表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

飛ばない蝶、役に立たない夢日記

作者: たかいせ


     0


 アラームの音だけを頼りにケータイを手探りで見つける。ケータイはベットと壁の隙間から床に落ちていた。

 ベッドは折り畳みができる細身の簡素なもので、敷いた布団は四方がはみ出してわずかに垂れて丸まっている。壁にぴったり寄せてしまえばいいのだが、以前それをやったときは寝返りの拍子に肘で強かに壁を打った。翌朝、トイレまでの道中、廊下で擦れ違った隣室の住人に「昨晩のはなんだったんですか」と訊ねられた。

 魚住寮は民間の学生寮で、大学が女子短大だった六十年前から学生の世話をしていたため、女子寮だった名残が散見される。その最たるはトイレの個室の数で、横に並んで五つあり、その端に見るからに増設したらしい小便器がひとつだけ立っている。清掃の都合か、個室は現在二つだけ解放されているのだが、小便器側の二つなので、個室と外とでかち合ったときはとても気まずい思いをさせられる。

 アラームを止め、ケータイを操作してルーシー・ローズの「シヴァー」を再生する。ささやくようなギターと女性の歌声がスピーカーから流れ出す。積極的に音楽を嗜まない人間がライブラリに登録しているただでさえ少ない楽曲の中でも、特に希少な洋楽だ。しかし、詞の意味は理解していなかった。英語がわからないというのはもちろん、日本語であっても、その曲が何を伝えたいのかを聴いてはいなかった。

 それから、自分宛にメールを打つ。宛先は普段使いのアドレスではなく、この用途のためだけに開設したものだ。


  冷房が効き過ぎている教室、沢渡先生の講義。

  西日が差している。

  男子が先生の前を横切って教室を出て行く。

  顔色が悪く、口元を手で隠している。


 初夏の暑くなり始めのこの時期は過冷房に陥っている教室が多く、季節の移り変わり、昼夜に加えて屋内外でも苛烈な気温差が生じ、体調を崩しやすい。それが原因だろうか。

 安直な推論を立てつつも感慨なく四行の文面を送信する。わざわざ就寝前に電源を落としたパソコンを起こしてまでメールの受信は確認しない。必要がない。今まで何通とあのアドレスへ宛てて発信ボタンを押してきたが、役にたったことなど一度もなかった。

 大抵のことは、過ぎてからわかるのだ。




     1


 始業三十分前、八時三十分の教室には既に十人程度が散漫と着席していた。朝食か、コンビニのビニール袋を机の上に菓子パンを啄む人。文庫本を読む人。耳にイヤホンを詰め込んで両手でスマートフォンをいじっている人。全員が女子だった。

 大学が四年制の共学へ移行して久しいが、日本文学を扱う学部では八割以上を女子が占めていた。特別困ることは今日なかったが、やはり気を遣い、遣われる。お互いに遠慮し合って気苦労しているようだった。

 中には恋仲にまで発展した組み合わせもいる。そういう話に疎いためか耳にしたことはなかったのだが、同級生の男女がひとつ傘の下で睦まじく寄り添っている後ろ姿を見たことはあった。誰と誰かは今もわからないままだ。知ったところで上手く配慮できる気もしないから、いっそ卒業まで知らさないで、と思う。

 教室の右後方寄りの適当な席に腰を下ろす。階段教室ではないので、あまり後ろ過ぎると黒板やスライドが前に座る人の後頭部に阻まれて見えなくなってしまう。三列ごとにでも多少の段差を作ってくれるだけでかなり助かるのだが、どうやら学生の苦悩は理解されないらしい。

 三月に竣工したこの新校舎、既存の校舎と同じくして階段教室は大講義室の一部屋のみという残念な結果となった。他にも掲示板の配置が悪い、吹き抜けの階段はスカートの中が下から見える、悪臭を撒き散らす似非分煙の喫煙所と、不満は多い。

 文庫の小説を開く。幼いときから書いてきた日記をキーに過去へ戻り、現在を変える物語。主人公が事象に気付き、二度目の過去改変を試みようと日記を読み出したところで栞を挿していた。まだ序盤だ。

 破かれるパンの包装、めくられる小説のページ、揺れて胸元や机の角で跳ねるイヤホンのコード。それらが気まずそうに、申し訳なさげに音を立てていた。

 読書に没頭し、どれくらいの時間が経ったか。小説では、幼馴染みの女の子の顔に消えない傷痕を負わせた過去を変え、普通の女の子として暮らす現代の彼女を主人公がおっかなびっくりランチに誘っていた。彼女が「ええ、いいわよ。もちろん」と返事をした丁度そのとき、教室にぞろぞろと人が入りだした。一限目に間に合うように到着するバスに乗り合わせていたのだろう。途端に教室が騒がしくなる。若気と活気のある喧騒だった。

 上げた目を活字に戻そうとする背中へ、硬く冷たい風が吹きつけた。鳥肌が立つ。教室の前方を見直すと、空調のコントロールパネルを操作する学生がいた。エアコンのファンが低く唸るのを聞いて、冷房がまだつけられていなかったことに気付いた。

 肌の一枚上で水が沁み渡るように凍えていくシャツの冷たさを感じながら、小説の見開きに栞を滑り込ませる。学生に続いてやって来た先生が最前列の机に配付資料を準備していた。直に一枚ずつ取って行くよう指示がされる。小説の表紙を伏せて机の右端に置き、席を立つ。

 誰かに取ってきてもらうのは好きじゃない。


 午前中の講義を終えると学生会館へ移動し、一階の食堂で昼食をとる。学生向けにしては高めの値段設定なので、週末、金曜日の昼だけ。それ以外の日は簡単に弁当を作る。面倒なときは炊飯器のご飯をラップに広げて冷まし、塩を振っただけの塩握りで済ます。小食で、カロリーの消費も少ない体質だから二つもあれば十分だ。食後におむすびを包んでいたラップを畳みながら、梅干しか塩昆布があればいいなと、昼時には薄まってしまう素っ気ない塩味が物足りなく、飽きもする。しかし、買い出しのスーパーで買い物かごを手にする頃には決まって忘れている。

 券売機の順番を待つ列は食堂の外のエントランスホールまで続いていて、長蛇の尻尾を目撃すると同時に眉間に皺が寄るのがわかった。食券が半券方式に変更されるにあたって券売機も入れ替えられ、二台あった機械は一台に減った。大方金の問題なのだろうが、二台でも捌き切れていなかった客はこれまで以上に長い時間、長い行列で待たされていた。

