おぞましきウサギの壁画
一晩で書いたけど自信作です。
※2021/01/31誤字修正
おぞましき兎の壁画
1925年 南アメリカ ガイアナ奥地 レイノドレシャス・グランデ遺跡内
手にした松明が揺らめき、暗い迷路を進む。ぼんやりと浮かぶのはベージュのサファリジャケットを着た汗臭い男達。典型的な探検隊の出で立ちだ。先頭を進む二人のアメリカ人はジャックと、ウォルターだ。ジャックは、黙々と前に進むウォルターについていく。ウォルターはさっきまで、やれ暑いだの、痒いだのと騒いでいたのに、遺跡に入った途端に走り出しかねない勢いだ。まるで少年のようだとジャックは思った。
前大戦中負傷したジャックは、衛生兵ウォルターによって救われた。野戦病院の中、本当は戦場に出たかったと歯噛みする若きウォルターを宥めながら、ジャックは戦地の様子を語ったものだった。やがて友情が芽生え、戦争が終わったら南米探検に出て、その映画を撮ろうという話をぶち上げたのだ。ウォルターは映画プロデューサーにコネクションがあった。終戦後すぐに企画を持ち込んだ。実際の遺跡を使った冒険映画を撮るという企画だ。強引なウォルターはひとまずの了承を取り付け、現地の水先案内人インディアンや専門家などの人件費、渡航費の予算を勝ち取ったのだった。
「見てよ、ジャック! 何か、壁に何か描いてあるぞ!」
「待ってくれ。ウォルター、もっとゆっくり進んでくれ」
ジャックはウォルターの2,3メートル後ろだったが、後続する隊員達は更に数メートル遅れている。多くは現地雇用のインディアンで、5,6名いる。追いついたジャックは松明で石壁を照らし、ウォルターの発見をより明るくする。
「これは……何を表現しているんだ? 黒い……動物? 教授! ちょっと見てくれ」
最後尾を歩いていた教授、オズワルドは初老のドイツ人で、考古学者だ。返事をする代わりに、なんとか隊列の最後尾から追いついてきた。ウォルターはたまらず急かす。
「早く教えてくれ。この動物は何!? 文字は何と描いてあるんだ」
ウォッホン……埃っぽさのせいだけでなく、はしゃぐウォルターを嗜めるように、オズワルドは咳払いをした。
「まずは観察させてください。……細く長い耳……これは兎を表していますね。それは珍しくないのですが」
「珍しくないが、何?」
「この壁画ではここまで大きく描かれているのが気になるのです」
「どうして」
「暗くてよく分かりませんでしたが、ここに来るまで全く兎のシンボルを見かけなかったでしょう。重要なシンボルなら、途中の壁画や彫刻にも描かれていて然るべきです」
「そういうものか」
「いずれにせよ、全体を見たいな。おい、もっと周りを照らしてくれないか」
ジャックは隊員たちに合図し、部屋全体を照らさせた。数台のガス燈が黒い兎を中心とした壁画の全体像を照らし出した。
オズワルドは兎と言ったが、果たして兎だろうか。全身、黒一色。まぶたのない大きな丸いな目が真正面を見ている。そして特徴的な耳だ。体の何倍もの長さの耳を左右にしならせている。手は、左右に大きく広げていた。肉球の先には少し爪が伸び、全てを迎え入れているようだ。下半身は蹲踞のようにしゃがんでおり、大股開き。後ろ足はよく見ると二対あり、悪魔じみている。
股間の前には血溜まりがある。血溜まりの中には、我々の知る様々な動物の半身が浸かっていた。黄土色の壁に黒と赤を基調としたトーンの、いかにもエスニックな壁画だが、血溜まりの動物たちは色が多く、鮮やかに見えた。そしてその周りを多くの人が取り囲み、崇めている――といった具合だ。
ジャックは、絵心がない自分でもそれなりの再現度で模写できそうな、シンプルなタッチだと思った。メモをしようかと思ったが――何か不吉なものを感じてそれはやめた。ふと、ジャックはウォルターの顔を見る。ウォルターは壁画に釘付けだ。小さく口を開けて、まっすぐ『兎』の目を見上げている。
「なぁウォルター、どう思う?」
「ああ、すごいものを見つけたな」
突然聞かれたジャックは反射的に答えて視線を壁画に戻し、続けた。
「ちょっと不気味だけどな」
