CCCは愛を謳う
【声なき声】
ここに来るには、いくつかだいじなお約束と持ちものがある。
まずはお月さまの抱っこ、つぎは夢のプレゼント、それから、つよく、つよく、愛を謳う力!
†
「ようこそCCCへ!」
ネコの目の形のお月さまの日、ヒトがいなくなってさみしいところに愛を謳うサーカス団CCCはやってくる。
『ファントム』とよばれているこの人は、腰をかがめると仰々しくわたしにおじぎした。こういうのもサーカス団長のおしごとの一つみたい。この季節にしては、さむい風がぴゅうとふいて、わたしの長くて黒いかみがお空にうかんだ。ここもお昼間なら、あったかいのだろうか、それとも。そんなことを考えながらだれもいない遊園地に立つ、ゆがんだ二つのかげを見つめた。大きいのと小さいの。いやにくっきりと地面に張りつくあなたとわたしのかげ。それは月あかりの下でまっすぐ平行にのびていて、全然まじわりそうになかった。
「これはこれは、珍しいお客さんだ」
ファントムはそう言うと、白い手ぶくろをした手ををわたしにさし出した。
まじわりたくて、来たんじゃないのか。
つよく、じぶんに言いきかせる。
わたしがおそるおそる手をのばすと、黒いかげも月光の下でゆらりと手をのばす。少しずつ近づいて、近づいて、二つのかげがまじわると少し背中がぞくりとした。ファントムはそんなわたしの様子を気にもしないで、やさしく手をにぎりかえす。
「はじめまして、愛を知らない可愛いお嬢さん」
手ぶくろ越しの手はやっぱり冷たく、ファントムの声にまったく心は感じられない。
ファントムの背後にはずっとずっとおわりの見えない夜のお空がひろがり、そこにはぽつりとお月さまがすわっていた。お月さまはちょっとさびれたメリーゴーラウンドに、胸がきゅーんと痛くなるようなほそくてさみしい光をわけてあげているけど、ファントムの顔だけは真っ暗でなにも見えないし、ファントムはなにも見ていないのだ。そしてきっと何も聞こえていない。
「さあ、行こうか」
からだがぷるぷる震える。寒くはない。こわい、のかもしれない。こんな気持ちは知っているようで知らない。おおきく息をすったり、はいたりしても胸がどきどきと高鳴っている。強く目をつむってから、ちらりとファントムをぬすみ見ると、仮面に隠されていない口元をゆるりと三日月のかたちに変えて、そっとやわらかくほほえんだ。行こう、というファントムの言葉に一度うなずき、わたしは一歩ふみだす。
目元をかくした白い仮面、やわらかくて優しいお月さま色のかみの毛、ひるがえって赤と黒がちらつくマント、夜のお空みたいな燕尾服、ねこのブローチ、シルクの手ぶくろ、かたくてつやつやした皮のくつ、黒くてながいステッキ、ぜんぶぴかぴかで汚れなんてひとつもない。
「ほら早く。はじまってしまうよ、愛を知らない可愛いお嬢さん」
ほんの少しじれったそうに彼はわたしを抱きよせ、マントのなかにふわりと包みこんだ。ファントムの匂いがする。ああ、きてよかったんだ。このときはじめて、わたしはそう思った。
「今夜のサーカスはどんな見世物になるだろうね、楽しみにしていておくれ」
喉の奥の方でファントムはくっくっと笑う。楽しくて、うれしくて仕方がないらしい。何がうれしいのだろうか。人の心を知るのはとてもむずかしい。わたしはどんな顔をすればいいかわからなくて、すごくあいまいにほほえんだ。
「ここは私ファントムが主催するサーカス団CCC! 愛を知らないモノの愛を謳うモノによる愛を知らないモノのためのサーカス団。ここでは誰もが愛が好き。愛が好き。そうさ、愛が好きなのさ。だから君も恥ずかしがらなくたっていいんだよ。愛を知らなくったって。むしろ愛を知るために来たんだろう?」
わたしはむずかしいことをおしゃべりするファントムはきらいだ。もうやめて、と言いたかったけれど、すぐにかたく口を結んだ。
いたい。
八重歯がうすいくちびるにささって、ちょっと血のあじがした。
いたい。
夜風でひえた手を胸にあてる。心臓が痛かった。わたしはなにか『ビョウキ』にでもなってしまったのかもしれない。
「さあ」
しん、と風がやむ。まるで、ファントムのよびかけに答えたようだった。
だれもいない遊園地が真夜中の静けさを取りもどす。
「そろそろ時間だよ」
しゃん、と鈴の音がした気がした。きいたことのあるような、やっぱりないような鈴の音が、ファントムの胸元から。まるで小さいこねこの鳴き声みたいだった。
その瞬間、細々としていた月あかりがおおきくふくらみ、さびたメリーゴーランドを照らす。お月さまがひかりでだきしめたのだ、とわたしは思った。お月さまがとてもまぶしくて、わたしは目をしかめながらメリーゴーランドを見やる。血をすうノミみたいにしつこいさびが、お月さまの魔法でとけて、ぷしゃあっとはじ飛び、とろり、とろーりとたれていく。とけたさびは、メリーゴーランドのまるい屋根を、おおきな馬の首を、足を、舞台をつたい、地面に流れてこちらの方へじりじりとしみわたってくる。足につくのがいやで、わたしはおもわず後ずさろうとしたが、ファントムがにげないようにわたしをつかまえているせいでそれはかなわなかった。ねっとりとしたさびがわたしたちの足のうらをじわりとしめらせると、ファントムは大きな口をあけてケタケタと笑いはじめた。ぬれているのも気づかない様子で息も絶え絶えで。ときおり、せきこんではハアハアと大きく息をした。苦しそうなのに、やっぱりとても嬉しそうで、ファントムはいっしゅん、ぶるっと身ぶるいをし、ふたたび何度かせきこんでから、さっきよりももっとケタケタと大きな声で笑いはじめた。
メリーゴーランドが生きかえる。
わたしたちの足はびちょびちょになったけど、メリーゴーランドはあっというまにぴっかぴかになって、とりわけおおきな馬が、大きないななき声をあげた。いくぞ、と前足をつよくけると、足音のリズムに、陽気でメルヒェンチックなメロディーがふわふわおどる。
なにか聞こえる――。
うららかなメロディーにナニか変な音がまじっている。よくよく耳をすませる。声だ。ありとあらゆるいきモノたちのよろこぶ声がまじっていたのだ。ここは今はだれもいないはずなのにへんな気配がする。
だれか、いる?
