台湾の健さん
台湾の南部最大の町高雄。
台湾では台北に次ぐこの都市には、「旗津」と呼ばれる細長い島が
すぐ沖合いに長く防波堤のように横たわる場所がある。
この島から高雄の街へは5分ほどでフェリーが行き来していた。
この島には、海鮮レストランが数軒立ち並ぶ場所であったが、その中の一軒で食事をした
グループの中にある野球帽をかぶりメガネをした50近くの男が、
仲間の男とそのフェリーの1Fで、駐車している車のをバックに、デッキから外を眺めていた。
「宝社長、どうしたのですか?今夜の従業員たちに振舞った魚料理の量が思ったより
少ないことを気になさっているのですか?」
「陳君、そんなことではない。まあ従業員のみんなと一緒に食事ができたが、
彼らは経営者と一緒じゃつまらなかったのだろう?そんなことより、ちょっと昔を思い出してな。
まだ会社をする前。そう日本にいたときの事だ」
宝の横で寄り添うようにいる陳にそういいながらメガネをかけ直した宝は、
改めて視線を遠くの海に向ける。
「俺は今こそ、高雄通商という会社の経営をしているが、昔日本の某都市にいたときは、
まあアルバイトというか日雇いの仕事ばかりしていた。イベントの縫いぐるみを着て、
子供たちと戯れたり、コンビニの品だし応援とかね。そのときに1年ばかり飲食店で社員として
ホールをしたことがあるんだ。
ふと横を見たらその飲食店のオーナー夫婦に似た人がいたので、そのときの事を思い出したのさ。
イベントに屋台を出店するということでトラックを運転したり、一緒に買い付けのために
海外にも同行したことがあったなあ」そういいながら、大きく口から息を吐く宝。
「宝社長!」陳はあきれた表情になって宝を睨みながら反論する。
「もう過去の事ではないですか?あなたは6年前に知り合ってからあっという間に
この高雄で顧客を獲得し、そして4年前に起業された。
そして1年半前には台湾の国籍までとられて、いまさら何を昔の出来事に拘って恐れているのですか!」
陳の大きな唾液が飛ぶような勢いある怒涛の反論に、
宝の表情が緩む「そうだな、陳君。私はある人の紹介でネットワークビジネスの仕事をすることになったが、他の人が苦労しているのを尻目に私はそれまでの様々な経験が生きたものだ。
伊達に殺虫剤メーカーや酒卸問屋。それから固形の調味料の売り子をしていた経験に加え、
趣味に関しては水彩画から海釣り、それからそうそう、
石垣島に遊びに行ったのがきっかけで思わずスクーバダイビングにも嵌ってしまった。
そのときには手元にほとんど貯金がなかったが、趣味や見聞を広く見ていた経験がこんな
ところで生きるとは思わなかったぜ」
先ほどとは違い宝のゆるりとした余裕のある口調に、ただうなづく陳。
「そして、君。陳伯黄君とつながったのがよかった。
日本でもそれなりに活動していたが、どうも昔の事があったからな。
そこで君に誘われるようにしてこの台湾・高雄に来て6年か・・・人生も終盤が見えた頃に
思い切ったものだ」
「社長!しかし、あっという間に台湾語を習得されたのには本当に驚きました」
「ハハッハハ!」宝が回りを気にせずに思わず大笑いをする。
「いやあ、そうだったなあ。まあもう後がないと思っていたから必死だったからこそできたんだなあ。でも、人生はいろいろあるなあ。そして、君の紹介で遅いものの若い台南出身の彼女とも結婚することが
でき、この地で骨をうずめる覚悟をしたんだなあ。
おれはもう、日本人の時の名前「宝田健一」ではなく
台湾国籍を取得した台湾名「宝健民として生きることにしたのだからね。
こういいながら、宝と陳の二人は、たった5分間のためまもなく到着するであろう小さな船旅を
高雄の街の夜景を見ながら佇むのだった。
(完)