「南米らしくていいじゃないか。力強さを感じるよ」
ウォルターを一瞥しただけでジャックは分かる。否定して欲しくないのだ。しかし誤魔化すようなトーンをウォルターはすぐ見抜くので、不気味だという感想だけは正直に答えた。
「これはすごい発見かもしれんませんよ」
オズワルドも少し興奮してきたようだ。
「これまで生贄の儀式を描いた壁画は数多く発見されているが、これはユニークです」
「というと」
ジャックは興味を示したかのように聞いた。
「パッと気づくポイントは2つ。まず、この生贄の血です」
オズワルドは兎の股間の前、地面に広がる血溜まりを示した。
「心臓とか死体を捧げているのかと思いきや、血の中から色々な動物が出てきている。『出てきている』と分かるのはなんでかというと、目をご覧なさい。普通この文明の壁画では死体は目をつぶって描かれているが、この動物たちははっきりと目を開けているのです。だからこれは死体ではなく生きていて、血の池から這い出しているのだと分かります。だからさっき『生贄』と言いましたけどこれは間違いです」
「つまり?」
オズワルドは早口になっていた。確信を促すようにウォルターが聞く。
「血の池から動物が生まれている、と考えます。周りに文字があるので解読できればもっと分かるかと。時間がかかるので、これは後で。そして次に人間たちです」
オズワルドは壁画の下方に描かれたヒト型の群れを指差した。
「ひれ伏して崇めているように見えるでしょう。ただ、恐れを感じないのです。ハッキリと口が描かれています。どんな表情に見えますか」
「分かるよ! 笑っているよね」
「その通りです。人と神の――この兎のことですけど――こういった、恐れのない関係性を描いている壁画は見たことがありません。そして、人間といえばもう一つ気になるのが……」
埃っぽさと興奮でオズワルドは咳払いし、一呼吸置いた。
「端の方にいる、横たわる人々です。そう、横たわっている。でも見ての通り、パッチリと目を開けている。死や眠り以外で横たわるという描写を壁画で見たのは、初めてです」
聞き入っていたウォルターが嬉しそうにジャックを見た。
「だってさ!」
「ああ。面白そうなモチーフだな」
そう言いながらジャックは部屋を見回した。続く道は見当たらない。
「ここが最深部か。映画のクライマックスにはもってこいかもな」
「映画……」
ウォルターはポツリと呟く。
「ああそう、映画。映画だ。」
「ウォルター。ここに来るまでだいぶ時間がかかった。君はもちろん、荷物を運んできた隊員たちもだいぶ疲れてる。めぼしい写真を撮って今日はキャンプに戻ろう」
「ああ、うん」
会話を聞いていた隊員たちは写真撮影の準備を始めた。すると、ウォルターは徐ろに壁画に手を伸ばした。
「おい、触るなよ」
ウォルターは聞かず、壁画を優しく触り始めた。
「ジャック、君って意外と学がないんだな。美術作品ってのは五感全てで感じ取るものなんだよ。メトロポリタン美術館じゃあ常識だよ」
「ちょっと貴方! 塗料が剥げたらどうするんですか!」
オズワルドが抗議する。
「加減してるって! 子供扱いするなよ」
写真撮影を命じられた隊員たちは三人を避けながら、撮影できる箇所を次々と撮影した。
「スイマセン、ドイテクダサイ」
稚拙な英語で隊員の一人がウォルターにお願いする。壁画しか撮るものがなくなって、ウォルターはようやく壁画から離れ、撮影が終わったのだった。
かくしてジャック達一行は帰路についた。みんなヘトヘトだと思っていたが、今日の仕事は終わりだと思うと足取りも軽くなる。
「なあジャック、あの文字はなんだろう」
「それは明日だ、明日」
キャンプまでの所要時間が明らかになったので、帰り道はガス燈を盛大に焚いて進行していた。最低限の照明で進んでいた時には見えなかったものも見えるようになったという訳だ。とはいえオズワルドが言っていたように、最奥部の壁画以外は飾り気のない抽象的な模様や文字ばかりだった。
「みんな、気をつけてくれ」