 券売機の前に来てから「今日は何を食べようか」と迷うのは面倒で、迷惑で、紙幣を機械に飲み込ませた指で真っ直ぐA定食のボタンを押す。日替わり定食も捨て難いが、油断すると食べられない量がトレイに乗せられてしまって困ることになる。

 吐き出された食券を取り、速やかに券売機の正面から避ける。キリトリ線のところで半分に折り、半券を手渡しに行く先の人集りを確かめて、また苛立つ。カウンターは券を渡す人とできた食事を受け取る人でごった返している。半券式になるまではもっとひどかった。同じメニューを頼んだ客のどちらが先かまるでわからなかった。それで揉めることもあったし、現場に立ち会ったこともある。他にも、自分が何を頼んだのか忘れて人のを持って行く人もいたとか。現在では半券に印字された番号で照合できるし、券売機の処理能力が落ちたことで従業員の負担が減ったのかもしれない。

「すみません」

 肩の、どちらかというと腕の辺りをつつかれて振り返る。

 まず「高いな」と思った。その男子とは十、二十センチも背丈が違おうか。目線を合わせるのに首に目一杯角度をつけた。

 それから、次に抱いた感想が「ぱっとしない」だった。膝頭だけがやけに色落ちしたジーパンに、黒のパーカー。髪は自然の黒色で、特別いじってもいないようだ。目尻の下がった目は眠たげで、左には泣きぼくろが小さく認められた。大学という場所ではあまりいない格好なだけに、探そうとすると長身と相俟ってかえって見つけやすいかもしれない。

 彼は手のひらを上に向けて広げ、「お釣り」と単語だけを口唇をほとんど動かさないで言った。五二〇円分の硬貨七枚が乗っていた。

 新しい券売機は返却レバーを回さなければお釣りが出てこない。それを忘れて食券だけ取って離れてしまっていたのだ。

 千円マイナスA定食の損失は十分に大きな痛手。動揺と安堵の整理がつかないまま、とにかく礼を述べた。彼の手の上で硬貨たちはずっと小さく見えた。

 小銭を渡すと彼は券売機のほうへ振り返り、茫然と立ち止まり、最後尾へ足を向け直した。取り残された小銭を優先して、彼は自分の食券を買っていなかったらしい。彼が券売機の前から動いたことで後続は当然自分の順番が来たと判断する。親切だがちょっと抜けている男子だった。彼は何を食べるのだろう。

 さておき、手の中に握っているだけでは食券はA定食に変わらない。クーラーに対抗して熱を上げる食堂の一角へ足を踏み入れる覚悟を決め、半券を切った。


 食事には人の倍の時間が掛かる。だから、定食を食べ終わって白湯を貰いに立ったときには券売機の行列もカウンターの人集りも、駅前に陣取る街宣車ばりの騒音で駄弁を弄する茶髪のグループも跡形もなく消えていた。いや、茶髪たちは食器こそ返却口へ返したが、引いた椅子はそのままになっていた。

 湯飲みを両手で包み、陶器越しに白湯のぬくもりを感じる。手のひらに熱が移る。湯飲みに口を付け、慎重に傾けていく。空気とともにするりと唇の隙間を抜けた少量の白湯が舌の上を軽快に滑り、喉を落ち、後には柔らかな温度が残る。何度にも分けて一杯の白湯を飲み干した。

 午後の講義は一コマ開いて四限目に入っている。それが今日の最後の講義で、今週最後の講義になる。昼休憩は食事に費やしてしまうので、空きコマの九十分間を待たなくてはならない。課題があれば図書館へ行くこともあるが、今は抱えているものがない。

 両耳をイヤホンで塞ぎ、そのコードが繋がっている先のケータイから今朝と同じ「シヴァー」を再生する。イヤホンはケータイに同梱されていた物を使っている。詞にそうであるように音質にも無頓着でいるので、百均とまでは言わないが千円以上のイヤホンは今までに買ったことがない。拘るのはコードが長過ぎないことと密閉型でないことくらい。密閉型のイヤホンは頭が痛くなる。それに「この曲聴いてみて」と友人から差し出されたイヤホンにゴムのキャップが付いていると、耳に入れてもいいのかと、迷う。潔癖症でないにしろ、自分のことを綺麗だなんて、思っていないから。

 どこまでいったっけ。考えながら、小説を開く。

 主人公は現代で幼馴染みと恋人の関係になっていた。講義では隣の席に座り、食堂で一緒にランチを食べ、休日に水族館やカラオケでデートし、時には夜、肌を合わせる。円満な青春、何不自由ない学生生活。何よりも彼女の笑顔に、彼は至高の幸せを感じている。ところが……

 ページをめくる。

 ふと、顔を上げる。彼だ。長身に黒いパーカー。一目でわかった。丼を乗せたトレイを持っている。二階フロアにいたのだろうか。彼は返却口の水槽に丼と箸を浸け、そのとき、食器を洗っていた従業員の女性に一声掛けていた。ここからでは声は聞こえないが、彼の唇がわずかに動くのは見えた。読唇術に長けているわけでもなければ、彼の口の動きも小さい。しかし、この場面で掛ける言葉は限られている。「ごちそうさまでした」か「ありがとうございました」か。

 彼は今来た道を戻る。出入り口と返却口を真っ直ぐ結んだ線上を歩いている。

 ……彼は足を引き摺っていたか?

 引き返す彼の右足はぎこちなく、先に前へ出した左足を追うように動かされている。すぐに目に付く歪な動作だが、彼は取り忘れの小銭を渡して列の最後尾へ向かうときも、食器を下げに返却口へ来たときも、そのような歩き方はしていなかったはずだ。見間違い。それはない。あれほど体が傾いているものを見違えるなど。

 まあ、どうでもいいか。

 目下の関心は不格好に歩く彼ではなく、小説の中の彼にある。先程めくったページの先で何が彼を待ち受けているのか、活字から目を逸らしたままで知れはしない。

 目を向けなければ未来は誰にもわからないのだ。


 開け放たれた教室の引き戸から心太よろしく突き出されるクーラーの冷気は、まるでその形が目に見えるようだった。空気の固まりを肩で切り崩して室内に入り、続く人がいないことを確認してからドアを閉めた。開いていたから開けたままにする。そういう心理は日々のそこここで働いて、仕事の成果を残している。

 ちょっと迷って、冷房の温度を一度だけ上げた。野放しにしていた分を差し引いても、この部屋には必要なだけの冷気に満ちている。

 定位置まで教室を後退し、鞄を一先ず机の上に置き、畳まれている座面を引き下ろして座る。ペンケースとノートと、前回の講義で解説し残された資料を取り出して鞄を隣の座席へ移した。