昔よくきいた色んないきモノの声が、ここから、そこから、あそこから。
わたしは目がわるいけど、けっしてだれもいないはず。どれだけ目をこらしても、何かが動いているわけではないんだもの。でも、わたしの耳はよいから、聞こえる声はまぼろしなんかじゃないはず。わたしの横をだれかが通った、気がした。いくらきょろきょろとまわりを見わたしても何も見えない。それでも、笑い声がやむことはなかった。
「愛を知らない皆さま、ようこそCCCへ! 今晩も悪く笑う月だなあ。まるでボクをあざ笑っているようだ! 行こう、愛を謳うサーカス団CCCへ! あはははは!」
わたしをぽおん、と放りだしたファントムは、馬たちのあいだをすり抜けて、メリーゴーランドの真ん中の柱へ走っていった。柱にかかった鏡には、しまりのない口でがはがはと笑うファントムがうつる。ぶつかる、と思った瞬間、ファントムはとけて、メリーゴーランドに吸いこまれる。
いっちゃだめ!
半分ころがりながら、ほとんどよつんばいで地面をかきながら、走って、走って、走って、わたしはメリーゴーランドに――。
【泣笑いベーゼ】
僕は、子供のときからデブで、ブスで、髪もちょっと薄くて、勉強ができなくて、吃音持ちで、ノロマでぼけっとしてて、おまけにあだ名は「白ブタ」だった。一方、ガリガリで、ごわごわの鳥の巣みたいな赤毛で、そばかすだらけで、運動ができなくて、でも、誰よりも勇敢で、優しくて、笑うことが大好きなあいつの名前はサミーだった。
サミー、僕は君の笑顔が見たい。
†
一輪車に乗りながら、縄跳び。わざとよろこけてこけてみせる。ちなみにたまに本気でこけてる。パントマイム。腹の肉がつっかえて、しゃがめないのが一番つらい。笑いはとれるけど。それから、手品。正直一番当たり外れが大きい。このサーカスで一番笑わないドラゴン使いのハオランが唯一、本当の本当のほんの少しだけ笑った『トランプがだんだん大きくなって最後は週刊プレイボーイになってあわてて懐に片づける』ネタは本番ではまったくウケなかった。今から考えれば、ハオランと観客の客層(人種?)が全然違ったけど、あの空気感は今思い出すだけでも辛い。もう一度あの空気感になるなら、髪の毛が全部ハゲた方がマシだ。いや、やっぱりもうこれ以上はハゲたくない。僕の胸がもう一カップ大きくなる、くらいなら許す。
僕は誰もいないステージに寝転がり、目をつぶった。
「もう死んでるのになぁ」
まさか死んでからピエロになるとは思っていなかった。
CCCはファントムと呼ばれる素性不明の金髪仮面男を団長として、入れ替わり立ち替わりのメンバーで構成されているサーカス団だ。団員は『愛』に疑問を持ったまま死んでしまったり、物だったのなら逆に命を得た者たちばかりで、基本的にはファントムから直接声をかけられ、体に刻印を刻まれて団員になることができ、第二の生を歩む。僕たちの役目は、猫の目の月の日にやってくる観客と呼ばれる黒いもやもやした霧みたいな生きモノに『愛を謳うこと』だ。観客達も愛に飢えているのだ。と言うより、観客自身が愛に飢えた寂しい気持ちそのものなのかもしれない、と最近は思う。
あのとき死んで、ファントムに呼ばれて、僕はここにいるけど、いったいどこなんだろうな、とよく思う。
連れてこられて目をあけたときには、立派な赤と白のテントに、永遠に続く暗い森と明けない夜空が広がっていた。僕が死んだのは決して、こんな場所ではなかった。まあ、死んだモノがサーカス団員として働いていたり、ドラゴンが存在していたり、人形が意志もって動いていたりするのだ。天国か地獄かとか、現実か幻かなんて定義はすごく曖昧な世界なのだと思う。今もこうして、僕専属のお手伝い、具体的に言うと死んだ猫のお化け達が僕の腹に乗って遊んでいるし。ちなみに普段、本物の猫のような手足はなく、ボールに耳としっぽだけ生えたような形をしていて、必要なときだけ(手伝うときとか)手足が生えてくる。そのうえ、まさかの二足歩行だし、僕よりすばしっこい。
僕は、ここでは白ブタ呼ばわりされないし、なにより昔に友人と交わした約束があるから、ここにいることはそんなに苦痛じゃない。けど、本当は長くいるのはよくない、と思う。現に何人もの団員の二度目の死や永遠の死を見てきた。また、ここにいる団員全員の過去を知っているわけじゃないけど抱えた問題が深刻なモノばかりだからやっかいだ。ここで必要とされることを喜ぶ、死んでても天国にまっすぐ行けないようなそんなメンツの集まりなのだ。
「ファントムって何者なんだろうなあ」
「呼んだかい?」
「うわあああああっ」
目を開けると逆さ向きに僕をのぞき込む不気味な仮面の男がいた。顔の上半分を隠しているため、表情は口元からしか読むことができない。そしてその口元は不気味なまでに笑んでいる。俗にいう作り笑いだ。
「ファ、ファ、ファントム、驚かさないでよ」
「君が死んでしまったのかと思って心配だったのさ」
そう言うと、ファントムは手に持っていたステッキでとんとんと腹を押してきた。
