格好悪い鹿
翌朝、教室に高見さんは居なかった。先生によると風邪で学校を休んでいるだけらしい。
ほんの少しだけ安心した。
っていうことは昨日高見さんからのコメントが無かったのも単純にしんどくて小説を読むことも出来ていないのかもしれない。
嫌われた訳じゃなかったのかもしれない。
何の根拠もない割に都合のいい解釈しかしない自分の弱さにほとほと嫌になるけどまぁいいや。
それなら病気で床に伏している高見さんがスマホを弄れる程度に体力が回復した時の暇潰しの為にぼくは「夜に探すしか」を今夜も更新しよう。昨日考えた最終回はまだしばらく先に取っておこう。
そんな事を考えていた矢先、事件が起きた。
休み時間に突然、クラスのボスの川原達に席を囲まれとあることを頼まれたのだ。
「なぁ、江藤。高見を呼び出せ」
半年ぶりに話した川原は当たり前のように命令口調でそう言ってきた。
「お前最近高見とつるんでるよな。だからよ、なんかうまいこと言ってあいつが学校出てきたら放課後に体育館裏に呼び出せ。只の風邪なら明日にでもあいつも出てくるだろうし早速頼むぜ?」
川原はそう言ってぼくの肩に腕を回してきた。
「返事は?」
叫びたくても喉が詰まりなかなか声が出ない。
やっとの思いで絞り出した「なっ、なんで?」がその時はやっとだった。
「なんかメグが話したいことあるみたいでさ。まっ、お前には関係ないし黙って言うこと聞いてくれたらそれでいいからさ」
川原はせせら笑う。メグとは川原の彼女で隣のクラスの相原恵のことだろう。
「なぁ、いいだろ?」
川原は腕に力を込め今度は肩ではなくぼくの首に腕を回しそのままゆっくり絞めてきた。
——いやだ。
何が何だかさっぱり分からないけど高見さんを裏切るようなことはしない。するわけがない。
断ろうとするが、今度は物理的に喉が詰まりどうしても声が出ない。
「おーい、江藤くん~ついに話し方も忘れちゃいましたか~?」
首がどんどん締まっていく。
——誰がお前らの言う事なんか。
意識が薄れかけたその時、不意に川原の力が緩んだ。
ぼくは思わず机に突っ伏し咳き込んでいると、川原は僕の耳元で囁いてきた。
「なぁ江藤、高見を騙してくれたら、もうこんなイジメはしない。シカトも止めてやるよ」
——え?
その言葉に思わず顔を上げる。
ぼくの顔を見た川原はゆったりと笑みを浮かべた。
「マジだよ。また俺達の仲間に戻してやる」
周りの取り巻きはその川原の言葉を合図に「良かったなぁ」「もうこれで俺達また友達だぜ」「今度早速カラオケにでも行くか?」と一斉に囃し立ててきた。
「悪い話じゃないだろ?」
川原はポンポンとぼくの背中を叩く。
ぼくの胸の中に確かな敗北感が降り積もる。
そして川原の次の言葉がとどめになった。
「寂しかったんだろ? 悪かったな」
その言葉を聞いた時、ぼくは不覚にも涙が出そうになった。
格好悪い。格好悪い。格好悪い。格好悪い。格好悪い……昨日の夜なんて比べ物にならないほど格好悪い。
こんなにも卑怯でズルい川原にぼくは、ぼくは……。
その時幸か不幸か休み時間が終わり先生が入ってきたのでこの話は終わった。
川原は去り際に「まぁそういう訳で精々よろしく頼むわ」とだけ言い残し席に戻っていった。
後に残されたぼくは再び独りになる。窓からは教室には秋風が妙に寒々しく吹いていた。
ぼくは何も言えなかった。
後から思えば「するわけないだろ!」とか怒鳴るチャンスはいくらでもあった。
ぼくは弱い鹿だった。
————夜、鹿は嘗ての仲間に出会った。
ターシャはその時たまたま木の実を探しにどこか遠くに行ってしまっていたので鹿は久し振りにひとりだった。
そんなタイミングだったからこそだろうか、群れのボス鹿であるカバラは独りでいた鹿にとある取引を持ち掛けてきた。
「いつも一緒にいる小猿を殺して群れに差し出せ」と言う。
猿の脳味噌を食べカバラは人間並みの知恵を得ようとしているらしい。
無論、鹿は断ろうとした。
だがカバラはもしターシャを殺せば群れに戻してくれるという取引を持ちかけてきた
カバラは不敵に笑う。取り巻きの鹿達もカバラに続き囃し立てるようにケタケタと笑う。
ふざけるな。
そう言い返してやろうとしたときカバラは不意に表情を緩め、まるで鹿に同情するように言ってきた。
「夜の森を一匹では心細かっただろう?」
その言葉に鹿はふと息をのむ。
夜風に吹かれた葉擦れの音が鹿の頭に妙に響いた。
悔しいけど、格好悪いけど、情けないけど……図星だった。
鹿は独りがずっと怖かった。
死んでやるんだって決意は所詮強がりだったのだ。
これまで過ごした幾つもの夜が頭の中に思い浮かぶ。
満月じゃないと死ねない、卑怯者の側では死にたくない、幽霊の力ではなく自分自身の力で死んでやる……全部嘘だった。
鹿は本当はずっと生きたかった。
綺麗な場所なんてもうどうでもいい。本当はずっと誰かとこんなに怖い夜を一緒にやり過ごしていたかったのだ。
皮肉にもそれを教えてくれたのはターシャだった。
独りだけの夜しか知らなければそれでよかったのだ。だがターシャに出会い鹿は知ってしまった。
冷たい夜風に吹かれても二匹で身を寄せ合えば温かい。狼の唸り声が聞こえてきても二匹でいれば怖くない。
ふたりで過ごした幾つもの夜と思い出はやがて鹿にとってたったひとつの小さな不安へと変わっていった。
もしターシャが居なくなってしまったら?
鹿と猿、もともと相容れない別の動物だ。
ターシャの気まぐれ一つで鹿はまた簡単に独りへと逆戻りしてしまう。
それだったら……それだったら……いっそ……。
カバラは迷う鹿の様子を見て勝ち誇ったようにその場を立ち去って行った。
明日殺してこい、という。
独り残された鹿は空を見上げる。曇り空だ。
月明かりの届かない夜の森、押し潰されてしまいそうな程に孤独。
早く会いたいのにこんな時に限ってターシャはなかなか帰ってこない。
二度三度地面を蹄で打ち付けながら辺りを見渡す。
苛立っている自分に鹿はふと思う。
ターシャに会ってどうしようというのだろう?
おい、嘘だろう?
そんな一匹の弱い弱い鹿の呟きは誰にも届かず闇の中に溶けて消えていった————