先頭のウォルターが立ち止まった。細長い石造りの一本橋だ。長さは約15メートル、幅は1メートルほど。往路でも通ってきた道だが、一本橋のすぐ下には鋭い槍が鈍く光っていたのだった。
「暗くて見えなかったが、下が『トゲトゲ』だったとはな。いっそう用心していこう」
ジャックの合図で、ゆっくりと進行が再開された。先頭ウォルター、次にジャック、オズワルド、残りは現地で雇用した隊員だ。手を左右に軽く広げバランスを取りながら、一歩一歩、一列で進んでいく。たしかに危険だが幅は1メートルある。ジャックは気を緩めなかったが、それほど危険というわけでもないと思っていた。
ところが先頭のウォルターが真ん中に差し掛かった、その時。真横から突然の疾風が起こったのだ。
「うわっ!?」
ジャックは思わず声を上げた。一体、どこから風が? ジャックは右手を見ると、ヒト一人分ほどの高さの細いスリットが壁にあった。そこから強い風が部屋全体に流れ込み、反対側へ流れている。
「みんな屈むんだ!」
ジャックが叫ぶより先に、全員が屈んでいた。足元の幅1メートルが途端に心細く感じる。
「一体どうやって外から風を入れてるんだ!」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょう!」
「いいから落ち着け!」
先頭の三人が言い合っている間にますます風は強くなっていく。そして風速が最高潮に達した瞬間、全員のガス灯がプツリと消えた。
「何やってる! 早く火を灯せ!」
「無駄だウォルター! 一旦風が収まるのを待たなきゃ」
後続の隊員達もパニックになっている。暗闇の中、現地の、インディアンの言葉で激しい言い争いをしているようだ。
「教授! とにかく落ち着けと伝えてくれ!」
「何ですって!?」
風の音と隊員たちの怒鳴り声で会話もままならない。なんとかしなくては……ジャックが思案を巡らしていると、次第に風が弱くなってきた。
「ジャック! 風が止んだぞ!」
「教授! また明かりをつけるように言ってくれ」
「押スナ押スナ押スナ!」
教授が答える前に、拙い、しかし必死な英語が暗闇に木霊する。
「オマエ何考エテル! 押スナッテ言ッテンダロ! アアッ」
「誰か明かりを!」
「ギャアアアアアア」
部屋に明かりが灯った。すると、抗議の声の主は橋の下にいた――マリオネットのようないびつな格好で悲鳴を上げていたのだった。先頭から4人目、オズワルドの後ろにいた隊員だ。体中、串刺しになっている。もう言語など関係ない。純然たる悲鳴だ。
「待ってろ、すぐ助ける!」
「ア、ア、……」
串刺しの隊員がジャックの方を向くと――カチリ、と音がした。すると隊員を刺していた数本の槍がロデオのように上下に動き出したではないか。ガッコン、ガッコンというカラクリの回る音に合わせて部屋中の槍が動く。壊れたマリオネットは、血しぶきを上げながら踊り狂った――ジャック達は、どうすることもできなかった……。
そして数秒後、槍は一斉に停止した。ジャックの目の前には穴だらけになった死体が、深く深く槍に沈んでいる。もう悲鳴を上げることはない。
「クソ! なんてこった……」
隊員達を暗く、重い雰囲気が覆っている。不幸中の幸いか、風はもう起こらず照明も戻ったので、残りの隊員は難なく橋を渡ることができた。そして一同は犠牲者に向かって黙祷を捧げ、部屋を後にしたのだった。
誰も言葉を発しない。無言で帰路を、明るく照らされた遺跡内を進んでいる。
「あの」
オズワルドが口を開いた。
「私、やっていません」
誰に対してというわけでもなく、つぶやくような言い方だった。
「分かってる!」
ジャックは反射的に遮ったが、すぐにオズワルドの意図を理解した。犠牲になった隊員はオズワルドの後ろにいたのだ。『押すな』と怒鳴ったのは誰に対してだったのだろうか? 近くにいたオズワルドではないか……? これは、その疑念に対する釈明だったのだ。だから平易な英語で全員に言ったのだろう。それは分かる。オズワルドが隊員を殺しても何の得もないのだから。
しかし、それではなぜアイツは暗闇の中『押すな』と怒鳴ったのだろう? 名前も知らないアイツは誰に押されたのか?
