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信条は秘密

ここは私鉄の駅から少し離れた裏路地にある目立たない呑み屋。マンションの一階端に施された壺を模したデザインの入り口に薄く灯るのは、”D”の一文字のみ。何の説明も案内も書かれてはいないが、如何にもな、そして事実上も見た目通りの会員制のバーだ。飾り気の全く無い薄暗い店内にはカウンター席のみ、入り口に背を向けるように並んでいて、正面の壁に窪みがひとつ。”本日の一本”と書かれたカードの奥に、その名の通りボトルが一本だけ鎮座ましましている。他には何も無い。

稀にだが、深い時間ともなれば酔いに任せて突撃してくる酔客が居たりもするものの、大抵は一目店内を見ただけで回れ右して去って行く。兎に角徹底して無愛想かつ商売っ気を排除した店で、常連以外はスツールに腰掛ける事すら滅多に無いので、雇われ店長の俺としては仕事が少なくて助かる。だが、決して自分の仕事を減らしたいからそうしている訳では無い。全てはオーナー様の御意向であり、自分以外の客など来てほしくは無いと云う断固たる意志の表装なのだから、俺には如何ともしがたいのだ。

そして今夜もまた、開店と同時に屋上の自宅ペントハウスから降りて来たオーナー様がカウンター席の真ん中で独り酒を呑んでいる。厳密には、カウンターテーブルの隅っこに腰掛けて足をブラブラさせている2.5頭身の少女型人形が居るのだが、人格は持っていても人間ではないし、酒を呑むわけでもないので人数には含めない事にしておく。一度口を開くと店のコンセプトを無視して喧しい奴なので、できるだけ触りたくはない。俺もオーナーも静寂と平穏をこよなく愛しているのだ。

時計が天辺を超えた辺りで、数少ない俺の重要な業務であるオーナー様の御食事の用意に取り掛かる。と言っても、炒めた千切りキャベツとロングソーセージをコッペパンに挟んだだけの、所謂テロパラ風ホットドッグを作るだけなので、完成までに10分とかからない。その後はまた、グラスが空けば注ぐだけの簡単なお仕事をこなすだけだ。

俺がキャベツを刻み始めると、入り口のドアが開いて小柄な眼鏡美人が入って来た。少し前に上のマンションに越して来た科学者?だか医者だったか忘れたが、その筋では有名な破格の天才にして超絶美人の先生だ。些か洒落っ気とは無縁な気がするが、長い白衣が様になっている。美人は何を着ても似合うもんだ。

「ドクター!お待ちしてました!」真っ先に口を開いたのは、黙っていれば飾りで置いてある趣味の偏ったお人形さんにしか見えない、自称上位生命体のスーだ。

「こんばんわ。一寸立て込んでいたけれど、ようやく一段落ついたものだから…」言いながら、オーナーの夕子の隣に腰掛ける。立ち振る舞いも嫋やかで美しい。「お隣、いいかしら?」

対して独酌をこよなく愛されておられるオーナー様の夕子嬢はと言えば、ひっ詰めの髪にスッピン、着ている物もスウェットの上下にサンダル履きで、愛想も色気も微塵も無い。地は美人系なのだが、決定的にそちら方面が欠落しているので勿体ないとは思う。しかし、そんな事を僅かでも匂わせようものなら明日から路頭に迷う事請け合いなので、黙っている。従業員として、オーナー様の逆鱗に触れる訳にはいかないのだ。絶対に。

夕子は横目で藪睨みし、手にしたグラスを小さく挙げただけで返事をすると、酒の残りを呷った。普段と特に変わりはない。これが通常運転なのだ。

「一段落、ってことは、事務所の方も落ち着いたんですね?」スーが嬉々として話しかける。事務所?何の事だ?