「ちょ、ご、ごごごごめんなさいいいい」
「君の道化はおもしろいと評判だが、今晩は開演だというのに練習もせずこの怠慢ぷりを見たら観客はなんて言うだろうね? 愛を謳うモノが練習に対してすら愛がないとはなんという皮肉っぷり。ピエロとしてはお見事だ。だけど、僕は嘆かわしいよ、ああ、観客に謝らなくては」
「ご、ごごごごめん」
ファントムは顔をぐっと近づけて、僕の顔をのぞき込んだ。
シャープな輪郭と病的なまでに白い肌、ピンク色の薄い唇、どれも綺麗だった。きっと仮面の下もイケメンなんだろうなあ。そんなことをのんきに考えていると、ファントムはにこりと再び微笑み、ステッキに力を込めて僕の柔らかな腹に華麗な突きを披露した。
「ぐほお」
「分かればいいさ、今夜も期待しているよ。ピエロのジョージ」
ファントムは僕の腹からステッキを離し、赤と黒のマントを翻すと颯爽と立ち去ってしまった。優雅な身のこなしがよく似合う男だった。思わずうっとりしたため息をつく。
ていうか、絶対僕(享年三十七歳)より年下だと思うんだよな。
僕はまわりに散らばった一輪車やボール、トランプを拾い集めつつ、そんなことを考えた。
近くのねこおばけに、控え室に小道具を片づけてくるよう頼む。そろそろ兄妹人形のルカとイネスか歌姫のザクロが練習にくると思うので、早いうちに退いてしまおう。あれやこれやとねこおばけに指示を出していると、ゆるりと歌姫が姿を現した。
「おはようさん、ジョージ」
「おおおおおはよう、ザクロ」
「んふふ、おはよ」
ザクロは生前、日本で『ゲイコ』という歌を歌ったり、踊ったりして人をもてなす職業をしていたらしい。その名残がで髪の結い方も独特でセクシーで、服装はいつも『キモノ』と呼ばれるモノだし、変わった歌い方や楽器を使うことが多いけど、そのミステリアスさがむしろ売りだった。彼女の歌物語はとても愛に満ちていると好評で、観客も毎度聞き入っている。ちなみにザクロというのも『ゲンジナ』といういわゆるニックネームだそうで、本当の名前は誰も知らないのだそうだ。
「ファントムに怒られてたやんか」
「そそ、そ、そうなんだ」
「三味線弾く間、ちょっとだけ待ってもろてもええ? ちょっとお話したいわあ」
「い、い、いいよ」
「おおきに」
「う、ううう、うん」
経験的に、僕の番が来たのだと分かった。
ザクロはどの団員にもここにきた経緯を聞いて回っていた。僕が来てからもそうだし、来る前もそうだったと小耳にはさんだことがある。本人曰く、『芸の肥やし』になるらしい。でも、自分の過去やここにきた経緯を話したがらない団員には無理に聞いたりしなかった。ザクロ自身も自分のことを多く語らない人だったけど、それでも団員の多くが彼女にはそれなりに信頼を置いていると思う。どんな団員とも遠すぎることもなく、かといって極端に近いわけでもなく、薄く透明な膜をはって、見せるところと見せないところの区別をつけるのが得意な女性だから。
ザクロはまっすぐ、どこか遠くを見すえながら、楽器をかき鳴らして、歌った。遠く、暗い森だけじゃなくて、たぶん彼女の生まれ故郷や死に場所、あるいは奥底にしまった大切な人の思い出、そういうところに思いを馳せている瞳だった。悲しい歌声だった。
彼女の歌を聴きながら、僕も過去を思い出す。
小さい頃、容姿と吃音のせいでずっといじめられていた。
物を取られたこともあったし、蹴ったり殴ったりされたこともあった。でも一番傷つくことが多かったのは言葉の暴力だった。言葉は見えないから、一瞬で溶けて消えてなくなってしまうから、一番簡単にできる暴力だから。と言うのは、あくまでいじめる側の主張であって。言葉をうまく話せない僕にとっては、それが僕をとことんまで追い詰めた。
僕は「やめて」の声も「助けて」の声も簡単にはあげることができなかった。
僕が持てないもので、僕の持つものを貶され、罵られ、虐げられるのは僕の心をゆるやかに、でも、確実に殺していった。
だけど、いじめてきた奴だけが悪いと言うつもりはない。
たしかに人の生まれ持ったものを侮辱して、いじめることは最低だ。けれども、今思うと、僕にも悪いところはあったのだ。自分が人と円滑にコミュニケーションをとれないのを容姿や吃音のせいにして、自分からふさぎ込んで、日陰の中を歩いていたのだ。自分を愛することが一番の薬だと分かっていたのに。自分はどう頑張ったって自分のままなのに。
それに気づかせてくれたのがサミーだった。
「ジョージ。ジョージったら」
「わああああっ」
「何回も呼んでたんよ? うちがファントムやったら、また怒られてたでぇ」
ザクロは手で口を隠しながらくすくす笑う。その姿は小さい女の子を彷彿させた。
「ぼうっとするのが、く、く、くせで」
「んん? もう知ってる。なあなあ、聞いて。今日なあ、めっちゃええ調子やねん。これなら空中ブランコの時も歌ってあげれそうやわあ」
「たい、た、た、たいていは、ねこおばけの楽器のえええ、演奏だけだしね。き、君の歌があれば最高だね」
