襲撃、そして深淵の娘:Ⅲ/アビス
師匠、それなんですか。不法投棄されたアンドロイドか何かですかね。師匠が帰ってくるなり、矢継ぎ早にそんなことを訊いてしまった。
「いやいや人間だよ、たぶん」
師匠が冗談を言っているようには見えない。だが少女の形をしたそれは、なんか肌が青白いのである。
「ホントですか? 血色めちゃくちゃ悪いですけど」
「大丈夫、ちゃんと生きてるぞ。ちょっとひんやりするけどね」
「え、ゾンビ?」
「まさか。映画やドラマじゃあるまいし。ともかくこの子が生きてるのは間違いない、そうよね?」
誰に聞いてるんだろ。
「ああ、生きてるよ」
と、師匠の方からスライムさんの声。と、師匠のペンダントの宝石が一瞬でいつものスライムの姿に戻った。
「おわ、秘密兵器ってそういうことだったんですね」
このスライムは師匠の知り合い兼ペットで、どんな形にもなれる不定形な生き物なのだ。昔は伝説的な魔術師だった、と本人は言っている。そしてこのスライムの動力源は生命力らしい。詳しくは知らないけれど、生きているものであれば例外なく生命力が宿っているんだとか。
「なるほど、その子には生命力とやらがあるわけですか」
「そういうことよ。とりあえずここに寝かせておきましょう」
師匠は彼女をソファに横たえると、スライムを連れて出ていった。たぶん倉庫にスライムをしまいに行ったのだろう。ついでにスライムに“餌やり”をしているのかも。
あのスライムには定期的に生命力をあげる必要があって、それは師匠と私とでかわりばんこにしているのだ。でもあの感触にはまだ慣れない。それをしたあとはちょっとした疲労感に見舞われる。と言っても日常生活に支障をきたす程ではないし、一晩寝れば元通りである。実に非科学的な概念ではあるが、あのスライム自体が非常識の塊だし、気にし始めたらきりがないのだ。なにせ私の周りには普通の人間が一人もいないのだから。
そしてソファで寝ている行き倒れの少女も、そういう非常識な存在なのかもしれない。髪の色は黒く、白い肌は微かに青みを帯びている。そして服装はやけに露出度が高い。でもそれは驚くほどのことじゃない。この前は街中でもっとすごいのを見かけたし。もしかしたら肌の色は特殊メイクなのかもしれない。起きたら聞いてみなきゃ。
◇◇◇◇◇
そうやって彼女を観察しているうちに、師匠が戻ってきた。
「ただいま。あ、スライムには餌やっといたから」
「了解です。それで、あの……その服、どうしたんです? 左腕がノースリーブになってますけど」
師匠が外から帰ってきて以来、気になっていたことを聞いてみた。と言うかさっきまではあの謎の少女に気を取られていたのだ。
「げ、しまった。そっか、服は元通りとはいかないものね」
「まさか、魔術師殺しと戦ってきたんですか……」
師匠は私の問いにどう答えるか、迷っているように見えた。
「ええ……。でも逃げられた。降りかかる火の粉は払っておきたかったんだけど」
「師匠……」
私は意識のどこかで、師匠がいなくなってしまうことを恐れているんだと思う。だから師匠が危ない目に遭うかもしれないということが、私の心から平静を失わせるんだ。
「でも安心して。この建物には結界を貼っておいたから、まず見つからないはずよ」
「なるほど、分かりました。じゃあ師匠はしばらく引きこもっていてください。買い物とかは全部私がやっておきますから」
「ちょっと、どうしてそうなるの!」
「狙われてるのが魔術師だけなら、それで全部解決ですよ」
だって私は魔術師じゃないのだから。
「むぅ、確かにそれはそうなんだけど……」
と、そんなやり取りをしているとき、ソファの少女が目覚めた。
少女はソファから起き上がり、ゆっくりとあたりを見回した。その緩慢な動作はある種の気品さを感じさせるものであり、例えば物語に登場するお姫様のように実在感のないものだった。……それはこの時代においてはもはや異質な存在だった。
そして彼女の外見はそれ以上に異質なものだった。
「その目は、一体……」
思わず疑問を口にする。彼女の目は、白目の部分が黒く、その中心でルビーのように赤い虹彩が輝いていた。奇妙な目、青白い肌。長身であり、全体として痩せて見える。彼女の外見の異質さ故か、見ていると少し怖い気持ちになる。しかし異質さの中の美しさに、私は魅了されてしまう。人形のような、あるいは彫刻のような、完成された美しさを感じる。
そうやって観察しているうちに、彼女が口を開いた。
「ここは、どこ?」
静かながらもはっきりとした口調。彼女はとても落ち着いているように見えた。あるいは感情を抑圧しているのか……。どちらにせよ質問には答えなければ。
「ここは師匠の……そこにいる人の家。そして古書店でもある。あなたが倒れてたから拾ってきたんだって」
詳しいことは師匠に聞いてね、といった感じで私は師匠の方を示す。
「ええ、私があなたを拾ってきたの。ヴァネッサって呼んでね。で、体調はどう?」
「それは問題ない……けどお腹が空いた」
なるほど、行き倒れというのは本当らしい。
「オッケー。じゃあ適当に作ってくるから待ってて」
そう言うと師匠はキッチンへと消えた。残される二人。
「ねえねえ、その目ってどうなってるの? 新しいカラコン?」
「……生まれつき」
「そうなんだ。初めて見たよ。それで、何があったの? このご時世に行き倒れなんて、きっと何かあったんでしょう?」
「それは……いいえ、言えない」
「そっか。でも気になるなぁ……」
好奇心は猫をも殺すらしいが、私は猫ではないのでたぶん大丈夫だろう。思い返せば持ち前の好奇心のせいで酷い目に遭ったことはあまり無い。
それから私は好奇心の赴くまま、彼女にいろいろな質問をした。好きな色、好きな食べ物、そしてどこから来たのか、などなど。結局のところ、彼女は見た目以外は普通の人間だという感じがした。そうなると外見の奇抜さがますます目立ってくる。でも最近はファッションがますます自由で個性的なものになってきている。だから深く考えるようなことでもないし、私が詮索するべきことではないような気がする。
彼女は常に落ち着いた様子で、自分自身の存在について迷いがないようだった。常に何かを探している私とは対照的なのだ。そんな彼女と友達になりたいと、私は心のどこかで思っていたのかもしれない。
「まあまあ、そのへんにしときなさいよ」
と師匠が戻ってきた。
「誰にでも秘密にしておくべきことはあるのよ」
確かにその通りである。
「ごめんね、ええっと……」
ここで私は、彼女の名を聞いていないことに気がついた。我ながら間抜けである。
「じゃあ最後に一つだけ。あなた、名前は?」
「私は、アビス」
アビス。綴りはAbyssだろうか。
そういえばさっきからいい香りがする……いや、待てよこの香りは……
「それはもしかしてミネストローネでは……?」
「ええ。インスタントでも十分美味しいからね」
なんということだ、それは私が密かに買ってきておいたもの。あとで食べようと思っていたのだが……いや、彼女のためならば仕方あるまい。
「さあ、お食べ。あ、お金なら心配しなくていいよ。これはただの善意だからね」
彼女は一瞬ためらったように見えたが、その後は黙々と料理を食べ始めた。私はなんとなく彼女の姿を眺めていた。
彼女はどこから来たのだろう。言葉は通じるみたいだけど、どこの出身なんだろうか。そもそも人間かどうかも怪しいし……。だけど、意思疎通ができるならきっと仲良くなれるはず。いつの間にか私はそんな希望を抱いていた。