「ええ、お陰様で、有能な秘書にも来てもらって助かっているわ。開所と同時に舞い込んだ仕事も一通り片付いたので、一息ついたところなの」グラスを出し、”本日の一本”である七面鳥のボトルから酒を注ぎ入れると、嬉しそうに俺を見上げる。眼鏡が以前掛けていた牛乳瓶の底のように渦を巻いた分厚いレンズの鼈甲縁から、洗練されたスマートな極薄レンズのワイヤーフレームに変わっていた。黒目がちの大きな瞳に吸い込まれそうになる。「ありがとう」両手でグラスを包むように引き寄せる。

夕子の目線が白いので、目礼だけして作業に戻る。スーがドクターに話しかけるのを聞きながら、キャベツを炒め始める。

「完全会員制って事ですけど、依頼は来てるんですよね?」「ええ、いっぱい来てるわよ~」スーの話には上の空で、俺の手元を覗き込む。ガラムを投入すると、可愛らしい鼻をヒクヒクさせる。「それは?」「ホットドッグですよ。食います?」「いただくわ!お腹ペコペコなの」社交辞令のつもりだったが、即答されて面食らった。何となく、こんなものは召し上がらないだろうと思っていたのだが、存外フランクな女性のようだ。洒落じゃなく。

手早く夕子の分のホットドッグを仕上げ、もう一つ作り始める。夕子の前に置いた皿を、夕子がドクターの方へ押し出す。「お先にどうぞ。あたしは後でいいわ」

「あらぁ、悪いわね。それじゃ、遠慮なく!いただきま~す」満面の笑顔で手を伸ばす。子供のように無邪気で嫌みが無い。両手でホットドッグを掴み、大きく開けた口へ…俺のキャベツを刻む手が止まる。幸せそうに齧り付く様を見ていて、思わずニヤついてしまう。

『てっ!』突き刺さる痛みの先を目線だけで確認すると、夕子が三白眼で見ていた。「手がお留守のようね」背筋が冷えた。努めて冷静に作業を再開する。

夕子の分ができるまでの間も、ホットドッグを堪能するのに夢中で空返事ばかりのドクターに、スーはずっと話しかけていた。話を聞いた限りでは、どうも要領を得ない。ドクターが海外で失職して、子連れで移住してきたのは以前聞いていたが…あぁ、そうだ、忘れていたが、こう見えて彼女は子持ちなんだった…小学生の女の子と、その兄…元兄?ふたりの子供が居るんだった。

このヤンママが個人で事務所を開設して営業を始めたらしいのは分かったが、紹介状が無いと依頼できない会員制の事務所だと云う。一体誰が何を依頼するところなのだろう?

ドクターがホットドッグを食べ終わり、グラスの酒を一気に飲み干す。「あ~美味しかった!大満足!」この女性も酒には強い。50度以上あるバーボンを水のように吞んでもケロリとしている。「辛くなかったですか?」俺のホットドッグは少々癖があるので心配だったのだが…「全然大丈夫!丁度良かったわ!お腹もいっぱいで幸せ!」最近、愛用のガラムマサラが、メーカーのブレンダーが代わったのか辛みが増した気がしていたのだが、杞憂だったようだ。旨そうに食ってくれて俺も嬉しかった。

夕子の分を出し、ドクターのグラスに酒を注ぎながら、先程の疑問を訪ねてみる。「事務所を開いたそうですが、どんなお仕事ですか?」夕子が小さく反応したのが、目の端に見えた。

「あら、ごめんなさい。御挨拶が遅れました、名前とかは決めていないのだけど、会員制で萬相談事請け負いますって事で、この度お隣に事務所を開設しました。よろしくお願いしますね。キャッチフレーズは”ナナコにお任せ!”でっす!」薬指だけを親指で抑えたハンドサインを額の前で翻して見せる。薬指でデコピンするみたいだが…可愛い…今日からナナコさんと呼ばせていただこう。子持ちだが。

「萬相談事って、どんな種類の依頼が来るの?」夕子が天井を見上げながら、興味無さそうに呟く。確か…いや、多分だが、同じ位の年齢だった筈なのに、夕子の方が一周りは上に見え…いやいや、ナナコさんが異様に若く見えるだけだろう。うん、きっとそうに違いない。あれ?気のせいか夕子の眉間に青筋が…

「基本的には、どんなことでも解決しますってのが売りなの。手近な処で、ロボット関連の制御と自動車のバッテリー効率化とかの技術系、製薬メーカーの新薬開発や機材管理の化学系、株価の安定やM&Aなんかの経営系、大学の運営や新規学部のカリキュラム作成、国家間の地政学上の問題解決とか天気予報の精度向上とか…」「ちょ、それ全部?ひとりで?」俺は思わず話の腰を折った。とりとめが無いと云うよりも、どれも高度に専門的な知識を必要とする難題ばかりじゃないのか?個人事務所で引き受けるには、守備範囲が広すぎるだろう。