 ケータイを閉じたまま横のボタンを押すと背面の小さな液晶パネルが点灯し、時刻が慎ましく表示される。ここから小説を読めないことはないが、一ページめくって終わり。残っていたのはそういう猶予だった。読むのは遅いほうだと思う。

 直に講義が始まった。沢渡先生は始めに必ず小咄をしてくれる。それは例えば若輩時代、今の研究分野にのめり込んだ切欠や発表した論文を学会で遠回しに否定された出来事。例えば小学生の我が子の行動や考えになるほど一理あると唸らされたこと。講義内容に爪の先ほども掠めないエピソードを適切な調子で話し、教室を和ませ、九十分の長丁場の導入を滑らかにしていた。

 沢渡先生は学生たちの緊張を解くと前回し損ねた資料の説明をさらりと済ませ、本日のメインテーマに移る。

 視線は前のまま、手元に開いたB6判のメモ帳にボールペンを走らせて板書や先生の発言の断片を書き留める。文字はおよそ蛇がのたうち絡まっている様で、紙面には余白がまばらに散っていて、箇条書きと呼ぶのも躊躇われる代物だった。メモを取った自分でさえたった一字の判読に労することがある。それでも、時間を置いてからでも読めるのであればメモとしては上出来だ。清書に綴り直すその日の夜まで保てばいい。

 がたん。

 物音は教室の左前方から。先生の口が止まったこともあって、言葉を追うペン持つ右手も一拍おいて止められて、そちらに目をやる余裕もできた。傾いてきた西日の差し込みに当たる左端、前から三番目。船漕ぐ櫂でもぶつけたか、腕を抱え肘をさするその男子は遠目に気恥ずかしそうだった。彼は席を立つ。

「冷房が強過ぎましたかね」

 先生がそう言い、彼がさすったのは冷えた体だったのだとわかる。彼は先生の前を横切って、冷房の温度を上げに行くものと思われた。しかし、実際に彼が取った行動は退室だった。教室の誰の目にも触れる教壇の前を彼は小走りで抜けて、口を手で覆い押さえていて、見えている頬は血の気が失せて真っ白だった。開けた引き戸は後ろ手にしっかりと閉められた。とにかく彼は、彼の姿を見えないところに早く持って行きたがっているようだった。

「大丈夫でしょうかね……。皆さん、寒かったり暑かったりしたら遠慮なく空調の設定を変えていいですからね」

 教室は一名の欠員をもって講義を再開した。彼一人がこの狭い空間、小さな集団からいなくなったところで何も変わらなかった。まるで、最初から彼みたいな人間などここにはいなかったというように、クーラーは冷たい風を吐き続けている。

 鳥肌が立った。

 メモ帳に書き留めた言葉が綻びなく縫い合わされてノートを作るように、記憶の欠片がかちりとはまる。

 ボールペンを繰る指は凍ったように痺れて動かなくなって、学期末に見返したノートはそこだけ剥落していた。


 講義はやはり、彼の途中退室に揺らがず「いい週末を過ごしてください」と定型句を添えて切り上げられた。休日へ向かって順次席を立つ同級生たち。この土日、課題に追われる者もいるのであろうが、一週分の講義を終えた得も言われぬ開放感だけは共通の喜びじゃないか。

 携帯電話をいじくって退室の流れが切れる中頃を見計らう。次の講義がないのをいいことに教室に留まり、一本後のバスの時間まで駄弁を尽くす女子のグループが快活に笑う声が人の減った空間によく響く。沢渡先生も教壇から下りた。携帯電話を閉じ、先生が出て行き、そして彼が出て行った戸を引く。そのとき、エアコンの温度表示を目の端で見た。あれから二度、下げられていた。

 彼はまだ構内にいるだろうか。急に体調を崩したのだから、養護室か。それともトイレか。

 チャイムが鳴る。五限目の始業を報せるものだ。構内の人の気配はとても希薄で、あちこちのスピーカーから発せられた音は収まる耳を見失って彷徨っている。

「こほっ」

 四方八方蛇行するチャイムを間を縫って小さな咳の音が耳に飛び込む。そちらには明かりのない教室だけ。戸は開けっ放しになっていた。

 首を突っ込む。廊下からは死角になっている教室の隅で、足を投げ出して床に座る彼がいた。膝頭だけという特徴あるジーパンの色落ち。黒色のパーカーは前のファスナーを全開にしている。同色で襟の開いたシャツ。腹の前で組んだ腕。呼吸で上下する薄い胸。鎖骨。茶色でも金色でもない短髪。

「大丈夫?」

 声を掛けても彼は顔を上げず、掠れた低い声だけが返ってくる。

「大丈夫です。ほっとけば落ち着くと思うので、ほっといてください」

「吐きそう?」

「ほっといて。大丈夫だから」

「でも、顔色凄く悪かったし……」

 遂に彼は表情を見せた。こちらを正視した。頬に多少の血の気は差していたが、それをもって大丈夫とは言い難い血色だった。

「なんなの。意外にしつこいね。いっつも一人でいるから、目の前で誰かが倒れても無視して放っておくタイプの人だと思ってたよ、喜来さんは」

 彼はえずき、また顔を伏せる。しゃがんで横から窺うと、歯軋り鳴るほどが食いしばった歯の隙間から呼気を多分に含む呻き声が漏れていた。

「我慢するより吐いたほうが楽になるかも」

 背中をさする。その手も彼は拒んだ。

「いいから」

「冷房がきつかったから」

「違う。元はといえば喜来さんが……」

 言い淀み、見えている彼の左側の口角が吊り上がる。その唇の端を引っ張っている釣り糸の先で棹を指しているのが苦痛と名の付くものではないと、痙攣する目蓋の下の瞳が物語っていた。

 彼はたっぷり勿体付けて歪んだ唇をほどき、震えた声で吐き出した。

「キライちゃんのせいだ」


 キライちゃん。

 名字に「ちゃん」を付ける、ただそれだけのことがこの場では大きな意味を持っていた。

 白は切れなかった。舌の根が固まって動かず、その間が事実と彼に知らしめる。彼の口から舌の先が小さく覗き、吊り上げていたほうの唇を舐めた。

「キライちゃん」

 駄目押しに、彼はその名前を呼んだ。

「コンタクトを付けるのは大学だけなのも、同級生の誰と誰が付き合ってるのか本当は気になっていることも、小説のベッドシーンを教室では飛ばして部屋に帰ってから読むのも、騒いでる茶髪のグループに死ねよって悪態ついてんのも、ツイッターのアカウントを二つ持ってることも、ツイートをメールで投稿してることも、それを日記にしてることも、俺は知ってるよ。キライちゃん」

