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死は賜物

買い物に出かけようとドアを開けると、通りが何やら騒がしかった。半身を外に出して様子を見ると、どうやら女性同士の揉め事のようだ。

「返して!あの人を返してよ!」金髪で痩せた小柄な女が背の高い外国人風の女の腕を掴んで喚いている。「だからぁ、無理だってば。しつっこいなぁ」ウンザリした様子でそっぽを向いた女と目が合う。

女の蒼い瞳が揺らぎ、俺を凝視する。濃い目の栗色の髪に碧眼で透き通るような白い肌をしている、外国人風では無く、外国人だ。良くある三角関係の縺れだろうか?金髪が喚き散らす。

「あんたさえ居なければ!あんたが死ねば、あの人は帰って来るのよ!」金髪が片掛けにしたバッグかに手を入れる。取り出したのは文化包丁だ。

『あぁこりゃヤバい』と思ったら、俺から目を離さずに碧眼が笑った。酷く冷たい笑い方だ。

「死んでよ!」金髪が腰だめにした包丁ごと、女に体当たりした。

女の酷薄な笑顔が消え、腰の辺りに目を遣る。「あー…あ~あ…」

金髪が離れると、腰に深々と刺さった包丁の柄だけが見えた。「あんたが…し、死ねば…」見開いた両目から涙が零れ落ち、唇が震えている。

「だからぁ、私が死んだって彼氏は元に戻んないって言ってるでしょう?」あきれ顔で金髪を見下ろす。やけに他人事のようだが、痛くないのか?

数歩下がった金髪が叫ぶ。「し、死ねばいい!魔女!悪魔!あんたなんか死んじゃえ!」踵を返して走り去る。

「キャー‼大変‼お、おま、お巡りさん!や、いや、きゅ、救急車‼誰か!救急車読んでー‼」如何にもその手の話が好きそうな中年小太りのおばちゃんが、少し離れた所で青くなって右往左往している。遠くから人が駆けて来るのが見えた。

俺は関わり合いになりたくなかったので、後ろ手にそっとドアを閉めてから駅の方へ向けて歩き出した。おばちゃんのワーワー喚き散らす声を聴きながら、買い出しへと急ぐ。キャベツとソーセージが俺を待っているのだ。あと、コッペパンも。

いつもより時間をかけ、買い物を済ませて店の前に戻った時には、喧騒は消えて何事も無かったように普段通りだった。現場検証の痕跡も、血痕すらも残っていなかった。やけに対応が早かったようだが、警察も救急もそんなに手慣れているのだろうか?

俺は店に入ろうとして取り出した鍵を差し込んで気が付いた。鍵を閉め忘れた。出がけのゴタゴタで、鍵を掛けるのをすっかり忘れて出かけてしまったのだ。

一応、周りを確認する。いつもの縦列駐車に変化は無い。荒事師達にも際立った動きは見られない。俺は何食わぬ顔で店に入った。

内心ホッとして店に入り、灯りを付けて一歩踏み出した俺は凍り付いた。カウンターに誰か隠れている気配がする。ドアが閉まる音を聞きながら、俺は静かに言った。「出て来い。まだ開店前なんだ。出て行ってくれ」

一拍置いてから、カウンターの向こうに栗色の髪が見え、先程の外国人の女が顔を出した。「あ~っと、そのぉ~…ゴメンね、勝手に入って…」

ついさっき、腰に深々と包丁を突き立てられた女が、ヘラヘラ笑いながら立ち上がる。俺は平静を装いながら近付く。女は緩慢な動作でカウンターから出て来た。

「あんた大丈夫なのか?さっき腰の辺りに…」言いかけた俺の目が、形のいい女の腰に釘付けになった。別に邪な想いからでは無く、そこにはまだ包丁が刺さったままだったからだ。

「あ~これね、抜いてくんない?自分じゃぁちょっと…」腕を上げて腰を突き出す。刺さった包丁の柄が俺の方を向く。

「抜いちゃダメだ。そのまま医者に行った方がいい。抜くと出血が酷く…」俺は包丁が埋まっている所の傷を確かめようとして、違和感に手を止めた。全く血が出ていない。刃が見えなくなるほど刺さった包丁は、まるでそこから柄だけが生えているようだ。下手をしたら動脈を傷つけているかも知れない場所だが、血が滲んでさえいなかった。少なくとも刺されてから1時間は経っている。刺さったままの包丁が出血を防いでいたとしても、平然としていられる訳がない。

俺が凝視したまま凍り付いていると、女は平然と言った。「あぁ、大丈夫だから。服の穴が広がらないように、ま~っ直ぐぬいちゃって」グイと腰を上げる。

俺が躊躇すると、焦れたように腰を振る。「早くぅ。へーきだからぁ」

まぁ、本人がそう言うのであればと、俺は意を決して包丁の柄を掴んだ。女が足を踏ん張る。傷が広がらないように真直ぐ引き抜く。粘り付くような肉の手応えがある。間違いなく身体の奥深くまで突き刺さっていた。

俺が包丁を抜き終わると、女は刺さっていた場所を手で検めながら眉を曇らせた。「あ~もう、この服、高かったのにぃ…」こいつ、一体何を言ってるんだ?