「あぁ、今のは全部片付いた分。大抵の事はひとりで何とかするつもりなんだけど、やっぱり専門外と云うか手に余る案件が出て来てるのよねぇ」グラスを口元へ運びつつ、天井を見上げる。

そりゃそうだろう。しかし、聞いた限りでは解決できない問題などあるのだろうかとも思う。「それは一体どんな…?」何だか乗せられているような気がするが、聞かずには居られない。

「そうね、先ずは”色事”」俺は心臓を掴まれた気がした。心臓だ。決して他の部位ではない。

「男女関係とか艶っぽい話に関してはお手上げなの。だから、その辺りは近々エキスパートを顧問として招集する予定」興味深い話だ。「幸い、スーちゃんの伝手でその道の専門家が来てくれることになってるの。ねー」話を振られたスーが我が意を得たりとばかりに大きく頷く。「そうそう!あたしの知り合いに、どっっっしょーもない色ボケ女が居るんだけど、事そちら方面では右に出る者が無い程精通かつ問題解決力があるので、蛇の道ってゆーか使いようってゆーかぁ…」言葉の端々に悪意がある。一体どんな関係なんだ?

「まぁまぁ。会ってみたけど、過去の行いは兎も角、悪人では無さそうなので、お願いすることにしたの」「エロ担当か…で?他には?」何となくだが、本題はこれからな気がする。

グラスを置いたナナコさんが、上目遣いで俺を見る。「暴力よ」

あぁ、やっぱり…

人が抱えている悩みやトラブルは多岐に亘るが、最終的にはかなりの割合で暴力に帰結する。所詮は人も獣だ。どんなに順法や理性を気取ってみても、談判が破裂すれば暴力の出る幕となる。行政や法律とは違う解決を望むからこその萬相談事であれば、暴力を持ってしか解決できない種類の問題が持ち込まれるのは必然だろう。

「そこで顧問のあたしが、適任者を選んで推薦した訳なんだけど…」スーが自慢げに嘯くので、俺は手で制する。「ちょっと待て。誰が何の顧問だって?」

「あ・た・し・が、ドクターのお仕事の顧問、と言うか相談役に就任した、と言ってるのよ」えっへん、どうだ偉いだろうと顔に書いてある。

「手近に居た素行不良の友達を紹介しただけじゃないのか?」「失礼ね!他にもやってるわよ!」「へぇ、何ができるんだっけ?護衛か?」「それは別に担当を立てたわよ。あたしの主な仕事は人材の選定と、学術計算やシミュレーションなんかの膨大な演算とか電子戦よ」あぁ、そうだった。こいつは見てくれこそ珍竹林のお人形さんだが、スーパーコンピューター並みの演算能力を持つ超ハイテクマシンなんだっけ。

「それでね、今日はその候補者と交渉をしに来たって訳なの」ドクターの魅力的な瞳が俺を見つめる。

いやいやいや…俺にはこの店の雇われ店長と言う大事な仕事が…黴が生える程暇で死ぬ程退屈かつ平穏な暮らしが…大切な、大切な…あれ?何かそんなに大事なもんがあったっけ?

とうに食事を終えた夕子は白けた顔で天井を眺め、時折グラスを口に運んでいる。興味が無いらしい。しかしここは、やはりオーナー様の手前…「折角だけど、俺は…」言いかけた時、突然ドアが開いてオッサンが入って来る。「お晩でやす。遅くなってすみません」数少ない常連客のひとり、林の旦那だ。

「遅刻よ!ドクターがお待ちかねじゃないの!」「偉いすみませんねぇ。ちと野暮用が…」「いいから早く座りなさいよ!」スーが自分の前の席を指さして畳み掛ける。こいつは何でこういつも、林の旦那に厳しいんだろう?それにしても、この流れは…

「内諾は得てるけど、最終的にはドクターに会ってもらわないとね。という訳で、今回顧問をお願いした林…林石流さんです」スーがドクターに林を紹介する。

音も無く近付いて来た林がヒラリと腰かける。相変わらず体重を持たないような身のこなしだ。「どうも、林です。よろしくお願いいたしやす」あれ?物言いがいつもと違って、何だか借りて来た猫みたいだ。そう言えばこいつも美女には弱い口だったっけ。

「ナナコです。宜しくお願いします。早速ですが、条件面なんかを…」「一寸待ってくれ。候補者ってのは、このオッサンの事か?」今更だが、俺は片透かしを喰らった気分だった。確かに、暴力装置としてはこれ以上ない適任だとは思うが…

