『壊れかけの人間図鑑』そんな図鑑どこにもないけど でもそれは どこかにきっとあって たぶん絶対あるとして
月が、僕を見ている。
なんだ馬鹿野郎。ジロジロと見るんじゃねえよ。そうジロジロと見られると、緊張をしてハンドルがブレるじゃねえか。こっちを見るなってば。僕は、ジロジロと見られると、やることなすこと上手く行かなくなるタイプだ。
昨日だってそうだ。アルバイト先の居酒屋のバイトリーダーが、僕が豆腐ステーキを作るところを、横で腕を組んで黙々とチェックをするものだから、緊張をして頭が真っ白になってしまい、うっかり焦がしてしまった。
「テメエのせいだろうが! テメエがジロジロと見るから失敗したろうが!」
悪気のない人の失敗を、ねちねちと注意するバイトリーダーにそう反論をすると、逆上したバイトリーダーが、カウンターにあったおしぼりを掴んで僕に投げつけやがったので、僕はおしぼりを包装していた薄いビニール袋を投げて、フワッと応戦したりなんかして、なんだかんだで最後は厨房で取っ組み合いの大喧嘩となり、そんなこんなでアルバイトをクビになったばかりだ。
一九九九年、年の瀬。今年の七月に人類が滅亡するというノストラダムスの大予言は、見事に大ハズレをした。おいおい、話が違うぜ、ノストラダムス。本当に君にはがっかりした。こっちは君の大予言を信じて、二十五歳で死ぬつもりで自暴自棄な生活を地道にコツコツと続けていたのだ。ちゃんと滅亡してくれないと困るじゃないか。
都心環状線の加速車線から、一台の合流車両が、本線に鋭角に刺さるように、強引に合流をしようとする。ちょうど、第一走行車線を走る僕の中古の軽自動車の、左わき腹にピタリとくっ付いて、加速も減速もしないまま嫌がらせのように離れようとしない。
月が、僕を見ている。あの青白い光が、気になってしゃあない。気が散漫になって、運転に集中が出来ない。高速道路で事故でも起こしたら一大事だ。落ち着け。落ち着け自分。
ハンドルをしっかりと握り、サイドミラーを確認しつつアクセルを深く踏み込み、スピードを上げて追い越し車線に進路を変更する。よし、意地悪な運転をする合流車両を、一気に引き離したぞ。
そのまま、調子に乗って、ぐんぐんとスピードを上げる。バックミラーを覗くと、先ほどの合流車両のヘッドライトの光は、みるみると小さくなり、やがて夜の闇の果てに消えた。ざまあみろ、うすのろめ。ヨッシャー、偉いぞ、僕ちゃん。落ち着いてベストな行動が出来たじゃないか。
それにつけても、今宵の都心環状線は、豪華だなあ。がら空き。貸し切り。思わず運転席の窓を全開にして、俺の道! と叫びたき衝動に駆られる。
ミシン会社、建設会社、かまぼこ会社、ステンレスの厨房機器を製造する会社、有名企業の本社ビルの屋上に掲げられた巨大な看板たちが、順番に車窓を通り過ぎて行く。
ここにきて、フロントガラスにこびりついた鳥のフンが気になりだす。しまったなあ。乗車する前に気が付いていたのだから、やはり事前に拭いておくべきだった。
ラジオから、ミディアムテンポのバラードの間奏に、ラップを投入したヒット曲が流れている。古いカーナビが、僕に嘘ばかりつく。助手席に、若い女の子が乗っている。
「あなたの家族のことが、知りたい」
出し抜けに、助手席の女の子が、そう言った。
「教えて。あなたの家族は、どんな人?」
僕の父は、救いようのない薬物常習犯で、三年前に警察にパクられ、今は塀の中で生活をしている。母は、ずっと納棺師の仕事をしていたが、毎日死者を洗い清めているうちに心が不安定になり、今は精神病院に入院をしている。
このような事実は、軽はずみに公表出来ることではないし、そもそも僕は、この時、フロントガラスにこびりついた鳥のフンのことで頭がいっぱいだったので、女の子の質問に対する答えを、さも考えあぐねるふりをして、しばらく適当にあしらっていた。
「ほら、ごらん。綺麗な満月だね。むしろ嫌悪感を抱くほどに。こんな夜は、夜道で裸体を晒して月光浴をしたら、さぞや気持ちが良いだろうね」