拍子抜けした俺は、女が広げた服の穴を見て愕然とした。傷が無い。裂けた服の穴から白い肌が見える。傷口は疎か、血の一滴すらも付いて無いではないか。

満月期であれば、俺も傷の治りが異常に速い。同様の傷でも数分で治癒してしまうだろう。だがそれは、傷が付かないのとは違う。確かに通常よりも遥かに傷つき難いが、ちゃんと傷が付いて、それが治るのだ。当然痛みは有るし、出血もする。余程酷くなければ痕は残らないが、治るまでは多少なりとも時間がかかる。

だが、この女は違う。確かに包丁が、それも根元まで深々と刺さっていた筈なのに、血も出なければ傷も無い。包丁を抜いた後には、痕すら残っていない。服に穴が開いていなければ刺さっていた事が嘘のようだ。

俺は手にした包丁を確かめる。普通の包丁だ。この店にも似たような物がある。どこにでも売っている、家庭用の文化包丁だ。今しがた女の身体から抜き出したとは思えない程、一点の曇りも無い。

「このお店、臭うわねぇ」女は服の穴を確認するのに飽き、店内を見廻した後、鼻をヒクヒクさせた。「太陽と…火星?あと、ヴァンパイア、ホムンクルス…それから…」急に俺の目を見て嗤った。「獣の臭い」

ようやく俺は理解した。こいつもその筋の、”人ならざるもの”なのだ。

「で?あんたは何なんだ?」俺はカウンターに入り、包丁をシンクに置くと女と対峙した。「俺に何か用か?」

「あら、ゴメンね。医者とか警察とかが面倒で隠れてただけなの。あと、包丁抜いてくれてありがと」ニッコリと笑う。

「鼻が利くようだが、ここはそんなに臭いかい?」「臭いってゆーかー…珍しい臭いがいっぱいするわねぇ。ここって何なの?」「呑み屋だよ。何の変哲も無い、タダの酒場さ」「何の変哲も無い、ねぇ…」

女はスツールに腰掛けると、科を作って見せる。「じゃぁさ、一杯呑ませてよ。タダなんでしょ?」「そういう意味じゃぁ無い」俺は呆れた。何処に無料で呑ませる酒場があるものか。「ちゃんと話す事を話せば、一杯位は奢ってやらんでもないがね」

「話す事ねぇ…何を訊きたい?」女が上目遣いで見る。「色々と有るんじゃないのか?」俺は包丁を摘まんでブラブラさせて見る。

「あぁ、そんじゃまぁ…先ずは名前から…あたしエウリュアレって言うの。よろしくね」「聞きなれない名前だな。どこの国だろう?」「出身はクレタよ。やっぱあんまり知られてないのねぇ。妹ばっか有名で…」「?妹が有名人なのか?クレタって、ギリシャの方だっけか?日本へは何で来たんだ?」「この国に来たのに理由なんて無いわ。暇潰しよ。でも、良い所ねぇ。世界中色んな国に行ったけど、男は親切で気前も良いし、治安もいいしぃ」「あんたには治安とか、あんまり関係なさそうだが…美人は得って訳か。」「あら、ありがと。まぁ、食べる必要なんて無いんだけど、折角だから御馳走になる事は多いわねぇ。この国は何を食べても美味しいわよねぇ。ついつい長居しちゃって、彼是15年位になるかしら」道理で日本語も達者な訳だ。俺はグラスを出し、手元にあった夕べの残り物の酒を注いでやった。

「あら、ありがと。これ、奢り?よね。あたしお金持って無いんだ」「女の一人旅でオケラかよ。タカる気満々じゃないか」「えへへ。たまにお金をくれる人も居るけど、必要無いんだもん」「そんなんだから、騙された男とか、その女から恨まれたり刺されたりするんじゃないのか?」俺は笑って話を促した。

「あ~あれぇ…あれはねぇ…あの男があんまりしつこいんで、ついヤッちゃったのよねぇ…そしたらあの女が来て、男を返せとか戻せとかって…」「一寸待て。ヤッチャッタって…殺した?のか?」「あ~、厳密に言えば殺してはいないんだけど、まぁ死んだも同然よねぇ」一口酒を呑んで、目を逸らす。「…石になっちゃったんだから」