「そうそう、色々調べた結果、この人が最適だと判断したのよ。問題が無い訳じゃないけどね」スーが林と俺を見比べながら言った。

「話はもう付いてると?」「はいはい。お嬢さんからお話をいただいて、悩んだんですが基本的にはお引き受けしようかと」林がニヤつきながらカウンター上の自分の前をトントンと突く。自分にも酒を出せと言うのだ。

「へぇ、そうなんだ…」何だかバツが悪いので、俺は黙る事にした。林の分の酒を用意しながら、夕子のグラスが空きそうなのに注意を向け、食後の皿を下げた。

「ドクター的にも問題なさそうですね」スーが話を進める。「ええ、是非お願いしたいわ。ただ、ひとつだけ林さんの方からも条件があるのよね?」林に向き直っていたナナコさんが、チラリとこっちを見た。流し目もまた色っぽい…じゃなくて、またぞろ何か不吉な予感が…

「はいはい。それですがね、あたしももう齢が齢なもんで、ちと現場が堪える事が多くなってきてましてねぇ」「引き受けるに当たっては、アシスタントが必須なのよね?」「はい、助手込みでしたら、お引き受けさせていただきたいと」林も俺を見た。口元はニヤついたままだが、目が笑っていない。

「早い話、そんな訳で、あなたにも協力して欲しいって事なのよ」スーがサラリと宣った。何だよ、やっぱりそうなるのかよ…

「何が早い話だよ。裏でこっそり口裏を合わせていやがって…」俺は呆れてドン引きした。引きまくって、後ろの壁に背を預けて腕を組んだ。「何で俺がこのオッサンの手伝い仕事をせにゃならんのだ?」拗ねた。盛大に拗ねまくった。

「以前、お嬢さんの件で一緒に地下に潜った時にね、やっぱりお前さんとは相性がいいと思ったんだよ。こんな稼業だけど…いや、だからこそ、そう云う部分は大事にしないとねぇ」巧い事を言ったようだが、要するに貸しを返せといいたいのだろう。食えない男だ。

「あなたの戦闘力は規格外だけど、猪突猛進で突っ走っちゃうでしょ?この男の情報収集力と経験豊富な戦略・戦術で運用するのが最強・最善ってものよ」スーが核心を突いて来た。これは手厳しい。グウの音も出ない。

俺は圧し黙った。反論の余地が無いので、ただ臍を曲げた。沈黙は金なりだ。

暫し静寂が流れる。夕子だけがマイペースで酒を呑んでいる。グラスが空いたので、残り少なくなった酒を注ぎ足しついでに表情を伺ってみた。相変わらず興味無さげに天井を見上げている。

俺は溜息を吐きそうになるのを堪えて、定位置に戻ろうとしたその時、うっかりナナコさんの目を見てしまった。懇願の表情で俺を見る目の中で、ハイライトが揺れていた。マズい!と思ったが、手遅れだった。

「お願い、力を貸して。あなたが必要なの」俺の中の何か重要なアレが、底無しの瞳に吸い込まれて往く。捕まえて留めようとしたが、できなかった。これはもう…駄目だ…

「お願い!今回だけでもいいの!助けると思って!ね?」俺は堕ちた。嵌められたと分かっていて、それでも抗えなかった。完敗だ。

「まぁ、そこまで言うのなら…」泳ぐように目を逸らす。スーと林がニヤついていた。ムカつく。もう一つの視線が後頭部辺りに強烈に突き刺さっていたが、そっちを見る事はできなかった。できる訳が無かった。

「引き受けてくれるのね⁈ありがとう!これで林さんの方も問題無いわね?」「はい、そりゃぁもう。全く問題ありませんやね」「それじゃぁ、話も纏まった事だし、呑みましょ!ゲーテ曰く、エルゴ・ビバームス!」

何だよゲーテって…見た目には殆ど変化は無いが、どうやらこの女は既に酔っているらしい。色々と大丈夫なんだろうか?…特に、具体的な内容も聞かずに安請け合いしてしまった俺自身が…

俺の名は大上ロウ。月が満ちれば不死身の超人となるバーテンダーだ。

七面鳥のボトルが空になった。夜はまだ長い。今夜は久々に2本目の”本日の一本”を開けなければ。


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