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東京府魔女奇譚  作者: 矢州宮 墨
8/9

襲撃、そして深淵の娘:Ⅴ/そして一ヶ月後の夜明け

 深い闇。その中に私はたたずんでいた。いつからここにいるのか、ここに来てどれくらい経つのかもわからない。そういえばアビスは逃げられただろうか。私はアビスを助けるため、あの不気味な霧に立ち向かって……そして敗北した。ああ、本当に情けない。私はただひたすらに無力だった。私の拳が敵に届くことはなく、私は背後から胸を貫かれたのだ。

 あれはどう考えても致命傷で、実際に私はその直後に意識を失った。そして気づけばこの闇の中に居た。あの世の存在について真剣に考えたことはなかったが、もしかするとここがそうなのかもしれない。あるいはここは現実世界との狭間の世界かもしれない。


 夜の世界。とりあえず私はこの世界をそう呼ぶことにした。真っ暗で冷たい空間。時折どこからか湿った風が吹いてくる。あたりを照らすのはほんの少しの星明りだけ。空には月も太陽も無く、どれだけ時間が経とうと星の位置は変わらない。

 この一人ぼっちの世界ではひたすらに時間を持て余す。なんとなく探索してみたが、見つけられたのは大きな湖だけ。水面は鏡のように空を映しているだけで、風が吹かない限りそれが乱れることはなかった。湖の中で何かが動く気配もない。

 故郷のことを考えたこともあったが、長くは続かなかった。記憶が混濁しているわけではなかった。単に気が進まなかっただけなのだ。時として心の風景を幻視することもあったが、それはさほど重要な問題ではなかった。この世界そのものが現実離れしているように思えたからだ。


 私はいつものように湖を眺めていた。なんとなく心が落ち着くような気がして、飽きもせず眺めていた。

 その時、突然星がきらめき始めた。一つ、また一つと星の光が揺れる。その光景に思わず息を呑む。本当に、美しい光景だった。この光景をもっと見ていたかった。目に、心に焼き付けておきたかった。

 だけど、私の心は何かを求めていた。それはきらめく星の光よりもっと輝かしいもの。もっと美しいもの。師匠と、そしてアビスと過ごした日常。それは何よりも大切な……私の宝物だ。それに気づいた途端、世界に光が灯る。私は暖かい光に包まれていく。太陽だ。太陽が昇ったのだ。


 ああ、こんなにも大切なことを忘れていたなんて。私はまだ、あの日常の続きを望んでいるのだ。退屈でも、ありふれていても、私にとっては何よりも大切な日々。私はまた彼女たちに逢いたくて――――


◇◇◇◇◇


 まばゆい光に包まれ、意識が浮上する。体の感覚はひたすらに重くて、指先すら動かせない。私は気力を振り絞って、ゆっくりと瞳を開けた。

 見慣れた光景がそこにあった。ここは私と師匠の寝室で、私は自分のベッドに寝ている。部屋には朝日が差し込んていて、そのおかげで私の意識は徐々にはっきりとしていく。身体はまだ重いけれど、それでもどうにか動かせるようになってきた。


「うーん……」

隣のベッドから師匠の声。布団がもぞもぞとうごめいて、やがて師匠が這い出てきた。

「うぐぐ、朝か……」

「おはようございます、師匠」

私はどうにか言葉を紡ぎ出した。声は少しかすれていたけど、どうにか言葉になってくれた。

「ガレット……やっと目覚めたのね」

師匠は震える声でそう言った。その声は普段の彼女とは違っていて、それが余計に現実感を薄れさせるのだった。こんなことは初めてだ。あの師匠が涙を見せるなんて。

「あの……私は一体、どうなってしまったんですか」

あの時、あの路地裏で起きた出来事、それは決して夢などではないはずだ。今ここにいる私が何かの間違いで生き返ったのだとしても、事の顛末だけは聞いておきたかった。

「落ち着いて、ガレット。まずあなたは生きているわ。あの日、嫌な予感に突き動かされてね。慌てて駆けつけたら、あなたとアビスが倒れていたの」

「じゃあアイツは……あの黒い霧はどこへ……」

「そのへんはアビスから話してもらったほうがいいわね。アビス!」

師匠は階段に向かって呼びかける。程なくしてアビスがやってきた。

「ガレット、起きたのね。その、巻き込んでごめん。それから、ありがとう」

アビスはそう言って私を見つめた。私もアビスの瞳を見ていた。彼女の瞳を通してあの日の出来事を見ることができたなら、私はそうしていただろうか。

「いやいや、そんな。というか私こそ、結局アビスを守れなくて……」

いざアビスを目の前にすると、事の顛末を聞くのをためらってしまう。あの黒い霧がアビスを追ってきたのは間違いないだろう。私が思考の海に浸っていると、アビスが口を開いた。