俺は耳を疑った。「?石?になったって?人が石に?」「本当は石じゃ無いんだけど、小さくなって、重くて硬~いの、だから昔っから皆が石になったーって言うのよ」「あんたが人を石に変えたって事だろう?」「えーまーそうなんだけど~。あれは不可抗力ってゆーかー…つい、ね」「つい、で石にされたら叶わんだろ。元には戻せないのかよ」「無理よ。何かどっかの御伽噺みたいに、あたしを殺せば魔法が解けて、みたいのを期待されてもねぇ…卵を茹でた人を殺した処で、卵は元には戻らないでしょ?それと同じ」「成程。増してあんたを殺す事はできないようだしな」「あはは、確かに。あたし死んだ事無いから、ひょっとしたら死ねば石ころになった人達も元に戻るのかもねぇ。うん、それはあるかも」まるで他人事である。

女は酒を呑み干すと、寂しそうに言った。「でもねぇ…あたし、死ねないのよねぇ…」

俺は満月を挟んだ前後数日間、不死身となる。だがそれは、一般的な意味において、死ぬような目に会っても死に難いという事でしか無い。絶対に死なないという事、所謂不死とは違うのだ。この女は不死、つまりアンデッドだと言う。一体いつからそうなのかは知らないが、それは最早呪いだろう。

「あたしを殺そうとして来た奴は何人も居たけど、み~んなあたしより先に死んだわ。妹はとっくに殺されちゃったのに、あたしと姉さんはずーっと生きてる。生まれた瞬間に決まっている事は死ぬ事だけだって言うけど、それすら決まっていないあたしらって、何なのかしらねぇ」女は遠くを見ながら呟いた。

「姉さんが居るのか。妹は不死じゃ無かったんだな」俺は何と無く酒を注ぎ足してやる。何だかどこかで聞いた話のような気がするが…

「ありがと。妹は死んじゃったし、姉は地元を離れたがらないけど、あたしは気ままに世界中を放浪してるの。三姉妹の真ん中は自由なのよ」グラスを摘まんで口へ運ぶ。「さっきの娘が首尾良くあたしを殺してくれればいいんだけど、望み薄よねぇ」この包丁の持ち主、金髪の女の事だろう。見た限りでは、あの女にそんな芸当ができるとは思えない。

「死にたいのか?」人は死を恐れ、忌避したがるものだ。一見真逆だが、この女が死にたがるのも、同じような無いものねだりなのだろうか?

「別に死にたいって訳じゃ無いわ。どっかのお金持ちが血眼になって不死になる方法を探してるらしいけど、替わってあげてもいいのにな~なんて思うだけよ」スーのお爺様とやらが聞いたら泣いて喜ぶ話だ。天文学的な数字の資産を持ってしても買う事のできないたった一つのもの。自分の命。この女はそれにすら執着を無くし、宛も無く世界中を巡っていると言う。

「世界中を旅して廻る理由は何だ?一体いつからそんな生活をしてるんだ?」「女の子に齢をきいちゃダメよ。さっきも言ったけどぉ、旅をするのはねぇ、ヒ・マ・だから。タダの暇つぶしなのよ」女がグラスを覗き込む。「暇があるのは悪い事じゃぁ無いわよ。余裕があるって事だからね。この国の男達だって、余裕があって暇だから優しいんだし。でもね、それもあんまり長い間続き過ぎちゃうとねぇ。長~い長~い、いつまで続くのかも分からない程長~い時間が、兎に角も~ぉ退屈で退屈で…よく死にそうになる程退屈~とか言うけど、死ねばどんな事でも終わるでしょ?死ねないって、終わりがないって事よ?解るかしら?」「ゾッとするな。想像するしか無いがね」「あ~あ…面倒な事になる前に、この国ともおサラバしなくっちゃねぇ。居心地良かったのに残念~」「とっくに面倒な事になっている気もするがなぁ」

今日は夕子が遅い。林もナナコさんも来ない。妖怪爺や猫又すら酒をねだりに来ないし、スーも外している。うっかり人を石に変えてしまうアンデッドが、独りクダを巻いている。俺にはこの女の退屈の深さは計り知れないが、長生きも程度ものだとは思う。浅瀬を漂う俺の目下最大の悩みは、残っていた酒が無くなった後の”本日の一本”をどうするかだ。もう後が無い。

僅かに残ったボトルの酒も、尽きるからこそ良いのだ。それで全てが終わるなら、なお良いのだろうが…

女には帰るつもりは無いようだ。帰る場所など無いのだろう。誰の台詞だったか、『人は何処から来て、何処へ行くのか?』と云う言葉を思い出す。生きるべきか死ぬべきかの選択肢が無い女にとって、それは答えのある問題なんだろうか?

グラスの酒が女の喉に流れ込む。癒えぬ乾きには酒をだ。

俺はボトルの底に僅かに残った酒を、女に差し出した。



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