世に煩憂の種は尽きまじ
例によって時計の針が天辺を過ぎた辺りで、俺の心の女神様がやって来た。
「んあ~疲れたぁ~」白衣を翻して腰掛けるなり、ドクターはカウンターに突っ伏した。「あ~も~無理ぃ~。命の水を~早くぅ~」砂漠で水を求める旅人のように手を伸ばす。
俺がグラスに酒を注いで押すと、徐に掴んで喉に流し込む。「ン~ク~!あ~やっと生き返ったわ~!」まるでアル中である。
俺はお代りを注ぎながら、ドクターの顔を覗き込む。「お疲れのようですね。また無理難題を吹っかけられたんですか?」今日も美しい。眼福眼福。
「いやぁ~仕事の方は順調よン。客筋を絞ってるから、基本的にはそれ程無理な依頼は来ないしぃ~。今までお断りしたのは2件だけねぇ…」グラスを翳して愛おしそうに眺める。美人はどうしたって絵になるもんだ。
「ほう、それはどんな依頼で?」俺は一寸興味が湧いた。このドクターの顧客と言えば、各界の盟主や有名人、桁違いの金持ちやら政治家などだ。持ち込まれる相談事も多種多様。きっと一般人には想像もつかない難題だったに違いない。
「えっと~…世界を征服したいって言うからぁ…」「えぇ…世界を…征服?」思わず話を遮ってしまう。何か最近どこかで聞いたような…「地球を支配する、みたいな?」俺は思わず吹き出しそうになった。
「そう。それ自体は幼稚な発想だけど、方法が無い訳じゃぁ無いわ」「ちょ!あるんですか⁈世界を征服する方法が⁈」この人なら本当にできそうで恐ろしい…
「う~ん…征服の定義にもよるけど…すぐに思いつく方法は3つ位かしら…」「3つも⁈」俺は魂消た。「いやいや、それはマズいでしょう」
「うん、その人があんまり大真面目だったんで、お断りさせてもらったわ」「それは良かった…」知らんうちに世界は救われていたのだ。「それで?もうひとつの依頼とは?」そっちも物騒な話で無ければいいのだが…
「ン~…娘をね…養子に欲しいって言われちゃったの…」ドクターが酒を呷る。こりゃまた、打って変わって個人的な話だった。「娘さん…リミちゃん…でしたっけ?」多めに酒を注ぎ足す。
「うん。今度ね、5年生になったんだけど、素行があんまりよろしく無くって…家庭環境に問題があるんじゃ無いかって言われたのよ…」目に愁いが宿る。揺れる眼差しに吸い込まれそうになる。…が、もう一つの突き刺すような視線が、俺を現実に繋ぎ止めた。チラ見すると、夕子が三白眼で睨んでいた。うん、通常運転だ。
「素行がって…非行?とかですか?とてもそんな風には…」「ううん、違うの。良くあるような悪さをするって訳じゃ無くって…」「あ、あぁ…」俺は思い当たった。が、何と言えばいいやら…彼女の場合、素行が悪いと言うか…
聞いた話だと、裏の駐車場で軽自動車を空高くぶん投げて廃車にしたとか…
実際にこの目で見たのは、引っこ抜いた道路標識で大型の外車を叩き潰したところだ。頑丈そうな車が、象に踏み潰されたカエルみたいになっていた。
競技用の砲丸を砲弾よろしく米軍に叩き込んだ、なんて事もあったっけ…まぁ、あれは狙ってやった訳じゃ無いだろうが…
「あぁ、でも、娘さんの場合は一寸事情が特殊…って言うか、普通じゃ無い…じゃ無くって…えぇっと…」しどろもどろになった俺は、明後日の方を見て誤魔化した。彼女は身体の殆どを機械化した、所謂サイボーグだ。素行が悪い訳では無く、非常識な程のパワーを制御しきれていない為に、日常生活に支障を来しているだけなのだ。それが彼女を母親から引き離す理由になるとは思えないが、どう言ったものか…
「大丈夫。問題が無いとは言えないけど、あの子を手放すつもりは無いわ。大富豪だか何だか知らないけど、一昨日来なさい!って追い返したわよ」多めに注いだ酒を一息に流し込む。心成しか目が据って来たようだ。
話を継ぎあぐねた俺は食事を作り始める事にした。この店唯一のフードメニューにして、夕子女史の一日の糧であるホットドッグだ。
「あの子はね、あの子は大丈夫なのよ。心配なのはね…息子の方…」ボソりと呟く。危うく聞き逃す処だった。「息子?マモル君…でしたね。彼がどうかしましたか?」
自分で言って置いて何だが、どうかしたかも無いもんだ。彼は最初からどうかしていた。と言うか、俺が会った時には、既に人では無くなっていたのだ。自称は兄だが、普段は妹のリュックに収まっている熊の縫い包み、テディベアなのだ。妹同様、事故で失った身体を機械に置き換えたサイボーグらしいのだが、肉体は殆ど残っておらず、脳の一部分だけを維持装置に入れて、電極を介して意思の疎通を図っているのだ。辛うじて人格らしきものは残っているが、思考の殆どをネット経由でコンピューターに異存している。それは最早人間と言えるものなのだろうか?