わざと焦点のぼやけたことを言ってみる。それから、シガーライターで煙草に火をつけ、車内で、ぷかぷかと煙をくゆらせる。本日二箱目の、最後の一本。空っぽになったソフトケースを、片手で握り潰す。
僕は、一日に五十本以上の煙草を吸う愛煙家だ。車内での喫煙などは、当たり前。寒いので窓を閉め切って吸うものだから、もくもくと煙が充満し、目が痛い。車内は、煙草のヤニで黄ばみ、いつもむせかえるほど臭い。
「……ねえ」
「はい?」
「はい? じゃないでしょう。いつまで黙って煙草を吸っているのよ。さっさと私の質問に答えなさいよ」
「それは難しいな。何故なら、今僕は、君の質問に答えるのが、すごく面倒臭い」
「……分かりました。もう聞きますまい。では、その代わりに、今から私は、私の家族の話を、あなたにしようと思います。お願いです。あなたは、私の家族について、何か質問をして下さい」
「ああ、面倒臭い。まったくもって七面倒臭い。僕は、別段君の家族に興味は無いですよ」
「ふざけないで。私は、とても真面目な話をしています。命令です。私の家族について、何か質問をしなさい」
ちっ。
「あ、舌打ちをした。信じられない」
「はいはい。えーと、君の家族は、どんな人かな?」
「私の父は、銀行員。母は、専業主婦。二人は、職場結婚」
「ふ~ん」
「いや、ふ~ん、じゃなくて」
今僕は、一日中遊びに連れ回したこの女の子を、学生寮まで車で送り届けているところ。この子は、親元を離れて暮らしている。この子は、僕より六つ年下の、未成年だ。
「今夜、どうして私が、あなたに家族の話をしているのか、いい加減にその意図を察してよ。私は、あなたの御両親に会いたいの。それから、あなたには、私の両親に会って欲しいの」
この子は、とても可哀想な子だ。僕が、地下のライブハウスで、たった一人でウッドベースをバコバコ打ち鳴らしながら、反社会的なメッセージを叫ぶという、前代未聞の『ウッドベースの弾き語り』なるパフォーマンスをしていたら、のこのこと後を付いて来た。ライブハウスの人気者だった僕に面白半分で付いて来る女の子は他にも沢山いたが、僕が音楽を辞めた途端に、みんな蜘蛛の子を散らすように離れて行った。でも、どういうわけか、この子だけは懲りずに今も付いてくるのだ。
「この際だから打ち明けます。私は、あなたと結婚がしたい」
追い撃ちをかけるように、この子の可哀想なところは、僕が惰性でお付き合いを続けているうちに、なにを血迷ったか、僕の配偶者になることを、強く望むようになったことだ。
「僕と一緒になるのは、やめたほうがいい。だって僕には、お金が無い」
「私も無い。でも、真面目に働いて、一年も貯金をすれば、結婚資金は、貯まります」
「僕は、働かないよ」
「私が働く」
「自分でいうのも何だけど、僕は、れっきとしたダメ人間だよ」
「とっくに知っている」
馬鹿な女だ。僕が飽きたら、僕に捨てられるのに。結婚? くだらない制度だ。結婚どころか、僕にとっては、この国の社会の、何もかもがくだらない。世間を見渡せば、馬鹿、馬鹿、馬鹿、どこもかしこも馬鹿ばかり。
高校を卒業してから、定職にも就かず、アルバイトを転々とするうち、気が付いたら、二十代も半ばに差し掛かっていた。友人に、集団窃盗チームに参加しないかと誘われている。知り合いの知り合いから、マルチ商法勧誘の手解きを受けようか迷っている。
「前の車、停まりなさい」
サイレンを大音量で鳴らして、赤色灯と全面警光灯を点滅させた覆面パトカーが、夜の都心環状線に、突如姿を現す。バックミラーを覗くと、瞬く間に、僕の軽自動車の後方にピタリとくっ付いた。
「停まれだってさ。僕のことかな」
「わ、道が空いているから、気が付かなかったわ。あなた、何をしているのよ。馬鹿ね。スピード出し過ぎよ。明らかに、スピード違反よ」
いっそ徹底的にパトカーを無視し続けたら、いずれ根負けして見逃してくれるのではないか。そんな淡い希望を抱いて、しばらくそのままの速度で走行を続けてみる。