「おおきに。空中ブランコは一番人気やからなあ。言い換えたら、それだけ危ないゆうことやけど」
僕たち二人に一瞬、気まずい空気が流れる。ファントムは命をかけるものほど、愛が詰まっていると考えるきらいがあった。空中ブランコは特に、人形だからこそ危険な演目だった。落ちたら壊れてしまうから。しかし、ファントムは命綱やマットを敷くことを許さなかった。
「ほないこ、うちの部屋。ついでにぺいんてぃんぐ、いうんやっけ。顔の化粧もうちがしたげる」
†
その日は、春うららかな陽気な天気で、この国で泣いているのは僕だけじゃないかと思うくらい素晴らしい天気だった。
お父さんもお母さんも農作業と家畜の世話で忙しくて、基本的に僕はいつも一人でいた。家に帰っても「男のくせに」とか「またぼっとして」とかぐちぐち言われるから、一人で丘や湖で時間をつぶすことが多かったんだけど、その時だけは違った。なぜなら、この町にはじめてサーカス団が来ることになって、子供みんなにチケットを配ってくれたから。娯楽の少ない町だったから、みんな浮き足立っていた。僕もそうだった。大切に、大切に両手でそのチケットを握りしめて、太陽にかざしては穴が開いてしまうほど見つめてうっとりとし、まるで桃源郷への片道切符を手に入れたかのような錯覚に陥っていた。学校が終わって町中に繰り出すと、いつもはどこか薄暗くどんよりした気分でうつむきながら帰っているのに、今日はやけに開放感があり、町全部がきらきらして見えた。
そしてここから悲劇が起きる。
僕は待ちきれなくて、サーカス団のテントを見に行った。まだ入らせてはもらえなかったけど、檻の付いたトラックの中に象やライオン、キリンや見たことのない動物がたくさんひしめき合っていた。その横ではせっせと忙しそうにしているクラウンや柔軟体操をしているレオタードのお姉さんもいて、そこだけがまるで絵本の世界から切り取られてきたかのような華やかさがあった。異世界のような光景に当時の僕至上、最高に興奮したし、この光景を一生忘れまいと目に焼き付けた。だけど、町中にいたのがいけなかった。いじめっ子たちに見つかったんだ。僕は町の端の、端の、端まで追いかけ回されて、蹴り倒されて、必死に手の中に隠していたサーカスのチケットを取られた。あ、なんて声をあげる間もなく、僕の目の前でチケットはびりびりにやぶかれて川に流された。ついでに僕も突き落とされた。自分の体がどぷん、と沈んだ音と共に「どうせこうなるって心のどこかで分かっていた」という心の声が頭をよぎった。悲しいはずなのにやけに冷静で、せめて涙だけはこぼさぬようにしようだなんて心に決めて川から体を起こしたとき、あたりにはもう誰もいなくなっていた。
もしかしたらまだ掬いあげることもできるのかもしれないだなんて、両の手で水を掬いあげてみたけど、そこにはチケットの残滓なんてあるわけもなく指の隙間から水がなだれ落ちるだけだった。僕はうつむいて、とぼとぼと歩きだし、いつもの丘に向かった。
丘にはもちろん誰もいなくて座り込んでじっと遠くを見ていると、そこからサーカスのテントが見えてクラウンが子供一人一人に風船を配っていることに気づいた。僕だけがこのつまらなくて苦しい世界にたった一人取り残されたような気がして、もっともっと悲しくなって、膝を抱え、じっと目を伏せた。
どうしてうまく話せないのだろう?
どうしてこんなに醜い容姿なんだろう?
でも、どうして僕はいじめられないといけないのだろう?
「せめてブタじゃなかったらなあ」
「ブタかわいいじゃん、足速いし。オリンピック選手より速いんだぜ?」
「わああああああおばけだああああっ」
僕は勢いよく後ずさって、勢いよすぎて後ろにでんぐり返りしてしまった。服が濡れていたせいで土でどろどろになった。またお父さんとお母さんに怒られてしまう。先ほどの件もあり、目に涙が滲みそうになった。
「あはははははっ、あーおもしろい! キミ、道化師に向いてるよ! ピエロになるかクラウンになるかはキミが選べばいい」
見なれぬ男の子が立っていた。身長は僕より頭一つ分小さくて、半ズボンからのぞく足は僕の半分くらいの細さなのに髪の毛のボリュームは僕の五倍くらいあった。顔のそばかすと灰色がかった知的な瞳が印象的な子だった。
「ボクの汗がついてるけど、ホラ、これでふきなよ」
少年は首にかけたタオルを僕に差し出した。はじめて人の厚意に出会った僕はそれを受け取る術を知らなくて、ぐいとそれを押しのけた。むしろ、こうして騙されたこともあったから僕は疑ってかかってさえいた。
「い、い、いい、いらない」
「あっそ、ま、天気いいし乾くか。てか、キミなにしてんの?」
「ぼ、ぼぼぼぼ、僕、えっと」
「サーカス、行かないの?」
心臓がバクバクと鳴った。僕に笑いかける瞳はすべて知っているかのように僕を射抜いて、それが息苦しくて思わず目をそらした。いじめられているとは恥ずかしくて言えなかった。
「い、いけない」
「ふーん。来いよ」
