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東京府魔女奇譚  作者: 矢州宮 墨
7/9

襲撃、そして深淵の娘:Ⅳ/血の衝動

 アビスと名乗った少女はしばらくの間この家に滞在することになった。居候である。彼女はすぐに出て行くと言っていたのだが、師匠が引き止めたのだ。もっとも、彼女は行く宛が無いと言っていたので私も引き止めるつもりだったのだが……。

 そんなわけでこの家が賑やかになってから一週間ほど経った。ここ最近、師匠は珍しく忙しそうにしている。ネットサーフィンの傍ら電話をかけたり、あるいは地下の書庫に一日中入り浸ったりしている。私はまだ立ち入ったことがない。なんでも迂闊に入ると迷って出られなくなると言っていた。隣にある倉庫でさえあの広さだ。それ以上となれば本当に迷ってしまうかもしれない。


 日が傾き始めた頃、師匠が地下から戻ってきた。また書庫にこもっていたんだろう。私は居間のソファでアビスと一緒に横になっていた。アビスの肌はちょっとひんやりしている。寝心地がいいので暇な時はこのソファが私たちの定位置になっていた。

「二人とも、また寝てるの?」

呆れ気味な師匠の声が背後から聞こえる。

「私は、起きてる」

隣でアビスが答える。

「私も起きてますよー」

そう、これはただ横になってアビスにひっついていただけなのだ。私は体を起こし、師匠に向き直る。師匠には言わなければいけないことがある。

「師匠! このところ実に暇です。何かやることないですか?」

「あら、ちょうどよかった。じゃあ今から買い物、行ってきてくれる?」

「確かにそろそろ食材が底を尽きそうでしたね。よーし、行ってきますぜ」

「ねえガレット、ちょっと待って」

勢い良く出ていこうとしたとき、アビスに呼び止められた。

「私も連れて行ってくれない?」

「んん? いいけど、どうして?」

「私を拾ってくれたお礼に、何か手伝いたくて」

「わかった。じゃあ一緒に行こう。それじゃ、行ってきますね、師匠」

「ええ、気をつけて。買ってくるものは任せるわ。どうせ今日の食事当番はあなただし」


◇◇◇◇◇


 あれから今日で一週間、か。ガレットとアビスを見送ったあと、私は一人あの日のことを思い出していた。あの日、私は魔術師殺しのラムダと戦い、その帰りにアビスを拾ってきたのだ。

 アビスの素性は相変わらず謎だが、ガレットとは仲良くやっているみたいだし、この家においておく分には何ら問題ない。強いて言うならちょっと食費がかさむくらいだろう。幸い今はそれなりに資金があるからしばらくは大丈夫だと思う。とは言え長期的なことを考えるともう少し欲しいところだ。

「やっぱりあいつを捕まえなきゃダメか……」

なんて一人愚痴ってみる。ラムダと戦ったあと、すぐに結界を張ったから当面の安全は確保されている。しかしいつかは見破られてしまうだろう。金銭的な話を抜きにしても、降りかかる火の粉は払わなければ。

 ラムダを捕まえるための策をあれこれ考えていると、電話が鳴った。きっとオフィーリアからだろう。

「もしもし」

『ヴァネッサか。あれから連絡がないから心配でな。あれから何かあったか?』

やはりかけてきたのはオフィーリアだ。

「いいえ。そっちは?」

『相変わらず情報はつかめないままだ。お前との一件以来、奴は行方をくらませている』

「そっちの組織でも見失ったってこと?」

『常に監視をつけるのは不可能だ。我々にできるのは奴の魔術の痕跡を追うことだけ……と言ってもそれもそろそろ限界だがな。まあ近いうちに腕の立つやつを一人派遣する予定だ。どうにかなるだろう』