「どういうつもりよ。早く停まりなさいよ。これではまるで、警察から逃げているみたいじゃない」
「でも、僕には、罰則金を払うお金がないぜ」
「お金なんか、貸してあげるから。お願い。停まって」
ちっ。致し方ない。僕は、路肩に車を停止させた。
「すみませ~ん。一旦車から降りていただけますか~」
後方に停止したパトカーから出てきた警官が、僕が半分だけ下げた運転席の窓に顔を覗かせて、柔らかな言葉つきで言う。
「なんだよ、違反手続きなら車内でも出来るだろう。いちいち面倒臭いな」
僕は、不機嫌極まりない口調でそう返事をして車外へ出た。ちょうど尿意を催していたところだったので、高速道路の脇で立小便をしようと、仁王立ちをしている警官を明らかに無視するように、堂々と目の前を通り過ぎた。
ゴツ。
骨の奥底から鈍い音。意識が遠のくほどの痛み。その場に倒れ込み、右足を抱えて、アスファルトの上を転げ回る。
「てこずらせやがって。さっさと停まれよ、このガキ」
不遜な態度に腹を立てた警官が、堅い鉄が仕込まれた安全靴のつま先で、僕の向うずねを、思い切り蹴ったのだ。
「ちょっと、あんたら、いくらなんでもやり過ぎでしょうが!」
あわてて助手席から飛び出してきた女の子が、市民に暴行をした警官を激しい口調で非難し、痛みに悶え苦しむ僕を、抱きかかえて介抱する。
激しい痛み。揺れる視界。女の子の手の温もり。屈折する青白い月の光。ここではないどこかへ誘われているような感覚に襲われる。あるいはこの日、僕は、そのどこかへ突入した。
女の子に介抱をされながら考えていた。この子は、僕にお金が無くても、僕が働かなくても、僕がダメ人間でも、構わないと言う。よ~し、そこまで言うなら上等だ。僕は、この子と、結婚をするぞ。ただし、こちとら、元来へそが曲がっているのだ。結婚をすると決めたからには、こんな小娘のヒモなんぞになってたまるか。そうと決めた以上は、真面目に働いて、お金を貯めて、いつかマイホームを購入しちゃったりなんかして。
想像しろ、ダメ人間。他でもない、お前の未来だ。
広いリビングを、お前の幼い子供がドタバタと走り回って。お前は、座敷犬と一緒にぐで~んとソファーに寝そべって。食卓を囲む、お前の家族は、いつだって、温かな笑いと涙に溢れていて。あわわわわ。ドキドキしてきた。ドキドキしてきた。ドキドキしてきたああ。
目から、涙が溢れているのが分かる。口から、よだれが垂れているかどうか微妙だ。涙の向こうに、青白い月。月は、僕の前方にあって、月は、ずっと僕を見ていた。
――――
月は、ずっと僕を見ていた。
なんだ馬鹿野郎。ジロジロと見るんじゃねえよ。そうジロジロと見られると、緊張をしてハンドルがブレるじゃねえか。こっちを見るなってば。僕は、ジロジロと見られると、やることなすこと上手く行かなくなるタイプだ。
それにつけても、今宵の都心環状線は、豪華だなあ。がら空き。貸し切り。思わず運転席の窓を全開にして、俺の道! と叫びたき衝動に駆られる。
ミシン会社、建設会社、かまぼこ会社、ステンレスの厨房機器を製造する会社、有名企業の本社ビルの屋上に掲げられた巨大な看板たちが、順番に車窓を通り過ぎて行く。
二〇二三年、深夜。ゴールデンウィークに、家族で二泊三日のディズニーリゾートを満喫し、僕は今、帰路のハンドルを握っているところ。
ラジオから、新型コロナウイルスの、今日の感染者数が発表されている。最新型のカーナビが『もうすぐ二時間になります、そろそろ休憩しませんか』と柔らかなアドバイスをくれる。
綺麗な満月だなあ。むしろ嫌悪感を抱くほどに。こんな夜は、夜道で裸体を晒して月光浴をしたら、さぞや気持ちが良いだろう。
あれ? いつだったか、過去にも、同じ濃度の、同じ速度の、同じ満月を見たぞ。そうそう、あの夜僕は、当時お付き合いをしていた女の子と、結婚することを決意したのだ。