そう言って、少年はゆっくり歩き始めた。本当にゆっくり、ゆっくりと。ちょっとよれよれして、変わった歩き方をする子だった。
僕は吃音がばれるのがイヤで自分の名前くらいしか話さなかったけど、そんなこと気にも止めないで少年はバズーカー砲のように話し続けた。
名前はサミー。笑うことと笑われることとうんちくが大好きで(ついでに聞きたくもないのにブタのうんちくを山ほど聞かされた)、お父さんはサーカス団のクラウンで自分も将来の夢はクラウンで、サーカス団に合わせて町から町へ移動するから友達がいないとか、色んな身の上話をしてくれた。
サミーは歩くのが遅くて、テントについたのは日暮れ前だった。疲れはなかった。すごく長い時間だったはずなのに、短く感じたくらいだった。それはきっと人を飽きさせないサミーの話術と空気感によるものなんだろう。
『友達』と時間を過ごすとこんな風に時の流れが速く感じるのだろうか。僕は一瞬、そんなことを考えたけれど。
「よっと」
サミーがためらいもなくサーカス裏口の立ち入り禁止のロープをくぐり、ずかずかとテントへ向かうもんだからあわててそれを追いかける。
「ま、ま、待って! ねね、ね、ねえだめだよ」
僕もつられて、中に入っていくとカラフルでめまぐるしい世界が広がる。やっぱり絵本のようだ、なんて思いながら歩いているとクラウンとすれ違った。クラウンはサミーに目をくれることなく、ほかの子供たちに風船を渡し、笑わせていた。あれ、君のお父さんだよね、とサミーに聞こうとしたけれど、子供たちの中に僕をいじめる主犯格の男子がいて思わず顔を隠し、開きかけた口を閉じた。神様にばれませんように、と祈りながらサミーのあとに続く。
「ほら」
サミーはまだ開いていない売店のリンゴ水を二つかっぱらうと僕に一本渡した。返そうとしたら、無理矢理ビンの口をつっこまれた。
「おおおお、おか、お金もってない」
「トモダチ料金」
サミーは腰に手を当てながらごくごくとりんご水を飲み干し、ぷはー生き返った、と大きな声をあげた。
「ほら、飲めよ」
サミーはそう言って、僕を小突いた。僕はいったんビンから口を離してから、勇気を出して再度口にくわえ、勢いよく飲みこんだ。人生ではじめて友達からもらった飲み物は、驚くほど甘くて、清涼感であふれていた。喉を鳴らすと、りんご水は重力のままに胃の奥に流れ落ちる。ビンいっぱいに入っていたりんご水はあっという間になくなってしまった。
これならたとえ滝ほどの量でも飲み干せるんじゃないかというくらい格別に美味しかったのだ。
サミーは満足そうに僕にもう一本りんご水を手渡すと、二階のステージ袖まで僕を連れてきた。客席は、見覚えのある子供達であふれかえっていたが、どいつもこいつも豆粒のような似たり寄ったりの生き物に見えた。このときはじめて優越感というものに浸ることになる。人間なんてみんな似たようなものなんだって、なんとなく少しいい気分になれたのだ。いわゆる高みの見物ってやつだ。
「ジョージ、楽しいかい?」
「う、う、ううう、う、うん! すっごく」
「ボク、この町に五日いるんだ。また、遊んでくれる?」
僕は必死にうんうん、うなずいた。あまりに必死にうなずくもんだから、りんご水が変なところに入ってせき込んだ。そんな僕を見てサミーはげらげら笑った。本当に笑うのが大好きな子だった。
二階から見るサーカスは、細部まで見渡せて夢のような時間だった。動物のショーも曲芸も空中ブランコも火吹き芸も全部が全部はじめて見るもので、興奮が止まらなかった。最後の演目はクラウンが主役だった。おどける、こける、イスを鼻で持ち上げる。客席みんな笑顔になっていた。僕も声を出して笑っていた。クラウンはバルーンで花を作り、小さな女の子に渡した。桜の花だった。女の子はきゃあきゃあ言いながら喜んでいる。
「クラウン、好きになってくれた?」
「う、うん、えっ?」
肯定の後に、僕は戸惑った。サミーは頬杖をつきながら、真顔でクラウンを見ていたのだ。
みんな笑っている中で、このときは、サミーだけが笑顔じゃなかった。
「ボクだって、笑うことも笑わせることも大好きなのに、父さんはボクだけを笑わせてくれたことは一度もない。それから、ボクを笑ってくれたこともないんだ」
僕は気まずくなって、うつむいた。自分だけが取り残された世界にいることの辛さを僕は重々知っていた。でも、こんな時、どうやって励ませばいいか僕はまったく分からなくて、手にしみてきた嫌な汗をぐっと握りしめた。
「なーーんてな!!」
サミーはクラウンとお揃いの真っ赤な鼻をつけて、舌を出しておどけてみせた。
「冗談に決まってるだろ」
「だ、だ、だましたなっ」
「父さんのこと、大好きなんだ。尊敬してる。ボクも絶対、色んな人を幸せに出来る道化師になるんだ。キミ、いいよな。個性があって。うらやましいよ。だから、もう泣いたりするなよ」
「え、えへへ、サ、サ、サミーも、じゅじゅじゅ、十分、こ、個性あるよ」
「へへ、ありがと」
幼かった僕は、その時のサミーの本音には気づけなかった。