「どうして」

 アカウントには鍵を、フォロー関係になければツイートは見られないように設定してあるはずなのに。ユーザー名だけでなく、そこでしか晒してないことまでどうして知られているのか。

 大したことじゃないと、彼は笑う。

「どうしてって。キライちゃんがフォローしてる時報ボット、動かしてるの俺だから」

 決まった時間に決まった文章を投稿するアカウント、ボット。私がフォローしていたのは一時間ごとに時刻を投稿するボットだった。プログラムで動くアカウントの向こうに生身の人間がいて、こちらのツイートを読んでいるなんて考えたことがなかった。

「でも、ツイートだけで私だと特定までできるものなの?」

「喜来さんかなってのは前から思ってた。決定的だったのは、まあ、学食で忘れてたお釣り、渡したでしょ」

 取り忘れていたお釣りを渡された。渡してくれた男子は列に並び直す羽目になった。その出来事を私は日記としてツイートした。それだけだった。

 そして、本当の問題はそちらではない。

 彼はスマートフォンを取り出して、ある画面を見せた。


  冷房が効き過ぎている教室、沢渡先生の講義。

  西日が差している。

  男子が先生の前を横切って教室を出て行く。

  顔色が悪く、口元を手で隠している。


 紛う方なし。

 私の、もう一つのアカウントのツイートだった。

「まさかこの男子が俺のことだとは思わなかったけど、凄いね。キライちゃんの夢日記」

 彼がスマートフォンの画面を指で撫でるとキライちゃんの、私の夢日記が一覧表示された。彼が凄いと賞賛する類の夢も、全く意味のない夢も、ちょっとくすりと笑ってしまう夢も、年頃なりのいやらしい夢も、私が書き留めてキライちゃんに呟かせた夢は全て彼の手中にあった。私の携帯電話の一回り二回りも大きいスマートフォンの液晶画面でずっと見られていたのだ。

 私は堪らなく恥ずかしくなって、それから羞恥を塗り潰すように怒りが溢れてきて、手が出た。大きな画面を難無く操作する彼の右手をスマートフォンごと叩く。持ち方が緩かったためか、スマートフォンは彼の指から外れてリノリウムの床に画面から落ち、いくらか滑って、止まった。

 彼の右手はスマートフォンを持っていた形のまま固まっていた。彼はスマートフォンを拾わずその手を下げ、腹を抱えるように両腕を交差させた。

「ひどいな、キライちゃん。画面割れてたらどうしようかね」

「ひどいのはそっちでしょ。どうして特定なんてことするんですか」

 全く悪気なく、平然と。

「面白いから」

 彼は即答した。

「子供が目の前のおもちゃで遊ぶのも、喜来さんが休憩時間に小説を読むのも、俺が暇なときにアカウントを特定するのも、大差ない。違う?」

 言い返せなかった。もっと冷静で、頭に血が上っていなければ、もしかしたら可能だったのかもしれない。けれどこのときの私は、彼を打ち負かすものは何一つ持ち合わせていなかった。

 彼がえずく。腹を抱えている腕がぎゅっと固くなり、握り締めた拳は震えていた。私はつい、また背中をさすろうと手を伸ばし、彼はその手首を払うのではなく、掴まえた。

 痛かった。

 私の手首を悠々と掴むことのできる手の大きさも、折られるかもしれないと危機感を抱かせられる力の強さも、肉に食い込む骨の硬さも。彼に触れるところから覆しようのない違いを押し付けられた。

「キライちゃんのせいだ」

 そう言ったかと思うと、手首を締め上げる痛みは一段と増し、肩から引っこ抜く勢いで彼は腕を引いた。膝を付けず、爪先立ちでしゃがんでいた私に踏ん張る力はなく、容易く引き倒された。落ち方がよかったおかげで幸いにも頭は打ち付けなった。代わりに痛めた肩に床は冷たかった。

 身体は動かなかった。痛みのためではない。右手首を床に押さえ付けて私を見下ろす彼が怖かったからだ。本当に、行動も、声も、出なくなるのだと私はそのときになって初めて知った。

 彼の左手が私の下腹をまさぐる。シャツの裾を捲り、硬い指が素肌に触れる。右手を右手で押さえられているため、私の左手は自由で、彼の右側面は無抵抗だった。頭ではそれが理解できた。動けなかった。

 彼の息は荒く、下腹に当てたれた手のひらは堪らなく熱く、そのうちの指の一本が曲がり、皮膚に爪が立てられた。脈打つように痛んだ。

 胃を絞り、胃液の一滴をも尽くすような声で彼は吐き出した。

「キライちゃんが何でもかんでも呟かなければ、俺が喜来さんの肩代わりをすることもなかった」

 服から左手を抜き、右手を離し、上体を起こした彼は。

 苦悶の表情だったのだ。




     2


 喜来さんの上から退ける。

 腹というよりは腰。その部分には鑿を槌で叩いて穿つような激痛が未だに続いているし、貧血の頭痛や耳鳴り、眩暈に動悸息切れ、果てには吐き気までもが絶えず襲ってくる。その上、喜来さんの声。気が狂いそうだった。

 喜来さんは床に倒れたまま動かなかった。動かないのではなく動けないのか、それはここの俺では知ることはできない。シャツの裾は捲れたままで、服の隙間から柔らかそうな肌が覗いている。いや、実際柔らかかった。触ったのだから、知っている。白い肌に一ヶ所、あかく小さな花びらが散っている。爪を立ててしまった痕だった。感情的に、衝動で動いてしまった。彼女の痛みを肩代わりして経験したことのない堪え難い痛みを抱えていたから。そんなものは言い訳にすらならない。悪いことをした。間違ったことをした。

 説明しなくてはならないだろう。


 一時間ごと、〇〇分に時刻をツイートするだけの時報ボットを作ったのは他に作っている人がいなかったから。実用性はない。ツイッターのタイムラインを閲覧できる状況ならば、パソコンであれケータイであれ、時間を見ることはできる。こんなアカウントをフォローする人はいないだろう。そう思っていた。

 風見鶏のアイコンのそのアカウントは予想を裏切って多くのユーザーからフォローされた。フォロワーはみるみる膨れ上がり、しかしツイッター本来のソーシャルネットワークからは外れたものとなっていた。