あの頃、僕は、一日に五十本近くの煙草を吸う愛煙家だった。咥え煙草で車を運転するものだから、もくもくと煙が充満し、車内は、むせかえるほど臭かった。今では、禁煙に成功した時期やその動機すらうろ覚え。煙草への未練などは影も形も無い。運転する車のレザーシートからは、まだ購入時と同じ革のニオイがする。
助手席に、女の子が乗っている。最近、小じわやシミが目立ち始めた、あの夜の、女の子だ。
後部座席には、二人の子供が乗っている。小学四年生の長女と、保育園年少の次女だ。長女は、両手に暇潰しに読んでいた子供向けの図鑑を開いたまま、首を、こくりこくりと揺らしてうたた寝をしている。次女は、チャイルドシートを上向きに倒して熟睡をしている。
て言うか、眠たい。マジで疲れた。くたびれ果てた。そもそも僕は、なぜこんな夜遅くに、眠い目をこすりながら車を運転しなければならないのだろう。
妻と結婚をした。妻のために、死にもの狂いで働いた。子供が生まれた。子供のために、死にもの狂いで働いた。マイホームを購入した。家族のために、死にもの狂いで働いた。そして、たまの連休でさえ、こうして家族のために尽くさねばならない。夫婦って何? 親子って何? 家族って何? ああ、ハンドルが重い。
『次のニュースです――』
子供たちが目を覚まさない程度に音量を絞ったラジオに、何の気なしに耳を傾ける。
『名古屋市在住の六十代の男性が、急性覚醒剤中毒で死亡した事件で――』
車が緩やかな左カーブを曲がったところで、巨大な夜の雲が、青白く輝く満月をペロリと呑み込み、ハイウェイ上空の闇が、どっぷりと深みを増した。
『警察は、今日、元妻で、自称納棺師の女を、殺人と覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕しました』
ラジオの音が、ひどく乱れる。トンネルに侵入をしたわけでもないのに、変だな。激しいノイズが車内に鳴り響く。しばらくするとノイズの彼方から、なにやら、人の声がする。どこか聞き覚えのある男女の声が、僕に話しかけてくる。
『おい、ぼうず。てめえだけ、幸せになるつもりかよ。てめえのせいで、どれだけの人間が不幸になったと思っている』
『まさか、こんな人並みの生活が、いつまでも続くと本気で思っているの? あら、嫌だ、ボクちゃん、本気でそう思っているの? オホホ。まさか、まさかよね』
『ザザザ……意地を張るな、素直になれ……ザザザ……何もかも捨てて、自由になるのよ……ザザザザザザ……ザザザザザザザザ……』
プツン。狂騒する雑音に耐え兼ね、僕はラジオのスイッチを切る。
続けざまに、夜の雲が、さっき呑み込んだ満月を吐き出す。青白く丸い嘔吐物。ハイウェイ上空に、再び青空のように眩しい闇夜が広がる。
「どうしたの? 様子が変よ。顔が真っ青」
助手席の妻が、噛んでいたチューインガムをテッシュに吐き出し、そう言った。
「いや、なんというかその、あれだ、最近ラジオの調子が悪いのだ。壊れかけているのかな」
そうか、妻には、悪魔の囁きが聞こえていないのだ。僕は、必死でごまかした。
「あなた、疲れていない? 長時間の運転は良くないわ。次のサービスエリアで、少し休憩を取りましょう」
「ありがとう、でも、あと少しだから、頑張るよ」
後部座席で、小さな物音がした。
バックミラーを覗くと、うたた寝をする長女が、手にしていた図鑑を膝の上から落としたようだ。鏡越しに、後部座席に転がった図鑑の表紙が見える。『絶滅しかけの生き物図鑑』と題してある。
「ねえ、ラジオが、壊れかけているの?」
「あ、昔、そんなタイトルの歌が流行ったね」
「何をふざけているのよ。故障しているなら、さっさと修理に出しなさいよ。て言うか、あなた、先日ワイパーの調子も悪いって言っていなかった? おかしくない? ディーラーにクレームを入れるべきだわ。だって、この外車、中古とはいえ、まだ購入したばかりじゃない」
「うん、でも、完全に壊れたわけじゃない。壊れかけているだけさ。確かに、正常ではないけれど、ギリギリのところで頑張っている。ある日突然、普通に戻るかもしれない。しばらくは、様子を見てあげようと思う」