考えると、それはさみしい子供の本音であったのは明白だったのに。僕は本当に冗談だと思いこんでいた。
「あ、明日は、町、あ、あ、案内するよ。それから、お、丘や川で、し、し、自然を、み、見にいこう」
サミーはひゃっほうっと叫ぶと、ポケットから紙吹雪を出した。紙吹雪はサミーの鳥の巣みたいな頭にひっかかって、なかなか全部とれなかった。
それからは、サーカスには行かず、毎日町の自然を見せた。小川も、原っぱも、農場も、それから河原一面に咲く桜も。サミーは目をきらきら輝かせて喜んでいた。サミーはあまり自然に触れたことがないらしく、図鑑でしか見たことのない生き物や草花を五感を使って体いっぱいで感じ取っていた。
五日目の夕暮れは、出会った丘に行った。騒いで、喋って、遊ぶより、残されたわずかな時間を一瞬も無駄にしたくなくて、二人でサーカスのテントを眺めていた。町の大人達も子供達もサーカスのとりこになっていて、いつもよりも町全体が静かだった。そんなどこか静かなうっそりかんとした町で情けないけど、僕一人だけはわんわん泣いていた。サミーとの時間はそれほどまでに有意義で素敵だった。
「うぐぅっ、ひっうう」
「泣くなってもう。ボク手紙書くから」
サミーは首にかけたタオルを僕に渡した。僕はむせび泣きながらそれを受け取り、涙を拭いた。サミーのタオルはふかふかでいい匂いがした。
しばらくの沈黙の後、サミーは重たい口を開いた。
「秘密にしてたんだけど、ボク、足悪いんだよね。将来、走ったりできるかわかんないんだ。だから、道化師になれるかも、ほんとはわかんない。道化師の子供なのに、とんだ道化だろ?」
サミーはシニカルな笑いを浮かべて、鶏ガラみたいな細っこい足をぷらぷらさせた。僕が口をつぐんでいると、サミーは懐から出したクラウンの鼻を投げてはキャッチして、目でそれをじっと追っていた。
「な、なんとなく足悪いかなっておも、思ってた。で、ででも、あきら、あきらめる必要な、ない。き、君はひ、人を笑顔にする力がある」
「ありがとう、ジョージ」
サミーは鼻をキャッチすると、空を見上げた。
「ねえ、月が、綺麗だね」
夕暮れに浮かぶ三日月は、美しく、また妖しくもあり、笑ったピエロの瞳に似ていた。
僕は、サミーの弱みを知って吃音を隠すわけにはいかないと思った。吃音なんて、当時はあまり知られていなかったから、世間からすると喋るのが苦手くらいの認識で、それを病気としてわざわざ告白するのは、とても勇気が必要だった。でも、勇気を出してサミーは自分の弱いところを教えてくれたのだ。僕だけ隠すのは卑怯だと思った。
僕は立ち上がって、サミーに向き合った。
「僕もひひ、ひ、秘密が、あ、ああああるんだ!!」
「なに?」
「僕、吃音症なんだ!!」
サミーは見たこともないすっとんきょうな顔で僕を見ていた。僕は、緊張で心臓がバックバクいっていた。サミーの博識さでも吃音は知らなかったのかと思って、改めて説明し直そうとするとサミーは立ち上がって、僕にクラウンの鼻をつけた。
「キミ、今、言えてたよ。ちゃんと言えてたよ!」
「へ……」
人生ではじめてのことだったけど、どうやらこのときはじめてどもらずに喋ることができていたらしい。残念だけど、正直、緊張で記憶があまりないのだ。きゃっきゃっと喜びながら、サミーは僕からタオルを奪い取って、ぶわっと空に投げた。それから、さっきつけてくれたクラウンの鼻をぐりぐりした。タオルは風に流されて、僕の後ろの方へ飛んでいく。
「は、鼻いたいよ」
「よかったね、本当にキミ言えてたよ。言ってくれてありがとうな。実は、ボクも、どうしてもキミに伝えたかった秘密がもう一つあ――」
サミーはじっと僕の背後を真顔で見つめた。灰色がかった瞳が大きく見開かれる。
「父さんのとこへ、早く」
「え?」
僕が言い切る前にサミーは僕を思いっきり突き飛ばした。華奢な腕からは考えられないほどの力だった。丸い体のせいですごい勢いで丘の下の方へ転がっていく。
「サミー痛い、よ」
見上げると、見たことのない男がサミーを羽交い締めにしていた。姿かたちは逆光でよく見えない。だけれども、サミーの華奢な体が男の太い腕に抱えられて、浮いているということだけはわかった。サミーは大きな手で口をふさがれて苦しそうにもがいている。
「サミー!」
僕がサミーの方に駆け出そうとすると、サミーは男の手をがぶりと噛んで、野犬が鳥にでも襲いかかっているみたいに思いっきり振った。痛そうに男が手を退けると、サミーは小さい顔を男の太い腕から出して、精一杯叫ぶ。
「その鼻やるよ! ボク歩くの遅いけど必ず行くから、キミの道化を見に! だから、だからっ、今は行け! 約束だ!」
父さんのとこへ、早くの意味を知る。
「秘密は、そのときに必ず!!」
手が、足が、がたがたと震える。
僕は、サミーに背中を向けた。
「また、笑わせろよな!」
僕の背中にサミーはそう声をかける。声だけ聞くと、ものすごく楽しんでいる時のサミーの声だった。サミーは笑っていた、最後まで。