「分かってるよ、教授。あんたのせいじゃないさ」
ウォルターは今日一番優しい声で言った。だが、他の人間は沈黙の中、不気味な疑問を抱き始めていた。
「ジャア誰ガ、ソンガン殺シタ」
現地雇用の隊員の一人がぽつりと漏らした。あのインディアンはソンガンという名前だったのか、とジャックは思った。
「誰カガ、ソンガン、突キ落トシタ」
「君、名前は」
「デルキン」
「ミスター・デルキン。今日紹介したと思うが、私が君達を雇ったウォルターだ。君の友人のことは本当に残念だと思っている。でもあれは不幸な事故だった。我々みんなが危険だった。そうだろう?」
ウォルターはゆっくりと話し、デルキンを諭している。
「事故デハナイ」
デルキンは来た道の暗がりを指差した。
「アナタ、ナニカ怒ラセタ。ナニカガ、ソンガン突キ落トシタ」
ナニカ、とはつまり壁画の兎のことだろう。
「構うな。ウォルター、先を急ごう。遺跡を出てもキャンプまで少しある」
「壁画サワッタ! ウォルターガ神、怒ラセタ!」」
ジャックは腹が立ってきた。信心深いインディアンなら遺跡の探検など手伝わない。それが今更、神を理由にして、出資者に楯突くことが卑怯だと思ったのだ。
「おい! それ以上言うなら貴様をここに置いていったっていいんだぞ! 後払いのカネも無しだ。 オマエ、ツイテコナイ。ノーマネー。オーケー?」
「カネ! ソウダ、カネ払ウノ嫌デ、ソンガン殺シタカ!」
「何だとこのインディアン野郎!」
とっさにジャックはデルキンを突き飛ばした。デルキンは体勢を崩して倒れた。殺伐とした雰囲気だ。隊員たちもオズワルドも息を呑んでいる。
「コノヤロウ!」
デルキンは何かインディアンの言葉で叫んで立ち上がろうとしたが、できなかった。両足が床に空いた窪みにピッタリとハマっていたのだ。もう一度立ち上がろうとしたが、やはりバランスを崩して倒れ、尻もちをついた。
「ハッハッハッハ……」
インディアンの一人が笑い出した。まるで、一人でズボンが脱げない幼児のようだったのだ。たしかに滑稽な光景だったかもしれない。釣られてウォルターも笑い出した。
「ハッハッハッハ……」
一転、和やかな空気となった。
「デルキン、すまなかった。俺たちはカネのために仲間を殺したりしない。信じてくれ」
ジャックは心から謝罪し、手を差し伸べた。デルキンは返事をしなかったが、しかし笑顔でジャックの手を取った。
「アレ、アレ」
デルキンの声が曇る。
「足、抜ケナイ」
ウォルターはデルキンの足を見た。足首から先が見えない。足が、ぴったりと窪みにハマっているのだ。デルキンはジャックの手を離し、両手を床に突っ張り、踏ん張った。しかし、足はびくともしない。
「ウォルター、みんな、手を貸してくれ。デルキンを引っ張り上げよう」
「ダイジョウブ。モウ一回ヤッテミル」
鼻息荒く、デルキンはもう一度両手に力を込めて足を抜こうとした。するとガチャリと音がして、デルキンの両手も床に沈んで――埋まった。
「テ、テガ!」
ゴゴゴゴ……