心配ではあるが、今はとりあえず彼女を信用するしかないようだ。

「そう、ならいいけど……と、そうだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

『む? なんだ?』

「実はちょっと変わった女の子を拾ったんだけどね……」

『ほう……変わった趣味だな、見ず知らずの他人を拾うなど』

「別に趣味で拾ってるわけじゃないってば。で、その女の子、どうも普通の人間じゃなさそうなのよね」

『何だと?』

私は彼女の特徴についてざっと説明した。

「……というわけよ」

『確かに普通ではないな。だが私とて何もかも知っているわけではない。残念だが心当たりは皆無だ』

「そう……」

『気になるというなら調べてやってもいいぞ』

「うーん……」

そこまでして彼女のことを知る必要があるだろうか。いや、そもそも勝手にあれこれ詮索するのは私の主義に反する。

「いいえ、それは大丈夫よ」

『そうか、分かった。何かあればまた教えてくれ』


◇◇◇◇◇


 私とアビスは近所のスーパーまで買い出しに来ていた。

「……と、着いた着いた。さ、入りましょう」

「うん……」

店内に入ると、案の定オートコンソールは混雑していた。今は夕方。この時間帯、この店は決まって混んでいるのだ。仕方がないので私たちは店内を散策する羽目になった。

「ガレット、さっきの機械は何?」

「それってオートコンソールのこと? あれで買うものを選ぶとボットが全部持ってきてくれるの」

「初めて見た……」

「え、そうなの?」

あれは今時どこにでも置いてあるような代物なんだけどな。

「前に住んでたところには無かったから」

「なるほど。実は私も元々は他所から来たんだ。詳しくは言えないんだけど、ヨーロッパの方から……。実は半分家出みたいな感じでこっちまで来ちゃったんだ。あっ、これ師匠には内緒ね。あの人って変なところで真面目だから、家に送り返されちゃうかも」

「うん……わかった。……ところで、その、家に帰りたいって思ったりしない?」

「そうだなぁ……全く無いわけじゃないよ。でも向こうには当分帰らないと思う。好きに生きるって決めたのは自分だし、後悔はないから」

「そう……強いね、ガレットは」

「これでも師匠の弟子だからね。まあ弟子になってからまだ一ヶ月くらいだけどさ。で、アビスはどうなの?」

「私には、もう帰れる場所は……」

アビスは悲しげな表情で、今にも消え入りそうな声でそう言った。

「ごめん、私また聞いちゃいけないことを」

「いいの。いずれ話すことだから」


◇◇◇◇◇


 買い物が終わり、店を出ると辺りは薄暗かった。昼と夜の境界。夕暮れ。そしてまたの名を……

「逢魔が時、この国では今の時間帯をそう呼ぶらしいよ」

これは師匠の受け売りだ。もしかするとアビスのほうが詳しいかもしれない。

「それってどういう意味なの?」

よかった、アビスは知らないようだ。

「なんかね、怪しいやつに出会いそうな時間帯なんだってー。でも大丈夫、不審者が出ても私が居るから、安心してね」

「ありがとう……でもどうしてそんなに、私を大切にしてくれるの? 私はただの……」

「だって、アビスは私の友達だからね」

心からの笑顔とともに私はそう言って歩き出した。

 帰り道、辺りに人気はなく、私とアビスの足音だけが響いていた。それは私たちが細い路地に差し掛かったときのこと。私は何か異様な気配を感じた。そこには静寂を纏った暗闇があった。冷たく不気味な風が路地を撫でた時、気配の主が姿を現した。

「何……あれ……」

現れたのは黒い霧。どこから湧いてきたのか、気づいたときにはそこに在った。霧はやがて人のような形をとった。輪郭は少しぼやけていて、頭部には赤い光が二つ。赤い双眸が私たちを見つめている。

「ついに見つけたぞ、アビス」

霧は、確かにそう言った。低く威圧的な男の声だ。

「そんな……どうして……」

アビスはとても怯えているように見えた。

「本来ならお前は家畜の身分に堕ちるところだが、俺の物になるというのなら助けてやろう。さあ、こっちへ来い」

「嫌……私は……」

「断るか。ならば力ずくで連れていくまでだ」

黒い霧が一歩踏み出す。

「ちょっと待ってよ。何者かは知らないけど、アビスを勝手に連れて行くなんて許さないから」

アビスをかばうように一歩踏み出す。アビスが嫌がっている以上、この蛮行を看過するわけにはいかない。

「逃げて! ガレット、そいつは……」

「なんとなく分かるよ、アビス。あれ、私の嫌いなタイプだ」


 私が家を飛び出したのは自由のため。束縛から解放されるためだった。もしかするとアビスも似たような境遇なのかもしれない。そんな思いが心に浮かんだ途端、私はあの霧に向かって走り出していた。