僕は泣きながら走った。人生であれ以上に早く走ることはもうないだろう。出会ったときのサミーの言葉を思い出した。僕はブタだから、速く走れるんだって。すごくしょうもない内容なのにそのときだけは必死に反芻した。
サミーのお父さんを呼んで、丘に戻った頃には、男とサミーの姿は消えていた。僕は、サミーのお父さんにぼこぼこになるまで殴られた。人殺し、と罵られた。クラウンのペインティングが涙で剥がれ落ち、わずかに見える素顔はサミーとそっくりだった。まるでサミー本人から罵られているかのようなそんな錯覚を覚えるほどに。
その日から、僕は町で居場所がなくなった。いじめが加速した。殺されかけることもあった。でも、あの日の心の痛みに比べれば、もう何も痛くなかった。
†
「結局、男もサミーも見つかることはなかった。生きているかもしれないというわずかな希望と死んでいるかもしれないという絶望でみんながつぶされそうだった。僕達家族は逃げるようにみんなで引っ越した。それから僕はピエロとして生きるようになった。いじられても、いじめられても、笑っておどけてごまかした。大人になっても僕はピエロのままだった。だけど、僕ったら、本当に喜劇みたいな人生で、サーカス団の道化師のオーディションに向かう途中で、飲酒運転の車にはねられて死んだんだよね。おかしいよね。その時、ファントムに誘われて、ここに。今まで、誰にも言えなかった」
「……今、すらすらゆえてたなあ」
ザクロは僕に手ぬぐいを差し出した。いつの間にかあふれた涙が止まらなかった。
「あ、あ、ああのとき、僕が手をさしのべてたら、サ、サミーを助けられていたかもしれないのに、うぐっ、ぼ、ぼ、僕は、僕は逃げたんだ」
「せやなあ、ジョージ、そう思う気持ちはようわかる。ほんまに、ようわかる。でもな、子供が大人の男相手に逃げれたと思う? 一人は足悪いんよ?」
僕も頭では分かっていた。あの場で僕がサミーをかばって、サミーに逃げさせても、時間を稼げたかは分からないこと。二人でなんとか逃げても、足の悪い友達を引っ張って、多分逃げられなんかしなかったこと。そうなると、最悪、二人とも殺されていたかもしれないこと。逆の立場なら、僕だってそうしていたこと。あの選択が、どちらかが生き残れる堅実な最善策であったであろうこと。
「その子の、最期の言葉を、無駄にしたらあかん。やから、今、ここにいるんやから。ほら、涙ふいて。そ。涙は化粧だけでじゅうぶん」
ザクロは涙ぐみながらそう言った。絵筆で僕の顔に涙を描きたすと、目尻の涙を拭いてくれた。
「おおきに、聞かせてくれて」
「い、い、い、いいんだ。これで、ぼ、僕は、救われた。き、聞いてもらって、あ、改めて今色んなことを受け入れられた。あり、あ、ありがとう。僕、い、いくね」
「ちょっとまって」
ザクロはああでもない、こうでもない、と部屋中ひっくり返すとはっ、と思い出したように胸元に手を突っ込み、桜の花飾りを手渡した。
「これ。もしも、その子に逢うた時、これあげて。新品やし」
「え、そ、そそんな悪いよ。は、ははは、花ならバルーンで僕作れ」
「い、い、か、ら。その子、桜で喜んでたんやろ? ほら、また忘れ物」
ザクロは赤い鼻をむんずとつかみ取り、僕の鼻にとりつけた。
「あーあー、あと五分ではじまるわあ」
「うえっ、ややや、やばい! ファントムに怒られる!」
いってらっしゃーい、とのんびりした口調で言うザクロを横目に僕は駆け出す。急がなきゃ。僕が走ると、どたどた音がするが、そんなの気にしている場合じゃない。怒ったファントムはとても怖いのだ。ねこおばけたちを半ば押しのけて、空中ブランコなどに使う二階のステージ用のはしごを登る。いつもこのステージ袖から大きな風船で降りる、というか、落ちて、笑いを誘うのだ。
僕は息を切らしながら最後の一段を登った。見慣れた赤い風船がぽつんと置いてあり、その横で一階の舞台を覗き込む。
「紳士淑女のみなさま、ようこそ! 私たちは愛を謳い続けるサーカス団CCC。今宵の食前酒代わりに、まずはピエロのおかしなショーを見てもらおう!」
ファントムはそう叫ぶと、一階のステージ袖に引いた。ねこおばけ達がすっとんきょうな旋律を奏でる。そう、愉快ではちゃめちゃで僕にぴったりの音楽だ。
赤い風船につかまり、一階に落ちる。痛そうにする。観客たちがきゃいきゃいと騒いだ。あらかじめ、お尻のところで裂いてあるズボンを今裂けたかのように恥ずかしそうに押さえると、どっと笑いが湧き上がった。次はあわてて一輪車に乗ろうとしてすべってこける。やっぱりみんな笑ってくれる。いつだってそうだった。僕はバカにされてきて、それを笑ってごまかしていたけど、心は泣いていた。
辛いことが多い人生だった。僕がハゲじゃなかったら、デブじゃなかったら、言葉をうまく話せていたら、どれほど幸せな人生だったんだろうって何度も何度も考えた。きっとみんなのようにもっと心からの笑いが絶えない人生だったんだろうって。
それでも。
サミーのことを、思い出す。
本当に『みんな』なのだろうか?