「いいえ、確かにガレットは私を守ってくれた。……あの黒い霧は吸血鬼なの」

「え、吸血鬼って実在したんだ……」

「彼らがこっちの世界にやってくることはないんだけど、あいつは私を追ってきたの」

「つまりアビスも吸血鬼ってこと?」

「……私は吸血鬼と人間の混血なの。吸血鬼にとって人間は家畜のようなものだから、吸血鬼が人を愛することはないんだけど……私の父親は違ったみたい」

アビスはどこか儚げな表情を浮かべた。

「私は父に守られながら、人間として育てられたの。だけど父はもうこの世にはいない。だから私はもう向こうでは生きていけない。それでこっち側に逃げてきたの。その……信じられないかもしれないけど」

「ううん、信じるよ。えっと、私が倒れたあとはどうなったの?」

普通はそう簡単に信じられる話でもない。だけど私はそれを信じるのだった。

「あの後、私はあいつと戦ったの。でも途中で気を失ってしまった」

「で、私が駆けつけたときには二人が倒れているだけで他には誰もいなかったのよね」

と師匠が話をまとめる。


「ところで師匠、私はどうやって生還したんですかね?」

目覚めてからずっと気になっていた疑問である。

「ああ、それね。いわゆる自然治癒というやつよ」

きっと師匠は冗談を言っているのだ、と思っていたがどうやら違うらしい。

「本当ですか、それは」

「ガレットは保険証とか持ってないでしょ、というか確か不法移民ってやつよねあなた」

「言われてみればそうでしたね。いや、そうじゃなくてですね、普通の人間ならあんな深手を負って生き延びることなんて……」

そこまで話して私は気づいた。

「私が師匠の使い魔だったから助かったってことですか」

「そういうこと。どうやら私の治癒能力がそっちにも影響してるみたいなの。でも目覚めるまでこんなに時間がかかるとは思わなかったわ。傷自体はすぐに治ったんだけど」

「え、私そんなに寝てたんですか?」

「だいたい一ヶ月ってところかしらね」

「なんと……」


 道理で体に違和感があるはずだ。錆びついた機械のような感覚は一ヶ月という時間の重さなのかもしれない。今となってはあの暗闇に居たのも一瞬の出来事に思えてくる。意識の上では過ぎ去った時間は極限まで圧縮されていた。私が眠っているあいだもこの世界は休まず回っていたと思うと、時間という概念が本当に不思議なものに思えてくるのだった。

「とりあえずこれでも飲んで落ち着くといいわ」

いつの間にか師匠が麦茶を持ってきていた。麦茶の冷たさが、だんだんと私に現実感を取り戻させる。私はそれを飲みながら、この一ヶ月間の出来事についてあれこれ質問するのだった。


◇◇◇◇◇


 この一ヶ月間の出来事。まずアビスがこの家を住処にすることになった。私の代わりにあれこれ働いてくれたらしい。まあほとんど師匠の雑用だけど。それから師匠のパソコン周りの設備が新しくなった。師匠が言うには少し前の時代に戻っているらしいけど私にはよく分からない。おかげで店のスペースにケーブルが這い回るようになった。あとはそう、そこらじゅうをドローンが飛び回った日があったとか。ドローンは何かを探している様子で、噂によればそれは逃げ出したアンドロイドを捜索するためということだった。


 新都と違い東京は時が緩やかに流れている。心地よい停滞を好む者はこの街に残り、そうでない者は新都に移ったために、この二つの都市間における自発的な断絶は強化されていった。というのが私の教養による認識であり、どうやらそれは概ねその通りのようだった。師匠が言うにはネットワークにおいても類似の傾向にあるらしく、すべてを一箇所に集めようという時代は遠く過去のものとなっている。

 何にせよ平和な日常が続いていたらしい。でもアビスが言うには師匠は毎日オロオロしていたらしく、師匠にとっては気が休まらない期間だったのかもしれない。そして例の魔術師殺しは一度も姿を現さず、不気味な沈黙を保っていた。私としてはこのまま姿を消してほしい。師匠の……私たちの日常を乱されたくはない。


 だけどその願いは程なくして消え去ることになる。夏の激しい雨の日に、魔術師殺しが再び姿を現したのだった。


                      ―終―

このエピソードはここで終わり。

小説自体はまだ続きます。

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