 どのような意図でフォローしたのか、ユーザーのツイートを覗いてみると「なんとなく」「鶏が可愛かったから」「面白いかと思って」と、案外大したことのない理由だった。本当に必要としていたのはごく一部で、そういう人がフォローしているのはこのボットだけだった。日記代わりにリアルタイムで投稿しているツイートが何時頃のものなのか把握するのに、タイムラインを区切る時報ツイートは役立っていたらしい。

 キライちゃんはフォロワーの一人だった。日常の何でもかんでもを書き込むものと、夢日記と。アカウントは二つあった。キライちゃんは所謂ツイッター廃人じみていて、タイムラインを開くと必ず彼女のツイートが流れていた。彼女といっても、このときはまだキライちゃんが喜来さんだと特定していなかったから、あくまで自称する性別を鵜呑みにしてのことだが。

 キライちゃんのツイートは自分用の日記にしては誰かに向けているような書き振りで、しかしその明確な誰かはどこにも見当たらなかった。無機質的でなく、大袈裟な言い回しや華美な表現を好み、創作実話のようなあざとさがそこかしこに散らばっていた。

 もう一人のキライちゃんは見た夢についてつぶやいていた。こちらは打って変わって簡単な言葉で坦々と文章を綴っていて、寝起きだからだろうか、ほとんどのツイートに誤字脱字があった。ミスがあっても彼女はそのツイートを削除して投稿し直したり、後からその間違いを正すツイートをしたり、そういうことはしていなかった。その無頓着さには夢日記に対する彼女の価値観が表れていた。

 キライちゃんの夢は現実になる。

 予知夢とか正夢とか、そういうものらしい。

 ただし、その範囲は限定的で、未来の自分の視点から経験することだけしか夢に見ることはできないそうだ。夢の中でテレビや新聞から未来を知るのは可能ではあるが、間接的であるため印象が薄く、夢から覚めるとたちまち忘れてしまう。大学の試験問題はともかく、宝くじの当選番号や為替と株の値動きなどはキライちゃんが関心を持っていないから接点がなく、可能性すらない。

 そして、予知夢は自由に見られるものでもない。あくまで偶発的に、街中で同級生が恋人と手を繋いで歩いている場面に出会すように、未来を覗き見る。見る夢の全部が全部正夢になるわけでもなく、そもそも夢を見ない夜もある。

 極めつけは予知夢だったということを、事が終わった後になってからキライちゃんは既視感によって知る。未来を知っていても手を出せないのなら、それは知らないのと同じじゃないか。

 だから、キライちゃんにとって夢に見る未来は役に立たなくて、無意味で、果てには無気力さえ湧き上がらせる。

 と、キライちゃんがつぶやいていた。

 彼女のツイートを本当に信じていたかというと、一滴も信じていなかった。正夢だったとしてもキライちゃんの夢の及ぶ範囲が彼女の周囲に限られる以上、俺にはその真偽を確かめる術はなかったのだ。

 未来予知を無しにしても他人の夢というのは面白い。突拍子がなく、飛び抜けて愉快だった。一番は他人事であるということだ。何せ夢というのはときに目覚めてからも尾を引く不愉快さや不気味さを伴ってくる。それが他人の夢日記となれば当人が体感する湿り気や臭気、痛みといったものは文章に閉じ込められて五感を震わせることもない。類い希なる表現力を以てすれば読む人を追体験に引きずり込むことも可能かもしれないが、幸か不幸かキライちゃんに一世を風靡するような輝かしい文才は備わっていなかった。それでなくとも、ツイッターのひとつの投稿は一四〇字までと決まっている。原稿用紙の半分にも満たない字数で人の心を揺り動かすというのはなかなか大変なことじゃないだろうか。

 ともあれ、キライちゃんは俺の作ったボットのフォロワーに、俺はキライちゃんのフォロワーになった。示し合わせたわけでなくとも俺たちは互いに干渉しなかった。元々どちらのキライちゃんも誰かにコメントを送る習慣がなかったのもあって、決まった時間に決まった文字列を自動で投稿し続けるアカウントに宛てて何かツイートをすることもなく、時報ボットは毎日同じツイートをし、キライちゃんは毎日馬鹿みたいな量のツイートをした。ボット越しにキライちゃんの生活や考えていることや夢を覗き見ているのに罪悪感を抱く反面、隠れていけないことをしているというのは強く興奮を引き起こさせた。

 それも今日までだ。


 今朝のことだった。

 キライちゃんはタイムラインにほとんど常駐していて、講義中のツイートは日常的にされていた。いつかの大学入試のカンニングの手口みたいに、机の下でケータイを操作しているのだろう。昔馴染みのガラケーのキーなら手元を見ずにメールを打つのはさほど難しくない。だから、キライちゃんが留守にしているのは電波の圏外か、充電切れか、寝ているときだ。

 今日一番のツイートは夢日記で、講義中に体調を崩して男子学生が退室するシチュエーションが端的に箇条書きめいた形式で書かれていた。

 それから、アカウントを変えて、一言。


  お腹痛い。


 その人は「キライちゃん」というキャラクターを前に立たせている自称女性で、ツイートだってどこまで本当のことなのかわからない。だから、日記も夢日記も全てフィクションとして扱って楽しませてもらってきた。けれど。

「どうしろってんだよ」

 布団の中で呟きを漏らした。

 カーテンを開けておいた窓から差し込む朝日が起き抜けの目に痛く刺さった。頭まで布団を被って全身が収まるよう無駄に長い脚をたたみ、スマートフォンの上で指を動かすことによって二度寝に抗っていたところだった。

 これが初めてではない。彼女のフォロワーになってから、彼女のツイートを見始めてから何度となく鉢合わせてきた。偏食の話も性癖の話も笑い話で済んでいたが、これだけは慣れない。慣れようがない。

 俺が男で、キライちゃんが女だから。

 学校で教えてもらって知っていても、実際に痛いということはまた別物だ。女の子は絶対にそういうところを見せない。それを俺は、ズルをして、キライちゃんの「痛い」を盗み知った。

 こればかりはどうしようもないことだと思う。わかっている。本来なら、俺にはどうしようもないことだったのだ。

 布団の下からずるりと這い出す。衣擦れ。シーツで削ぎ落とした気持ちだけが布団に残る。頬に押し付ける畳は気持ちよく冷たく、いぐさ色の空気が体の隙間を埋める。

 スマートフォンをスピーカーに繋げて音楽をかける。キライちゃんがよく聞くという「シヴァー」を。俺も英語はできるほうじゃないけれど、この曲の歌詞を訳してみたことがある。詩歌というのは厄介で、英語の教科書のようなきっちりした文章じゃないから翻訳は困難で、尚且つ付け焼き刃の英語力では太刀打ちできないニュアンスが含まれている。

