化学は万能にして
緩慢な動作で渋る夕子の背中を押して、ドクターが店の外に出る。妖怪爺がヘラヘラしながら後を着いて出ると、向かいのホテルの裏口に背を預け、”それ”が立っていた。暗がりの中に爛々と燃えるような目で、夕子を睨んでいる。
「こりゃまた、随分とお早いお着きじゃのう」爺が前に出て、片腕でふたりを庇って見せる。「お嬢さん方、行きなされ。ここはワシが…」
「あんた達に用は無いわ。とっとと失せなさい」”それ”が静かに、しかしキッパリと言った。
「ありゃ、そうかの。それじゃ遠慮無く」爺はふたりを促し、さっさと隣にある事務所の方へ行こうとする。
「ちょ、一寸、いいんですか?」ドクターが戸惑い気味に抵抗して見せるが、爺は構わずふたりの背中を押して行く。「いいからいいから。折角行けと言うとるんじゃ。こっちから吹っかける事もあるまいて」
3人が事務所の前に辿り着く前に、”それ”は店に入って行った。ドアを開ける時、気味の悪い笑みを浮かべ、3人の方を…恐らくは夕子を流し見たが、何も言わずに閉まるドアの向こうに消えて行った。
「ふたりっきりで大丈夫なのかしら?」ナナコが心配そうに閉まったドアを見ていると、爺が通りの向こうを見ながら言った。「どうやら他人の心配をしている場合じゃぁ無さそうですぞい」
ナナコが爺の視線を追うと、如何にも暴力仕事の従事者然としたふたり組が近づいて来ていた。片方の手には拳銃が、もう片方には特殊警棒らしき物が握られている。
「あら、大変」ナナコがサラリと言うと、爺が胸を張って歩み出る。「ワシの出番のようですな」
だが、爺が前に出るよりも先に、ナナコが連中に向き直った。「あんなの、どうって事無いわ」薬指を親指で抑えた右手を口元に当てると、何かを短く呟いた。「…」
ふたり組がダッシュしかけると、右手のサインを突き出したナナコが叫んだ。「ヴィダーヒ!」
体重を乗せた一歩を踏み出した特殊警棒の大男が、失敗した画像処理のように左右にブレて見えた。そして次の瞬間には、跡形も無く消えていた。
後続の拳銃を持った男は、目の前で視界を塞いでいた大男の突然の消失に、何が起きたのか理解ができない様子だった。その場に居たナナコ以外の全員がキョロキョロと周りを見廻すが、大男の姿はどこにも無かった。
ふと気づいた風の拳銃男が、大男の消えた辺りの地面から何かを拾い上げようとしたが、重くて持ち上がらないようだった。戦車などの模型のおまけについて来る歩兵の型抜きのようだったが、よく見ると消えた大男のような形をしている。5センチにも満たない小さな人形だが、拳銃男には持ち上げられない程重く、地面に食い込んでいた。
「あなたもそうなりたい?」ナナコが事務的な口調で拳銃男にハンドサインを向けると、男の表情が見る見る歪んで行き、半ば腰を抜かしたように後ずさった。「消えなさい。じゃないと消しちゃうわよ」
拳銃男は小さく悲鳴を上げると、這う這うの体で逃げ去った。
「フーム…一体何をどうしたのやら…」爺が首を傾げながら歩み出て、大男のフィギュアを摘まみ上げる。「こりゃ重い。100キロはありそうじゃのう」
夕子が胡散臭いものを見る目で爺を見た。「じゃが、アレはもっとヤバそうじゃな」顔を上げた爺の目線をナナコが追うと、遠くに駐車してある大型車から、何かを抱えた男が降りて来たところだった。どうやらライフル銃のようだが、銃身が2メートル程もある大物だ。こちらに向けて地面にセットする。
「今度こそワシの出番…」爺が言いかけると、ナナコがハンドサインを高く掲げて叫んだ。「サンダー!」
一天俄かに掻き曇り、ゴロゴロと遠雷が聞こえた。狙撃者と爺が同時に空を見上げる。ナナコが掲げた手を狙撃手に向かって振り下ろす。「ブレーーk…」
言い終わらぬうちに、巨大な雷が狙撃手を直撃した。目も眩む閃光が世界から色を奪い、爆風が深夜の静寂を吹き飛ばす。縦揺れの如き地響きが起き、衝撃波が全ての建物の窓ガラスに亀裂を入れた。
爆風に押されて半歩下がった爺が無言で振り返り、脱力した夕子が呟く。「やり過ぎ…」
突き出した手を下ろすのも忘れたナナコが、我に帰って爆風でズレた眼鏡を直す。「ち、ちょ~っとばかし威力が強すぎたかしらねぇ~」声が裏返っている。
「一寸って…」爺が横目で爆心地を見ると、捲れたアスファルトの辺りに居た筈の狙撃手は銃諸共蒸発しており、よく見ると、長かった銃身の先端部分だけが溶け残って落ちている。そばに停めてあった大型車も言われなければ分からない程原型を留めぬ鉄屑と化していた。
惨劇から目を逸らしたナナコが口の中でモゴモゴと独り言を言う。「こりゃ対人用じゃ無いわね…やっぱ、天誅~の方がいいかも…」
「やれやれ、ワシの出る幕はなさそうじゃて。それにしても久しぶりに凄まじい魔法を拝見しましたぞい」爺が元の調子に戻ってナナコに笑いかける。
「魔法じゃ無いわ。科学よ!」腰に手を当てて胸を張る。「あたしは魔法使いじゃ無くって科学者でっす!」酔いは消えていないようだった。
「良く発達した化学は魔法と見分けがつかない…か」夕子があきれ顔で呟く。
「子供達の事もあるし、いつまでもスーちゃんだけに頼る訳にも行かないでしょ。自分の身は自分で守らないと」ナナコが手を見ながら呟く。
「同じようなもんじゃったら、錬金術師より魔女の方が好きなんじゃがのう…」「同じじゃ無いでしょ!てか、錬金術と現代科学を一緒にすんな!」「どうでもいいけど、そろそろヤバいんじゃないの?」夕子が見上げると、消えていた街灯に明かりが戻って来た。寝静まっていた街が落雷で叩き起こされて、不承不承動き出したようだ。ナナコと爺は慌てて事務所のドアを開けた。
叢雲を分けて差し込む月光に目を細め、夕子は溜息を吐いた。