「ふん、壊れかけの人間が持ち主だと、車も、あちこち壊れかけるのね」
「配偶者もね」
「あ、覚えていらっしゃい」
僕たちは、鳥の群れが一斉に飛び立つように、同時に大声で笑った。
笑いながら、胸にストンと落ちるものがあった。今、二人が共有しているこの笑いは、僕と妻という生き物に共通して備わっている習性であるかのような、なんというか、とても本能的な笑いなのだと思った。僕たちは、夫婦である以前に、生き物として分類され、人として分類され、さらに詳細に詳細に分類されていった果ての果ての同類同科同族の仲間。そんなふうに考えてみたのだ。
例えば、この世のあらゆる崩壊寸前の人間が、漏れなく図解されている、題して『壊れかけの人間図鑑』。そんな図鑑どこにもないけど。でもそれは、どこかにきっとあって。たぶん絶対あるとして。
僕と妻は、きっと、その図鑑の、同じページに一緒に記されているはずだ。なんなら二人並んだ写真付きで、詳しく図解されていたりして。
そのページには、きっと僕の父の名前もあって。必ず母の名前もあって。子供たちはどうだろう? どうせ壊こわれるなら、同じページに記されてくれたら、パパは嬉しいな。
そう、僕たちは、夫婦とか、親子とか、家族である以前に、仲間なのだ。そりゃあ、仲間は、その気になって探せば、この広い世界のどこにでもいる。遺伝子や、国籍や、性別や、年齢や、立場を超越した仲間に、いくらでも巡り合える。そうやって、現在どこで生息しているとも知れぬ仲間へ熱い想いを馳せ、世界中を駆け回る生き方も、それはそれで、とても意味がある、と思う。
でも、言わずもがなのことであるが、夫婦とか、親子とか、家族とかいう、自分にとって最も身近な仲間と上手く共存をする、なんとかして共存する糸口を探してみる、出来るだけ仲良く暮らす努力をする、という生き方も、決して無意味ではない、と思うのだ。
まだ見ぬ仲間と出逢う努力を惜しんではならぬ、と同じように、目の前の仲間と共存する努力も決して惜しんではならない。僕は、哺乳類、霊長目、ヒト科、ヒト族、ホモサピエンスの一匹として、我ながら呆れるほど、見も蓋も無くそう思い、そう思った途端に帰路のハンドルは、一気に軽くなったのである。
「さあ、もうすぐだ。もうすぐ辿り着ける。帰るよ。笑いと涙に溢れた我が家へ」
言ったほうも、聞くほうも、誰も得をしない鼻白む言葉が、心から、思わずこぼれた。カッコをつけるならつける、笑いを取るなら取る、中途半端が一番恥ずかしいぞ、自分。
「うふふ。素敵よ。いい感じ。そんな時もある。たまにはいいじゃない。そんなセリフも」
僕の気持ちを見透かした妻が、慰めるようにそう言った。
「そういえば、長らく実家に帰っていない。そうだ。次の連休に、家族みんなで、両親に会いに行かないかい。父ちゃんも母ちゃんも、きっと喜ぶと思うんだ」
「もちろんよ。ちなみに、私は、あなたの家族のことが、もっともっと知りたい。教えて。あなたの家族は、どんな人?」
あの夜の女の子が、悪戯っぽく尋ねる。
「それは、これまでの? これからの?」
「これまでも、これからも」
都心環状線の加速車線から、一台の合流車両が、本線に鋭角に刺さるように、強引に合流をしようとする。ちょうど、第一走行車線を走る僕の車の、左わき腹にピタリとくっ付いて、加速も減速もしないまま、嫌がらせのように離れようとしない。
ハンドルをしっかりと握り、サイドミラーを確認しつつアクセルを緩め、合流車両に道を譲る。合流した車両が、猛スピードでハイウェイの果てに消えて行く。ヨッシャー、偉いぞ、僕ちゃん。落ち着いてベストな行動が出来たじゃないか。
大丈夫、僕は、まだ壊れていない。
壊れかけているけど、もうしばらくは使えそうだ。
「父は、優しい人だったよ。母は、それ以上に優しい人で……」
気を取り直して、妻に話し始める。目から涙が溢れているのが分かる。口から、よだれが垂れているかどうか微妙だ。
涙の向こうに、青白い月。
月は、僕の前方にあって、月は、ずっと僕を見ていた。