 まあ、途中で放り投げた。大味のざっくりしたストーリーめいたものは汲み取ることができたが、そこまでだ。

 どうしてこんなことを始めたのだったのだろうかと、頭の中の日付を戻す。そうだ、キライちゃんがいつまでもわからないままにしているからだった。いつか教えてあげられたら、と。

「ストーカーみたいだ」

 独り言つ。

 違いない。そこが人の海だろうが電子の海だろうが、執拗に追い掛け回して相手のプライベートを蒐集するのはストーカーだ。あわよくばキライちゃんのリアルをも知り得たいと欲する気持ちが俺の中に確かにある。彼女が聴いている音楽も、読んでいる小説も、生理の周期も。しかも、全ての原因を彼女に押し付けている。

 ごん。

 不意に、壁の向こう側に何かがぶつかった。

 流している音楽に対する抗議ではない。スピーカーに繋いだといってもそれは充電を用を兼ねているだけで、窓ガラスが震えるほど大音量じゃないと聴けない趣向は持っていなし、「シヴァー」にはそぐわない。歌声は物の少ない伽藍度の部屋に幽かに広がっている。霞のように、消え入るように。厚い漆喰の壁は多少の生活音なら漏洩を防いでくれる。キーボードのタイプ音もボックスティッシュを引き抜く音ももちろん通さない。

 いやさ、大前提から間違っている。音が通るかどうかは問題にならない。隣人は騒音抗議のために壁を殴るという手段はとらない。

 以前、眠るに眠れずいつまでも起きていた夜深くに壁が叩かれたことがあった。身動き独り言のひとつもなく横になっていたので、思わぬことに真相が気になった。翌日訊ねると隣人は心底申し訳なさそうに「寝ぼけて壁にぶつかった」のだと言った。

 今回もそうなのだろうと結論づけて朝の支度に戻る。電気ケトルにペットボトルの水を足し、スイッチを入れる。冷凍庫から六枚切りの食パンを二枚取り出してトースターに入れる。タイマーは二分。水とパンが温まるまでに用を済まし、ざっと顔を洗う。沸いたばかりの湯でインスタントコーヒーをブラックで。食パンには何も塗らない。

 料理はあまりしないほうだ。苦手というほどでもない。ピーラーに頼らざるを得ないほど包丁の扱いが不得手ということもない。魚を三枚に下ろしたことはないけれど、その程度なら加工済み品でどうとでもなる。問題はその後、俺は煮るか炒めるかの二択になる。文字通り、全て鍋に突っ込むかフライパンに突っ込むかかでそれ以上凝ったことはしない。ちゃんと名前の付く料理といえば味噌汁か豚汁か、カレーかシチューか。残りは炒め物と鍋だ。

 朝食を平らげてコーヒーを淹れたマグカップを水を一杯飲む。季節の変わり目に服装に迷い、結局いつもの黒いパーカーを着る。ファッションというのはよくわからない。

 スピーカーからスマートフォンを取り上げ、充電完了の表示を見る。多少バッテリーが少なくても講義室の机の電源からでも充電はできるし、充電講義の空き時間には部屋に戻る。大学まで歩いて五分と掛からないのは便利だが、そのうち油断して遅刻しそうだ。

 部屋を出る。お隣はもう出たのだろうか。ふと考えながら。寮の屋根から出ると途端に暑さが増す。夏本番はまだ遠い。それでも、この時期が一番暑く感じる。

 大学前の道路を時速三〇キロを越えた原付が次々と駆け抜けていく。その切れ目を見て渡る。規模の大きい大学では自動車通学は当然で、自動車部などという高級車のオーナーの集いもあると聞くが、我が校では駐車場も満足になく、坂の上、山の中、交互通行が強いられる狭い道幅、立地の都合上原付バイクが好まれる。そうでなければバスか、自転車か、徒歩か。

 下界から遥々御苦労様です。


 金曜日は学生会館の食堂で昼食を食べる。普段は部屋に帰って、ソーセージと前日の夕食を作る際に余分に切って冷蔵庫にしまっておいたタマネギを炒めて、それでお終い。味気ない。最後の日くらい金を払って人の作ったご飯を食べても構わないだろ。

 二限目は時間きっちり講義をする先生だから券売機の順番を長々と待たなければならないが、まあ別に、といった感じ。スマートフォンひとつ手元にあれば暇を潰すのは容易い。ツイッターのタイムラインが流れる様を眺めていたり、アフリカオオコノハズクについて調べたり(実は猛禽の中でもミミズクが好きなんだ)、ワイヤレスのイヤホンで適当に曲を聞いたり。

 おっと。

 前に並んでいるのは寮のお隣さんだ。が、廊下で挨拶や小話を交わしはするが親しい仲でもないので声は掛けない。向こうが何かの拍子に振り返って俺に気付くことがあれば一言二言は話さなくてはならないだろうが、寮の外では他人も同然の振る舞いをとっている。なんとなく気不味いというか、面倒なのだ。お隣さんはあまり他人との付き合いをしないようで、見掛けるといつも一人でいる。だから、これでいいのだと思う。

 券売機の前でオトモダチとメニューを決めている人たちにはさすがに腹が立つ。タイムラインは流れるけど水じゃないから、いくら眺めても彼らの傍迷惑な行いは看過されない。油汚れみたいにしつこいのだ。

 お隣さんの順番がやってくる。人が何円の何を食べるのか、券売機へ向かう指を見ているのは携帯電話の画面を横から覗くのと同じ心地悪さがして、千円札が機械の中に消えたところで視線を足下に落とした。お隣さんの足はすぐに横へ動いて視界からいなくなった。早い。流れるような足運びだった。

 一歩前に出る。さて。食べるのが楽だから丼ものにするのは決めているが、毎週同じものというのも面白みに欠ける。下げていた視線を券売機に戻し、パーカーのポケットから硬貨を。と、硬貨の投入口の横に「520」の赤い光が点っている。すぐに見当がついた。前の人の釣り銭が残っているのだ。前の人、お隣さんだ。

 釣り銭の返却レバーを回し、からからからと音を立てて出て来た硬貨を握り込んで去った背中を探す。カウンターの人混みを前にして尻込みしているお隣さんはすぐに見つけられた。