近くで何か仕掛けが動く音がする。ジャックは血が逆流するような、嫌な感じがした。そして轟音は大きくなっていく。尻もちをついたデルキンの腰辺りから、床が真っ二つに割れだしたのだ。
「貴方達! こっち側に来て!」
オズワルドはとっさに隊員たちに呼びかけた。隊員たちは割れる床を急いで跨いだ。デルキンよりもジャック達の方向、出口側の床に来たのだ。
「助ケテ! 助ケテ!」
「デルキン!」
ジャックの叫びも虚しく、床は割れて広がっていく。両手が固定された床はあちら側に。両足が固定された床は、こちら側に向かっていた。
「助ケテェエエエエ!」
全員が叫びに背を向けた。やがてボキンと鈍い音が聞こえてしばらくすると轟音は止んだ。床の移動が終わったのだ。ジャックは恐る恐るデルキンの方に目を向けると、固定された足だけが奈落に続いているのが見えた。奈落を覗き込めばきっと、デルキンの下半身だけがぶら下がっているのだろう。
全員が、恐怖に震えていた。
「俺のせいじゃない……」
ジャックは弱々しくつぶやいて、残された隊員たちの方を見た。インディアンから責められると思ったのだ。だが、そうはならなかった。
「ノロイダ」
「オ、オマエタチ。イッタイナニシタ」
カネ目当てで隊に加わった不信心者達が、ジャックを責めるよりも遺跡の呪いにガタガタと震えているのだ。
ゴゴゴゴ……。
また、あの音が来た。やがて轟音がこの部屋に揺れとなって伝わる。生き残った4人のインディアンは一目散に出口へ走り出した。
「待って! 落ち着きなさい!」
オズワルドの静止も虚しく、インディアンたちは振り返らずに行ってしまった。彼らの持っていた照明がなくなったことで、ジャック達三人の周りはいよいよ心細い明るさになった。
「ジャック。もはや一刻を争う。僕達も彼らを追って脱出しよう!」
また危険な仕掛けがあるかもしれないという不安がジャックの頭を過ぎったが、大きくなる轟音がそれをかき消した。
「ああ! 走ろう、教授!」
すぐにオズワルドは頷き、全速力で走り出した。
嗚呼、5秒前にこの決断ができて良かったとジャックは思った。どの部屋に行っても轟音が止むことがないのだ。遺跡全体があの床のようにバラバラになっているに違いない。どうしてこうなった? いや、今はそんなことを考えている場合ではない! ジャックは走りながらも頭の中は意味のない思考を繰り返していた。照明はインディアン達隊員に任せていたので、三人の照明は心細い。だが、火事場の危険が彼らの感覚を研ぎ澄ましていた。足場は決して良くなかったが、恐るべき集中力で暗い迷路を進んでいく。足の裏に伝わる感覚がしっかりと脳髄に伝わり、転びそうになってもスピードを落とすことなく走り抜けることができた。呼吸は荒いが息切れすることなく、全身にエネルギーを絶え間なく供給している。曲がりきれない角は体をぶつけながら走った。
「ジャック! あの光は!」
ウォルターが叫ぶ。一体いくつ部屋を駆け抜けただろう……冷静な全力が功を奏して、なんとか三人は先行したインディアンに追いつくことができた。見つけた光はインディアン達が持っていたガス灯だけではない。出口から差し込む夕焼けだ!