そこまで考えて、俺は思い出した。『スーはどうなんだ?』
妹は人間でも兄は違うのか?その差が残った肉体の大きさなら、肉体から完全に分離して、脳味噌の一片すら残っていない今のスーは…そして、分離してどこかで生きている筈のスーの肉体は?…
俺は嘗て普通の人間だったスーを思い出していた。いや、実はスーもまた最初から普通などでは無かったのかも知れないが、少なくとも人間としての肉体と心を持った少女だった。だが、分離した後の肉体に残されたものは、動物的な本能を剥き出しにした怪物、人食いの化け物だったのだ。血肉の有無を別にすれば、今のスーの方が遥かに人間らしいと思うのは、決して俺だけでは無いだろう。
俺は普段スーのアバター人形が座っているカウンターの端に目をやった。店を開けるまでは居たのだが、用があると言って出て行った。口を開けば生意気な事ばかりで喧しく、博識だが致命的にセンスが無い。天文学的にお値段の張る、過剰に人間味のある表情や芝居がかった動作で振舞う2.5頭身のファンシー人形。然して中身は世界有数のスーパーコンピューターであると同時に攻守万能兵器。意思と人格を持っているように見えても所詮あれは機械でしか無く、肉体から取得したデータを計算機が処理してそのように見せているだけに過ぎないのだろうか?
当然だが、カウンターに温もりなど残ってはいない。スーが居ないだけで、やけに広く感じられるカウンターの隅をボンヤリと眺めていると、夕子がボソリと呟いた。「手がお留守のようね」
俺はハッとして夕子を見た。空のグラスを前に、相変わらず天井を見上げている。
「川の流れは絶えずして…か…」酒を注ぐ俺に向けてかどうか分からないが、夕子が言う。はて?何の話だ?
「あ~…テーセウスの舟?それとも李白かしらン?」ドクターが夕子を見る。何の事だ?ギリシャ神話の英雄と中国の詩人に何の関係が?
「ん~確かにぃ…悩みは尽きないわよねぇ~」そう繋がっている…のか?目だけで問いかけるが、夕子は知らん顔だ。
「盃を挙げて愁いを消せば、愁い更に愁う…か…」呷った後のグラスを見ながら、ドクターが独白する。俺は黙ってボトルを差し出した。
「お嬢さん方、御一緒してもよろしいかな?」突然、入り口の方から声がした。見ると、ザンバラの白髪に長い白髭、仙人然としたナリでゴツイ杖を突いた爺さんが立っていた。部屋の温度が急に下がる。妖怪爺のお出ましだ。
「またあんたか…責めて来る時は、普通にドアを開けて入って来てくれないか?」俺はウンザリした口調で言ったが、実はこの爺さんの事は嫌いではない。人外魔境を絵に描いたような爺だが、他には無い愛嬌がある。相棒の林が最も苦手とする、自称ヴァンパイアの古狸だ。
スイと音も発てずに近付いて来た爺は、悪びれるどころかヤニ下がった目で二人の女子の間に割り込んだ。「乙女がおふたりで李白の話ですか?あいつはワシの弟子みたいなもんですじゃ。良い奴でしたよ」
いや、もう…どこから突っ込めばいいのやら…「爺さん…あんた一体幾つだよ…確か李白って千年以上前の人だろう?それに、乙女って…」言いかけて、俺はすぐに後悔した。
焼けつくような視線が俺に突き刺さる。凍り付いた俺が恐る恐る目線を向けると、夕子が横目だけで俺を見ていた。と言うか睨んでいた。「いや、あのほら…こ、こちらの女性は、え~っと、こう見えてもお子さんがふたりも居てだなぁ…」俺はドクターを手で指して爺に言ったが、夕子から目を逸らす事はできなかった。
「まだまだじゃのう、若いの。まぁ、ワシを入れて2対2で、丁度いいじゃろう?」爺は構わずふたりの間に腰を掛けると、俺の手元を見て言った。「お主は忙しそうじゃしのう…」
そうだった。夕子の食事を作らなければ。俺は爺に酒を出すのも忘れて調理を再開した。
「あ、あたしにも頂戴!キャベツ多めでお願い!」このドクターには屈託と云うものが無い。視線を移し、「あなたは…え~と…五柳先生…かしら?」ニッコリ笑って爺に問いかける。ゴリュウ?こいつも先生なのか…
「ほう、お若いのにモノを知っておられるようじゃな。何故お分かりかのう?」「お腰の琴に弦が無いので…」言われるまで気が付かなかったが、爺の腰の後ろから小さな琴…大正琴?のようなものが覗いていた。しかし、弦が無いって…
「これは慧眼!お望みならば一曲弾いて差し上げましょうぞ」腰のモノを取り出そうとする。「またにしてくれないか?てか、弦が無いのにどうやって弾くんだよ」俺は手を休めずに目で制した。
「無粋なヤツじゃのう。李白もそうじゃったが、そんなんじゃから月に弄ばれっ放しなんじゃよ」俺はギクリとした。「まぁ、お主の場合は月よりも金星…かもじゃがの」夕子を見る爺の目に怪しい光が宿る。一体何の話だ?