「すみません」

 肩をそっと叩いて気付かせる。振り返ったお隣さんに手のひらの小銭を見せて、「お釣り」とだけ短く告げて渡す。小さい手だな。

 自分の食券を買うために券売機へ踵を返す。が、列は前に動き、券売機は別の客を相手にしていた。並び直す他にない。仕方ない、仕方ない。

 さっさと諦めて最後尾に向けて歩き出す。ジーパンの尻ポケットからスマートフォンを出してツイッターを開く。深夜ほどではないにしろ、この時間帯ならタイムラインの人口はそこそこ。流れも速い。もう一巡の暇くらいならどうにかやり過ごせるだろう。

 リアルタイムに更新されるタイムラインの中で、キライちゃんのツイートだけが一際色付いて見える。どれだけたくさんの人が同時に投稿しても、彼女のツイートだけは見落とすことがなかった。


  券売機が自動でお釣り出してくれんから

  取り忘れた!

  後ろの人が気付いて持ってきてくれたよ!

  でもその人券売機の列に並び直しだ!

  申し訳ない!


 全ての文末をエクスクラメーションマークで閉じた勢いのいい文章のその中身は、まるで人事ではなかった。そんな馬鹿な。だが、最後尾からではお隣さんの姿も、その手に持っているであろう携帯電話の形も見られない。こんな偶然があるか。スマホを持つ手にじんわりと汗が浮く。湿った指先はスマホの画面に引っ掛かり、タッチ入力は誤発する。タイムラインの一番上まで移動してキライちゃんの次のツイートを待つ。さっきのひとつで終わりかもしれない。それでも、もしかしたら。

 再び券売機の前に立つまで待っても、キライちゃんの次のツイート投下されなかった。


 あれからキライちゃんのツイートは途切れてしまったままだ。といっても、まだ一時間も経っていない。ツイッター廃人たる彼女の普段のペースからまるで電波の圏外にいるような錯覚さえもたらされている。

 気が気でなく、親子丼は口へ運ぶまでに箸から何度も丼に落ちた。鶏肉は舌にざらついて感じられ、味わう余裕もなく。

 余裕?

 違う。これは興奮だ、昂揚だ。汚らしく舌なめずりをする心の部分が、巣穴に逃げ込んだ獲物に顔でも尻尾でも早く出せと荒れる息を抑えて待ち伏せている。そういう気持ち。

 けれど、時間には限りがある。三限目は空いているからタイムラインを監視できたが、その次は講義がある。

 空の丼を乗せたトレイを手に、鞄を肩に掛けて席を立つ。だらだら動かなくてはならない。緩い螺旋の階段を一階に降りて、食器の返却口へ。丼を濯いで水槽に沈める。ちょうど返された食器を洗浄機に通している従業員のおばさんがいたので「ごちそうさまでした」と一声掛ける。実際に俺が美味しく食べられていたかどうかは関係ない。

「ありがとうございましたー」

 こちらに向くおばさんの右足が不自然に遅れてひょこりと動く。気のせいかと、思った。それでも。

 洗浄機に向き直るおばさんの右足はいたって軽快だった。

 膝かな。

 軋むような痛みに右足の関節が上手く動かない。こんなに痛くても表情に出さずに黙々と仕事をしているのか。仕事をしている社会人に比べれば学生なんて楽なもんだと、度々訪れるこういう機会に実感する。一日八時間、実態はそれ以上の時間を拘束され、欠かすこともできない社会人。課題はあれど、多数の自由時間に溢れた学生。サボタージュも自分次第。

 スマートフォンの時間割アプリで次の教室を確認する。時間割も予定も全て手のひら大の機械ひとつに収められている。これが壊れたりしたなくなると困ることは数え切れない。周囲の人のように手帳に乗り換えようにも買ってみると不便で仕方なかった。手に持って紙に文字を書くというのが得意ではないのだ。

 手癖でそのままツイッターを開く。そんな短時間のうちに変わるものか。しかし、いた。キライちゃんだ。


  お釣りを渡してくれたせいたかさんだ。

  さっき、右足引きずってたっけ?


 フロアを見渡す。壁際の一席。イヤホンを耳に入れたお隣さんが携帯電話を閉じ、文庫本に目を戻すところだった。

 俺はキライちゃんを見つけた。


 キライちゃんがお隣さんだとわかると、益々悪い気がした。俺が覗いていたのはプライベートは漆喰の壁一枚向こうの有り様だったわけだ。今まで読んできたツイートに肉が付き、生々しさが溢れ出す。

 怖じ気がつく。親密未満であれど寮内ではそこそこ気軽に言葉を交わす仲だった。しかしいざ知ってみると、これからどのような顔を突き合わせ、何からどのような調子で話し出せばいいのか、まったく見当がつかない。

 講義室の机に突っ伏して長く息を吐く。知れて良かったのか、悪かったのか。知りたがっていたのは確かだが、今は知るべきじゃなかったと胸の奥で後悔ばかりが喚き立っている。

 足音や話し声。そろそろ教室に学生が集まりだす頃だ。机の上にだれているのは醜態だろうか。まあ好んで晒すこともない。

 大きく伸びをして椅子に座り直す。体の凝りはほぐれても気は晴れないものだ。

 身震いが起きた。クーラーの寒さだけではない。前方の開けっ放しのドアにキライちゃんの姿があったからだ。学年はお隣さんのがひとつ上だが次のこの講義は被っていた。

 堪らず顔を背ける。西に傾いた太陽の熱が机の角に掛かっていた。


 じりじりと机に置いた腕に日差しが迫ってきていた。触れていなくても、室温自体は日向の面積が増えるにつれて上昇している。クーラーも仕事のしがいがあるだろう。

 いつもより昼食の時間が遅くなったこともあって余計に眠たい時間帯だった。ノートの隅は眠気を誤魔化す手遊びのイラストが増えていって、余白が埋まると今度はその上から適当にぐるぐる線を引いていった。紙の表面のシャーペンのメタリックな黒が光を反射していて、触ると指の腹に薄く色が移った。

 キライちゃんから俺の背中はどういうふうに見えているのだろう。

 先生が余所を向いているうちに資料の下にスマートフォンを滑り込ませ、ツイッターを開く。こんな姑息な手、教壇からは透けて見えているかもしれないが。


  冷房ちょっとキツい……。


 二つの目を突き抜けた彼女の言葉に脳は痺れ、溜め込み疲れた願望が堰を切って怒濤となり、一本通して守らなければならないはずの芯をへし折る。


 代わってあげたい。


 途端、下腹部、例えようのない激しい鈍痛。伴う頭痛、吐き気、眩暈。ひとときに。胃袋の中身をぶちまけようと喉の奥、胸の辺りが痙攣する。息を止め、唾を飲み下す。治まらない。