「ウォルター、教授! 行くぞ!」
ジャックはラストスパートをかけようとするが、揺れが大きくなった。オズワルドは思わず体勢を崩す。
「教授!」
ゴトン、と音がする。天井から石材が落ちてきたのだ。こんなものに当たったらひとたまりもない。
「生き埋めになっちまう! 教授、早く!」
出口から悲鳴が聞こえた。前にいたインディアン達がいない。
「ジャック!」
ジャックは教授を起こそうとしたが、自分も倒れてしまった。床が傾いているのだ。体勢を立て直そうにも、床がつるつると滑る。すべり台のようだった。おまけに粉っぽい砂が降り注ぎ、滑りやすさが増していく、どこに手をつこうにも、無様に滑るほかない。ジャックは洗面台の水のように下へと流されていく。
「クソ! 出口は目の前なのに!」
出口から差し込む夕陽が、頭上に遠のいていく。滑り台はますます急勾配となり、ジャック達は奈落へと飲み込まれていった。
完全なる闇の中、轟音が止んだ。あの装置が止まったのだ。流砂がせせらぎのように木霊している。ジャック達は遺跡の中をウォータースライダーのように流され、流砂の溜まり場に着地した。着地したはいいものの、次は頭に砂が降り注ぐ。ゲホゲホと、ジャックは大きくむせた。
「ジャック! 大丈夫かい?」
「ああ、大丈夫だ。教授は」
「大丈夫だ」
興奮の中で鈍感になっているせいかもしれないが、三人とも体に痛みは感じない。流砂がクッションとなったのだろう。
「ガス灯が壊れた。ジャック、明かりは点けられる?」
「俺もダメだ。教授は」
「……よし。私のは大丈夫そうです」
オズワルドはガス灯を灯した。薄っすらと部屋が照らされている。探し回るまでもなく、道はない。つまり、ここは密室で、行き止まりだったのだ。
「クソ!」
「どうすればいいんだ……」
「ちょっと待って。壁をよく見てください」
三人の目が暗闇に慣れてくると、壁には壁画と文字が刻まれていた。ジャックには、奥で見たものと同じように見えた。
「何か外に出るヒントがあるかもしれません」
「たしかに」
「ハッ! ガキ向けの冒険小説みたいに、か? 秘密のスイッチで脱出? アホらしい……」
ジャックはそこまで言ったが言葉を止めた。嗚呼、ここまでの出来事は冒険小説そのものではないか。
「ええい、どうにでもなれだ。他にやることもないしな」
一瞬、先行したインディアンの彼らが助けを呼んでくれることを期待した。しかしあの怯えようでは……万が一助かっても、ここで起こったことを口外しないだろうとジャックは思った。
「役に立てるか分からないけど、僕とジャックは教授が解読したことをヒントに、何かアイディアを出すよ」
「はい。お願いします。解読には時間がかかるので。超特急でやりますけど、少し待ってください」
そういうと教授はメモを取り出し、壁画とメモと、交互ににらめっこを始めた。ジャックとウォルターは、邪魔すまいと押し黙る。教授一人分の明かりの中、暗い密室に流砂の音だけが流れていた。
何分経っただろうか。ジャックとウォルターは体感的には無限にも思えるような時を過ごしたが、ついにオズワルドが沈黙を破った。
「分かったことを報告します。」
座り込んでいた二人は、無言でオズワルドの側に駆け寄った。
「まず、壁画について。写真がないので正確なことは分かりませんが、ほとんど奥にあったものと同じです。違う点は、おそらく人間達の姿勢です。奥の壁画では崇めている人間と横になっている人間がいましたが、こちらでは横になっている人間しかいません。そして同じように、横になっているけど、寝てはいないのです」
「何を意味しているかサッパリ分からないが」
ジャックは腕を組んで唸った。
「読み取るべきものはそれ、ということなのか?」
「次に、兎の横に並んでいる文字ですが、おそらくこう描かれています
夢の / 国 / 鍵を得し者 / 命与える者 /
