、次第に暗闇へと溶けていく。


そして、彼は静かに眠りへと落ちていった。


再び目を覚ました時、クラウスは自分の身体に走る痛みが消えていることに気がついた。

身を包んでいた不気味な紅は、すでに跡形もなく消えている。


――だが、それでも、恐怖と寒気はますます強くなるばかりだった。


目の前に広がるのは、幾度となく繰り返し見た、あの夢の景色。

冷え冷えとした漆黒の部屋。壁の隅にうずくまり、震える自分。


「何をぼんやりしている?早く立って、一緒に外へ出よう。」


遠くから響くように、低く静かな男の声が聞こえた。


何故だろう――

思考が追いつく前に、身体の方が先に反応していた。


クラウスは戸惑いながらも、すっと立ち上がり、その声の主の後を追って歩き出した。


まるで世界そのものが激しく揺れ動き、幾つもの春秋を越えていくようだった。

どれほどの時間が経ったのか、どれほどの道を歩いたのかも分からない。


ただ、気づけば――

男は足を止め、クラウスもまた、自然とその場で立ち止まった。


目の前には、碧く静かな竹林が広がっていた。

風が吹き抜け、竹の葉がさわさわと揺れる。


男は右手に剣を持ち、左手で別の一本を抜き、それを軽く放り投げた。

クラウスは咄嗟にそれを受け取る。


「――腕試しといこうか。」

男は微笑みながら、ゆるりと構えた。


クラウスは躊躇わず、剣を握りしめ、一気に振り下ろした。

だが――


「はは、遅い。」


男は笑いながら、まるで遊びのように軽々とその一撃を受け流す。

刹那、反撃の一閃。


クラウスの剣が弾かれ、無情にも地面に落ちた。


「お前は頭は悪くないのに、いつも楽をしようとする。」

男は剣の刃先をクラウスの肩にそっと乗せながら、愉快そうに言葉を続けた。

「こういう時になって、ようやく修行不足を思い知るんだろう?」


「何よ、そんなに馴れ馴れしくしないでくれる?」

クラウスは忌々しげに睨みつけた。


男はただ笑うだけで、何も答えなかった。無言のまま足元の剣を軽く蹴り上げ、それを手で掴んでクラウスの前に差し出した。

数合打ち合ったが、クラウスは一撃もまともに決められず、逆に男はまるで力を込めていないかのように軽々と受け流していた。


「その程度で、この国を立て直すつもりか?」

「……立て直す?俺は本物の王族じゃない。」

「王を決めるのは血筋じゃない。心だと、私は思うがな。」


クラウスは、その言葉に何かを感じたように、じっと男を見つめた。


「……お前は、この国の昔の王だったのか?」

「いや、違う。だが、ここは私にとって大切な場所だった。」


男はそう言うと、剣を軽く振り、背へと払うように収めた。そして、ゆっくりと歩き出す。クラウスはしばらく考え込んだ後、はっとして男の背中に目を向けた。


その視線を感じたのか、男はふと振り返り、微笑む。

「……妹は元気か?」


「……アミーリアは……」

クラウスの表情に、一瞬の陰りが差した。


男はそれを見ても、ただ静かに微笑み、背を向けた。

ゆったりとした足取りで歩きながら、最後にぽつりと呟く。

「よろしくな。」


クラウスは男の背中を見送った。


だが、その足音が遠ざかるにつれて、周囲の景色がかき消えていく。

竹林は霧散し、大地は形を失い、色彩は消え去り――そして、何もなくなった。


クラウスは息を呑んだ。

目を開けているのか閉じているのかも分からない。

身体は?手足は?

ここは……どこだ?


闇より深く、静寂よりも空虚な――虚無が、彼を飲み込んだ。


そして、その沈黙を打ち破るように、突然、どこからともなく声が響く。


「お前、まだグズグズしてるのか? さっさと目を覚ませ!」


その声音はまるで、水面を揺らす鋭い波のように、クラウスの意識に突き刺さった。


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