あの日、サミーだけは、笑っていなかった。
ふと視線を感じて、二階を見上げると、黒いもやもやが一匹、ぽつんと空中ブランコのステージに立っているのに気付いた。
「……サミー?」
もやもやは、ぶるるっと震えて、ぽーんぽーんと二回跳ねた。
「サミー!!」
僕は公演中であることも忘れて、二階ステージの階段をよじのぼる。まわりの歓声やざわめきなんて耳に入らない。今、行かないと。必死に短くて、太い手足を動かす。僕はブタだ、僕はブタだ、オリンピック選手より速く走れるブタなんだ。もうあの時のような後悔はしたくない。四肢を必死で動かして、息を切らしながら最後の一段に手をかける。
『人殺し』だと罵られたことを思い出す。
サミーからそう罵られても仕方ないと思う。見るのが、怖い自分がいた。はしごを持つ手が震えて、足もがくがくし始める。
それでも、サミーはもっと怖い思いをしたはずだ。
僕は、約束をしたはずだ。
自分の体に叱咤をし、最後の一団を登りきり、息を整えて、顔を上げた。
サミーは優しく微笑んでいた。細い足も、鳥の巣みたいな頭も、そばかすも、知的な灰色の瞳も、全部変わっていなくってあのときの、あの姿のままで。
サミーは約束を守ってくれたのだ。
今にもあふれそうな涙をぐっとこらえた。もう何かの拍子にこぼれ落ちそうなほど大きな涙が瞳に溜まる。ピエロが泣くだなんて、もってのほかだ。笑え、泣くな、どんなときも。ピエロは笑っていないといけない。
深くお辞儀をして、懐からバルーンを取り出す。ぷうっと空気を入れて、ぎゅうっとひねると六枚の花弁の花ができる。サミーはその様子をじっと眺めている。緑のバルーンの茎と葉をつくり、花に差し込んだ。僕はそれを持って、サミーとしっかり向き合う。
一歩踏み出すと、サミーは口を開いた。
「ボクの約束、守ってくれたんだね」
一粒ぽろりとこぼれると、僕の涙は止まらなかった。堰を切ったようにあふれだして、頬や顎を濡らしていく。
「気付いてくれるの、ここでずっと待ってたんだよ、ジョージ」
僕は約束なんか守れなかった。人の生では、ピエロにすらなれなかった。今回だって気づけなくて、ずいぶん待たせたみたいだし、今までずっと人々にバカにされ、笑われること、笑うことでごまかし、何より友一人の命も救えないような情けない男だった。でも。
誰に笑われても良かった。
ただ、君の笑う顔がもう一度見たかった。
バルーンの花を差し出すと、サミーは両手でそれを受け取った。サミーの瞳からもたくさん透明の雫がこぼれる。サミーの涙がバルーンの花にぽつん落ちると、葉っぱがひとつ、パンッとはじけて、中からザクロからもらった花飾りが出てきた。ボクはサミーの髪に花飾りをつける。しくしく泣いていたサミーの顔が、ふわりとほころんだ。それは、あの時咲いた満開の桜のようで。
「かわいい」
「女の子だったんだね、あの……」
「それを言いたくて、ここまで来た。ジョージ、ありがとう。ボクはこの生を後悔などしていない。だから、死んでも謝るようなマネはしてくれるなよ?」
「うん」
「……一緒に、行くかい?」
そう言うと、サミーは手を出した。きっとこの手を取れば、天国に行けるのだろう。
僕は、その手を取ろうとした、けど、やめた。
「僕は、全てを見届けてから行こうと思う。不甲斐ないピエロの最後の役割だ」
「それじゃ、あっちでキミの喜劇を見届けるのが、これからのボクの役割というわけだね」
サミーの体が、白く輝きだし、きらきらとまばゆい光の粒がこぼれる。ふわりとサミーの体が浮いて、足の方から天に吸い込まれていく。帰る時間が来たのだ。サミーは瞳に涙を浮かべながらも楽しそうに笑い、僕の頬に両手を当てた。
「ジョージ」
「サミー、サミー、ありがとう」
サミーの手にそっと手を重ねる。
二度目のお別れは、辛い。けれど、また会えるのだから。
「友よ、どうかキミは今のキミのままで」
額にサミーの唇が落とされた。そこからは、サミーは目も開けられないほどのまばゆい光の集まりとなって、先ほどまでの光景が嘘のように跡形もなく消えてしまった。
一瞬の静寂の後、一人の観客を満足させた、これぞ愛だ、と盛り上がるファントムの賞賛の声とわれんばかりの黒いモヤモヤの観客達の拍手があたりに鳴り響いて、しばらくやむことはなかった。
僕は、堂々と手を振りあげ、深いお辞儀をした。
終わりではない。ここから再び、始まるのだ。
【握る手、離す手、離れる手】
空中でブランコが大きく揺れる。
あたしは足でコウモリみたいにブランコにぶら下がりながら、勢いをどんどんつける。あたしとお兄さまは『腕』という確かなようで、あまりにも頼りない術で繋がっていた。お互いの球体関節がきしきしと音を立てている。お兄さまは重たい。でもお兄さまはあたしを持って長い時間ぶらさがれないし、あたしを何度もキャッチしてもらうのも、腕や足の関節に負担がかかってしまって壊れたりしちゃうから、あんまり出来ない。あたしはその気になれば直してもらえる。でもお兄さまはそうはいかない。なぜならあたしは合成樹脂の球体関節人形だけど、お兄さまは人形たちがみんな憧れるビスクの球体関節人形だから。
でも空中ブランコで大事なのは、重さや大きさじゃない。タイミングと呼吸なのだ。
あたしは勢いよくお兄さまを放り投げた。お兄さまは体を丸め、くるくると回って、あちらのスタンドに立つ。くるくるの金髪に、エメラルド色の瞳、細身の体に真っ白い陶器の肌。一方私は瞳の色や肌の色はお揃いだけれど、おかっぱにまっすぐ切りそろえられた黒髪だけはどうしても好きになれなかった。だってお兄さまとお揃いじゃないから。お兄さまは、とても、とてもきれい、そう、どのビスクドールの男の子よりきれいだった。
逆さまに写ったお兄さまがいくよ、と呟く。空気がかたまって、震えなくなって、ふたりだけの空間になったように感じる。お兄さまは勢いよく飛び出し、そらに浮いた。
天使が舞い降りた。見えない翼を背に持って。
いつもそう思うのだ。
お兄さまは、勢いよくブランコにぶら下がり、大きく漕いだ。同時にあたしは両手でブランコにぶら下がる。触れそうで、触れない。でも、きっと一番近いところ。そんなところでお兄さまは手を離して、あたしの足を掴んだ。とっさにあたしはバネのように体をしならせ、両手を離して、お兄さまが掴んでいたブランコに掴まる。そこからお兄さまはあたしのブランコに飛び移った。いよいよ最後の大技に入る。お兄さまが飛んで、ひねって、後ろ向きにくるくると回ったところをキャッチして、引っ張り上げるのだ。そこから決めポーズ。お兄さまは座って漕いで、あたしはブランコのロープに足をからめて色っぽいポーズ。
あたしは再び、コウモリの体勢になり、逆さまに揺れる世界にとけ込む。お兄さまはブランコにしっかり掴まっている。けど、あたしの心の準備に時間を使うとお兄さまの体に負担がかかる。あたしはしっかり両腕を伸ばした。合図だ。
お兄さまは、そらに飛び上がった。