 繰り返し。

 繰り返し。

 繰り返し。

 我慢しきれないと悟る。近いのは前側のドア。先生の前を横切ることになるがそんなことはどうだっていい。早足に、出口へ。教室の前方を突っ切る異常、必然的にこの場の視線を全て受けることになる。構ってられない。横にスライドするドアを開けて通り、後ろ手に反対に引き戻す。慣性で後は閉まる。力一杯よりは静かなはずだ。少しだけ先まで歩く。教室のドアには覗き窓が付いている。離れなければ。

 講義に使われていない教室がある。入り、廊下から死角になる壁に向かって倒れる。ここなら大丈夫。こういう、単純なところほど見つからないものだ。襟元と腰のベルトを緩める。リノリウムの床は冷たい。吐き気は絶え間なく襲う。こみ上げる。出ない。上手く吐けない。

 繰り返し。

 繰り返し。

 繰り返し。

 そこに、喜来さんが来た。




     3


 ずくずくと腰は痛み続けていた。

 事の顛末を聞いた喜来さんは言葉をなくし、語り終えた後も次の言葉を待っているようだった。冗談だ、とか。嘘だよ、とか。そういうネタ明かしを待っているようだった。しかし、上手く話せていないことがあるかもしれないけれど、事実だ。

 言葉の代わりに彼女の腹の、俺が爪の痕を残した辺りを指差して、それから「代わってあげたい」と、そう願った。同時に、腹がちくりと痛んだ。ちょうど、まさしく彼女に残した赤い痕と同じ場所に、先に肩代わりしたものに比べれば蚊に刺されるよりも些細な痛みだった。

 彼女も気付いたようで、服をめくって一度隠した腹を確認した。彼女の予想に反して痕は変わらずそこにある。

「俺が肩代わりできるのは痛みだけだ。怪我そのものや、その原因までは代わってやれない。痛みが引くまでの気休めに過ぎない」

「こっちも?」

 彼女はもうひとつ下に手のひらを当てる。

「そっちも。痛くないだけ」

「難儀だ」

「難儀か」

「それって薬と変わらなくない? 結局やることはやらんといけんわけだし」

「……薬ってあれ、実際はどういうもんなの」

「痛み止め」

「ああ」

 それでも俺は代わってあげたいと願っただろう。どうしようもないことをどうにかする手段がここにあるのだから。

「まあともかく、これ、俺が預かるから。戻せないし」

「戻せないの?」

「無理。よくあるだろ。『大いなる力には大いなる責任が伴う』ってほど大したことじゃないけどさ、取り返しはつかないもんだ」

 痛みや吐き気は相変わらず身を締め付けているが、喜来さんと話しているうちに慣れてきていた。ここらで解散して、これからどうするかは彼女次第だ。

 壁を頼りに立ち上がる。膝が笑う。喜来さんのと、長い時間体勢を変えないで座り込んでいたのと、昼の学食のと。

「で、どうするの。俺のアカウントをブロックするかは喜来さん次第だけど。日記とか、夢とか、こういうこととか。知られて気持ちいいもんじゃないんでだろ。好きにしなよ」

「ブロック」

 喜来さんのつむじが真上にすっと上がってくる。寮で出会すときは意識しないが、随分と身長差があったんだな。そんなことを考えていた。痛みに鈍くなるにつれて思考がひとところに留められなくなって、目に付くものに次々と飛び移っていた。つむじが後ろに回って見えなくなると、一対の細い眉と一重で輪郭のくっきりした目が現れる。次いで小さな鼻の頭。唇が動く。

「ブロックは、しない、かな」

「どうして。さっきは特定されて怒ってたじゃないか」

「この場面もずっと前、夢に見たことがあるから。それがわかったら、どうでもよくなったの」

「喜来さんの夢日記を俺が都合よく使うかもしれない」

「それこそ無理でしょ。私の夢日記は役に立たないよ」

「どうかな。夢を見た本人には無理でも、他人なら未来を変えられるかもしれない」

「じゃあ、試すのはそっちの好きにしたら? 私にとっては本当にどうでもいいことなの。現実に起きた後じゃないと気付けないんだから」

 そう提案する喜来さんの表情は一言で言い表すのが難しい、おそらく笑顔の類で、彼女が何をしたいのか、俺にはわからなかった。

 何でもかんでも口から垂れ流すキライちゃんは単純明快で付き合いやすかった。表裏なく、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと言う。そういうキャラクターだった。

 その中の人は。

 喜来さんの性格や態度が悪いわけじゃない。いつも一人でいるのはコミュニケーションが不得手だからなのかとか、そういう予想に反してごく普通の人だった。正直、話しやすい人だと思った。

 問題は喜来さんにはない。

 俺が、キライちゃんと喜来さんを知っていることこそが問題なのだ。

 今はもう、喜来さんの後ろにキライちゃんが見える。心の機微に表情を揺らし、空気を震わせて声を発する喜来さんの本心は別のところにあるのだと思え、彼女の言葉を疑わずにはいられなかった。

 一八時、終業のチャイムが鳴る。

 俺たちは別れ、それぞれの歩幅で魚住寮へ帰った。

 何が本当かもわからないまま。




 彼女は昨晩も夢を見たらしい。




 朝、魚住寮の廊下で喜来さんと鉢合わせる。

 喜来さんは夢を記録した後に二度寝してしまったらしく、寝癖でいうことを聞かない髪を後ろで縛り、文庫本を鞄にしまいながらの早足だった。

 擦れ違い際に、いたずらに声を掛ける。

「おはようございます、キライちゃん」

 ばさり。

 本が落ち、コンクリ剥き出しの床を滑る。

 喜来さんの表情は至ってシンプルで。


「どうして」


 その感情は怯えだった。

 一歩前に進むと喜来さんは一歩引き下がった。腰を屈め、喜来さんが床に落とした小説を拾う。彼女のツイートで知っていた。時を遡り、過去を変え、未来を変える物語。誰かが幸せになる代わりに、誰かが割を食う物語。

 俺の場合。割を食うのは常に自分一人だ。誰かの痛みをこの身体に引き受ける。


 では、未来を夢見る代償は?


 誰かの「痛い」が腹の底で疼いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