出来上がったホットドッグをふたりに出すと、夕子は無表情に、ドクターは嬉々として口に運ぶ。何も言うまい。俺は無言で爺のグラスを用意した。
「処で、お人形さんの姿が見えんようじゃが…」爺はグラスを双方の女史に交互に掲げてから一口吞むと、思い出したように言った。「あの虎家の娘の真似事をしとる機械仕掛けのチビ助は…」「彼女は私の事務所で作業中ですわ。膨大な電力が必要で、その分とても高い熱を出すから、冷却液の中に浸かって演算する必要があるの」ドクターが事務的に呟く。どうやら爺の物言いが気に食わなかったらしい。
「おや、そうでしたか。ボディガードの必要が無い時は計算機。色々使い道があるもんですな」爺が誰にともなく嘯くと、ドクターは食べかけのホットドッグから目を逸らさずに言った。「彼女には仕事として依頼しているんです。機械に入力した訳ではありません」更に言葉が固くなった。
「しかし、その彼女とやらには悩みが無い。その振りはできても、悩みという葛藤を抱える事は有りはしないのですじゃ。精々が機械的結論を出さずに問題を留保して置く事で人が悩む真似事をする位のものじゃて」爺が諭すように語る。
ドクターは無表情で爺の方に顔を向けた。眼鏡で目の色が伺えない。「悩みの本質なんて、多かれ少なかれそんなものでしょう?大した違いは無いわ」「大した違いでは無いかも知れんがのう…」爺が間髪を入れずに返す。自分の頭とドクターの胸を交互に指さした。「考える場所が違う」
ドクターは爺を無言で見ている。爺の目が心成しか暖かくなった。「理屈とは違う場所で考える事を、”悩む”と言うんじゃよ」
「我が心を乱す者は…」「今日の日にして煩憂多し」ドクターが呟き、爺が受ける。「人形になる事で葛藤が無くなったかも知れんがのう…それは脱ぎ捨て来ただけで、何も解決などしてはおらんのじゃないですかのう?」
思い出した。この爺は元々虎家の回し者だったのだ。今日来た意図は図りかねるが、少なくとも虎家とは何らかの繋がりがある筈だ。スーが外しているタイミングで来たのも、偶然では無いだろう。
「爺さん、そろそろ要件を訊こうか」俺は残り少なくなった酒を夕子とドクターに振り分けて注いだ。「スーの件だな…どっちのだ?」
「どっちもこっちもありゃせん。元からおる人間モドキの方じゃ」ドクターの目がまた冷える。「あ奴目、逃げ出しおったぞ。早晩ここにもやって来るじゃろうて」
俺は胸の片隅で焦げ付いていた部分が再び燻り出すのを感じた。「逃げた?確か厳重に隔離されていたんじゃ?」「お主とリンが脱出できたんじゃ。同じ事が奴にもできたとて不思議は無かろう」
俺と林が…と云う事は、スーの肉体は例の施設に幽閉されていたのか…確かに難しいが、嘗て俺と林の前にも脱走に成功したコンビが居た筈だ。不可能では無い。アレが逃げ出したとなると、ここに来る可能性は確かに高いだろう。何せ奴は俺を喰いたくて堪らないのだ。「成程、スーが居ない今は襲撃のチャンスって訳だ。あんた、わざわざそれを教えに来てくれたのか?意外と親切なんだな」
「お主の事なぞどうでもええわい。ワシが心配しとるのは、こちらの乙女達の事じゃ。如何なお主でも、不意打ちからおふたりを守り切れるかどうか怪しいもんじゃからのう」あぁ、ナルホド…
ドクターが慌てて立ち上がる。「スーちゃんを呼びましょう。演算を中断して冷却液から出てもらえば…」確かにスーが居れば、守りは鉄壁だ。だが…「それは待ってください。ドクターは夕子と一緒に事務所に避難を。爺さん、一応付いててくれるか?」「承知」爺が短く快諾する。
俺はこの場の全員に、そして誰よりも自分自身に宣言した。
「彼女は俺が何とかする」