奈落 / 出る / 王となる」
「やった!」
ジャックは思わず叫んだ。
「俺でも分かる。奈落はここのことだ。そこから『出る』だろ。この謎が解ければ、出られるんだ!」
オズワルドは力強く頷いた。二人とも、体中から気力が湧いてくるのを感じる。
「でも、具体的には何をすればいいんだろう」
ウォルターは言った。
「それは分かりませんが、壁画とのつながりで推理したことがあります」
オズワルドは得意げだ。
「『夢』についてです。目を開けて横たわっている人間たちがこの壁画では強調されています。この人たちは『寝ているけど起きている状態』つまり、夢を見ているということでしょう」
「ふんふん、それで?」
ウォルターは楽しそうだ。
「人々が作り出した夢をエネルギーにして、兎が儀式を行ってる、ということではないでしょうか。兎の前にある血の池、そこから生き物が這い出している。生贄じゃない、って奥の壁画でも言いましたよね。つまり、ここから生まれているということかな、と」
「それが『命与える者』? つまりそれがこの兎?」
「おそらくは。そしてその世界観が『夢の国』ということなんじゃあないでしょうか」
「ううーん」
ジャックが唸る。
「とは言ってもな。俺たちは何をすればいいのか、全く分からないな」
「ギブアップ?」
ウォルターが薄明かりで悪戯っぽく笑った。
「おい! ふざけてる場合か。何か分かってるなら教えてくれよ」
「じゃあ教授、ちょっと明かりを貸して」
「はい」
ウォルターは明かりを持つと、壁画の向かい側、壁際の、流砂が注ぎ込むところに歩いて行った。そして、そこから兎を照らした。
「ほら、こうすると……兎が動いているように見えるよね?」
ウォルターは流砂を挟んで、ガス灯を振り子のように左右に動かした。オズワルドは照らされた兎を注視する。
「た、たしかに……僅かですが動いて見えますね。ガス灯の明かりが流砂を遮る一瞬暗くなりますが、微妙に……動いて見えます!」
オズワルドは発見に震えていた。
「すごいぞウォルター! でも一体どうしてだ?」
「壁画を触ってごらんよ」
「……ああッ……!!」
ジャックとオズワルドは叫んだ。
「こ、これは……」
「ごく僅かですが……兎の部分が立体的な彫刻になっているから、ですか!」
「そう。照らされた兎に凹凸の陰影が付く。照らした場所によって微妙に違う影が、ね。一瞬の暗闇の後、それが交互に現れる。だから、動いて見える」
「ああ! そういえば子供の頃、見世物小屋に同じような装置を見たことがあります」
「それと同じ原理だよ。だけど、描いてある文章の解釈も少し違う」
部屋に注いでいた流砂が止まった。
「『命与える者』はこの文章で複数存在するんだよ。壁画で動物を生み出している兎だけじゃあない。こうして『動かない兎を動かした』僕も同様に『命与える者』なんだ」
ゴゴゴゴ……。
とっさに、ジャックとオズワルドは身を竦めた。彼らを数度襲った悲劇の引き金の音だ。ウォルターの背後にあった壁の一部が、崩れていく。だがそれはバラバラになるのではなく、規則的にまっすぐ沈んでいった。そして空いた小さな穴の奥で、また壁が沈む。ジャックとオズワルドが見守るうち、それは階段となったのだ。やがて階段の上部からオレンジ色の空が覗いた。
「よっしゃああああーッ!」
ジャックとオズワルドは抱き合い、歓喜した。絶叫していた。だが、夕陽を背負うウォルターはピクリともしない。逆光でジャックはウォルターがよく見えなかったが、何かが異様だった。ジャックとオズワルドの熱が冷めていく。
「ウォルター……?」
「ジャック。オズワルド教授。貴方達をここから出さないことにする」
「何言ってるんだ……?」
呆然とするジャック。ダメだ、夕陽が眩しくてウォルターの表情が分からない。真っ黒な人影が、立ちはだかっている。