「待って、ガレット」

私は止まらない。

「だって、私たち友達だもんね」

アビスのために出来ることが、今の私にはある。そして行動するための力も。師匠の使い魔になったことで得た力。それを使うのは今しかない。

 思い切り地面を蹴り、霧に近づく。あれがどんなものかは分からないけれど、先に仕掛ければ勝機はあるかもしれない。

 あと少しで拳が届く距離。そこに差し掛かったとき、霧の中から黒く鋭い槍のようなものが現れ、一直線に突き進んできた。腹部を狙ったそれを、私は最低限の動きで躱す。肌を何かが掠める感触。だが問題ない。この疾走さえ止められなければ、あとは……。

私は地を蹴り、敵に飛びかかる。……そのつもりだった。

「な、に……?」

背後からの衝撃が私の動きを止めた。背中から胸にかけて走る激痛に、恐る恐る視線を落とす。躱したはずの物が私の胸から飛び出ていた。その鋭利な物体は鮮血に塗れていた。ああ、どうやら心臓を貫かれたらしい。手足の先から体温がなくなっていく感覚。目の前がどんどん暗くなっていく。周囲の音もよく聞こえない。ごうごうと、ノイズじみた音が頭に響く。雑音に混じって、アビスの叫び声が聞こえた気がした。

 アビスを守れなかった後悔の中、私の意識は途絶えた。


◇◇◇◇◇


 目の前で一つの命が失われていく。私を友達と呼んだ少女は背後から心臓を貫かれ、そのまま動かなくなった。彼女が躱したはずの槍はぐにゃりと軌道を変え、背後から彼女に襲いかかったのだ。黒い槍が引き抜かれ、地面に倒れ伏す彼女の周りに血溜まりができる。おびただしい流血がアスファルトを赤く染めていく。

「そんな……ガレット……」

私は眼前の光景を信じられない。いや、信じたくない。

「ふ、妙な力だとは思ったが所詮この程度か。実にあっけない」

霧が凝集し、姿を変えた。青い肌と恐ろしい目。それは吸血鬼の本当の姿だった。

「キース、やはりあなたなのね」

「ほう、名前を覚えていてくれたとは。さあ、今度こそ来てもらおう。どのみち混血のお前には選択の自由など無いのだから」

そうだ、私には選択肢など無い……吸血鬼たちが支配する地下世界を去ったあの日から。自由を求めたあの日から。だから、地下に戻る選択肢など何処にも無い。

「戻らない。地下にはもう二度と……」

だけどこの状況であいつから逃れる方法があるだろうか。私には、あいつと戦うための力は無い。


 ああ、それにしても体が熱い。本当は恐怖に震えているはずなのに。私の視線、意識はガレットの体から流れる赤い液体に引き寄せられてしまう。

「ほう、混血とは言えやはり半分はこちら側というわけだな。もしやそれを見るのは初めてか? それこそが我々の糧。忌まわしき人間の血液だ」

なぜだ、なぜこんなにも体が血を求めるのだろう。しかもこれはガレットの……たった一人の友達のもの。

「どうして……なの……」

どうにか疑問を口にする。そうしなければ衝動のまま動いてしまう。

「さあな。我々はそういう存在なのだ。通常であれば血に慣れることで衝動をコントロール出来るようになるのだが……ふん、貴様の父親はむしろ人間として育てたようだな」

言葉は聞こえている。だがまるで内容が理解出来ない。


 視界が、赤に染まる。周囲に充ちる血の匂いに理性を奪われてしまう。

「さあ、飲むがいい。その衝動に抗うことなど不可能なのだから」

ああ、本当にその通りだ。私の体は一歩ずつ彼女に近づいている。意志の力など存在しないかのように。意識が明瞭であるにも関わらず、私は肉体を操ることができない。血の衝動だけが私の体を動かしているのだ。

 ついに私は、彼女の胸の傷に口をつけた。彼女の亡骸を抱き寄せるような格好で血を飲む。まだ温かい液体が私を満たしていく。

突如、景色が一変する。それまで見えていなかったもの、浮遊する無数の物体が私を取り囲んでいた。半透明で微弱な光を放つそれは輪郭が絶えず変化し、ゆらゆらと揺れていた。その光はきっと魂なのだと私の直感が告げていた。だけど魂なんて、本当に存在するのだろうか。あらゆる方向から声がする。複数の笑い声と、囁くような声に意識を飲まれる。それはこの上なく不快で残酷な時間だった。