「文章についてさらに補足する。『夢の国』は兎のものだけじゃない。人間が夢を与えて兎に命を産ませることで、その命が僕達の世界にも満ちる。現実と双方向に命を与え合う国、それが『夢の国』なんだよ」
「何を言ってるんだよ……? だったら何なんだ? 早くここから出させてくれよ!」
ジャックは情けない声を出した。オズワルドは、絶句している。
「初めに壁画に触った僕が『鍵を得し者』そしてここから出て夢の国に『命を与え』『王となる』……『命を与える』つまり『"animate"』」
「…………」
ジャックは話についていけていない。ウォルターに対する怒りも悲しみも湧いてこなかった。「とりあえず、ジャックに死んでもらう理由を言っておく。君はこの壁画を『不気味』だと思ったからだ」
「そ、そりゃあ少し不気味だと思ったけど……そ、それがどうした」
「違う。『少し』じゃない。君は心から嫌悪していた……兎が教えてくれたんだよ。僕はここを出たらこの世界と夢の国の王になる。その時、その原点である壁画を知るものは僕以外必要ないと思ったんだ。君の感じ方は自然だ。良い友だちだったと思う。この世界が僕の夢に夢中になる時、その原点が知られたら、君のように不気味だと思う人も出るだろう。それでは夢は作れなくなってしまう」
「…………」
「まだ分からないか。鍵を得た僕には、兎さんが何でも教えてくれるのになあ。つまり、だから僕はこの遺跡の仕掛けを自由に操れたのさ」
「ウォルター……!」
ジャックは拳銃を抜いた。猛獣用のリボルバーだ。
「じゃあお前がインディアンを、隊員を殺したのか!」
「そうだ。この後、先に逃げようとしたインディアン達も始末する」
「…………!」
友達だと思っていたのに。心の中でその言葉を絞り出した後、ジャックは引き金を引いた。銃声が密室に響いた。
「うわわわっ」
オズワルドは部屋中を走り回った。バキューン。キュイーン。大げさで、けたたましい銃声が鳴り止まない。
「何だこれは……!?」
ジャックの撃った、たった一発の弾丸が部屋中を跳弾し続けているのだ。オズワルドが必死にそれを避けている。
「ハッハッハッハ……それじゃあね」
ウォルターがふわっと手を振ると、跳弾の音が止んだ。その刹那、オズワルドが倒れた。ジャックが抱き起こすと、オズワルドの眉間には大きな穴が空いていた。迷子の弾丸はオズワルドの眉間にたどり着いたのだ。
「ウォルタァアアアーー!」
ジャックは激高してウォルターに突進し、銃を突きつけた。
「いいよ。やってごらん」
ウォルターは突きつけられた銃身を優しく握り、心臓を狙わせた。もう躊躇わない――ジャックは、強い憎しみを込めてウォルターを睨みつけ、残弾全てを打ち込んだ。
「……あれ?」
たしかに数発打ち込んだ。だのに、ウォルターは取り澄ました顔でジャックの視線を受けている。ジャックはリボルバーに視線を下ろした……するとどうだろう……銃身がパンパンに膨らんでいるではないか。ウォルターが銃身を握ったせいで弾丸が詰まったのだろうか?
「……そんなバカな!」
「ジャック。君は親友だった。でも僕には、するべきことが見つかったんだ。君と夢の国に行けなかったことが残念だよ」
ウォルターは膨らんだ銃身をグッと握り込む。
パンッ。
風船が割れたような乾いた音がして、銃身に溜め込まれたエネルギーがジャックの顔を吹き飛ばした。膨らんでいた銃身は、竹のようにバラバラに裂けていた。
こうして、ジャックは再びアメリカの地を踏むことはなかった。当然、冒険映画の企画はそのまま流れた。会社の直接的な損失は大きくなかったが、その後の実写映画がいくつも大コケし損失を重ねて、会社は倒産した。ウォルターの責任を追求しようとする者がいなくなったのだ。ジャックやウォルターの家族は政府に捜索を依頼したが――何年経っても彼らの痕跡は見つからず、誰もが諦めてしまった。
だから、ウォルターの消息を知る者は、誰もいないのだ。