ようやく意識が戻る。私はふらふらと立ち上がり、キースに相対した。

「もう満足か。ならば来い、我々の国へ。地下世界こそがお前の居場所。人間として生きることなど出来ないのだから」

「いいえ、地下には戻らない」

私は決意とともにキースを睨む。

「あくまで自由を望むということか。残念だがそれは叶わぬ願いだ」

どこからか現れた黒い槍をキースが掴む。

「多少の傷は我慢してもらうぞ」

幾度となく繰り出される槍に手足を切り裂かれる。しかし私は痛みを押しつぶすように一歩ずつキースに近づいていく。自分の身体がどれほどの傷を受けているのか、それは全くわからない。だが、この身体が動く限り……この思いが続く限り、止まるわけにはいかない。

「貴様、なぜ止まらない」

怒りのこもった声が響く。

 もちろんそれはガレットの仇を討つため。この命を犠牲にしてでも成し遂げなければ。私が彼女のために出来ることは、もうそれしか残っていないのだから。

「うっかり殺してしまうかもしれないが、この際それも悪くない。興が削がれてきたところだからな」

そう言いながらキースが槍を構える。その目には明らかな殺意が込められていた。身体の中心を貫かんとする一撃が繰り出される。……遅い、と思った。まるで時間そのものが停滞したかのようにゆっくりとした動き。私の意識だけが時間を駆け抜けている、奇妙な感覚。今まで誰かと戦ったことなんてなかった。だが今の私には戦うための力が備わっているようだ。

 繰り出される槍を右手で掴み、軌道を逸らしながらこちら側に引き寄せた。一瞬でキースとの間が狭まる。

「な、に……」

キースの心臓目掛け、思い切り左手を突き出す。信じられないくらいあっさりと、私の左腕はキースの体を貫いた。直後、私はその左腕を引き抜く。純血の吸血鬼は、たぶんこれくらいじゃ死なない。もう一撃食らわせる必要がある。次はどこを狙おうか。


 しかし、私の身体は突如として力を失った。視界が黒一色になり、意識が揺らぐ。虚脱感が私を襲う。もう少しで仕留められるというのに。

 再びあの笑い声が聞こえる。何かを嘲笑う声が響く中、私は意識を失った。


◇◇◇◇◇


 キースと呼ばれた男は、ただ呆然と立ち尽くしていた。胸の風穴からは止めどなく液体が流れ出している。目の前には自身に傷を負わせた混血の少女が倒れている。彼女を殺すはずが、逆に殺されかけていた。人間であれば間違いなく致命的な傷を負いながらもその男は確かに生きていた。

「何が起きたというのだ。この私が、ここまでの傷を負うなど」

すべては一瞬の出来事であった。友人の仇を討つため果敢に立ち向かった少女は攻撃を躱し、男の胸を貫いたのだ。

「だが、まあいい。今のうちに地下へ連れて行くだけのこと」

その時、少女に触れようとする男の背後に一つの影が忍び寄っていた。


「見つけましたよ、キース」

影がゆっくりと語りかける。優しく、品の良さそうな男の声で。

「その声は……グレイ」

「ええ。それにしても無様ですね、そこまで追い詰められるとは」

キースが影に向き直る。

「油断しただけだ。それより彼女を連れ帰るのを手伝ってくれないか」

「では彼女はまだ……」

「ああ、生きているとも。勝手に気絶したのだよ」

僅かな間があった。それはグレイが行動を起こすのに十分な時間だった。

「では、お別れです」

グレイが手をかざすと、一瞬でキースの身体が炎に包まれる。それは青い炎。地獄から顕現したかのようなおぞましい炎がキースの身体を焼き尽くしていく。グレイの行動には一瞬の迷いもなかった。

「あまり荒事は好まないんですがね。これであの人の遺言は達成されたでしょう」

あくまで静かにグレイは呟く。その呟きに応えるものは誰もいなかった。キースの身体は単なる黒い灰に成り果て、原型すらとどめていなかったのだ。


 グレイは少女に触れようとして、思いとどまった。微かな物音を聞いたからである。

「誰かが近づいてきている……? ふむ、目的は果たしたので退散しても良いでしょう。さらば深淵の娘、どうか幸せを見つけられますよう……」

グレイは深々と一礼し、闇に溶けるように姿を消した。


このエピソードはもう少しだけ続きます。

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