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法燈夜話

作者: windy cristal

 第一幕


    てんてん手鞠てん手鞠    手鞠の手がそれ飛んでった

    おもての行列なんじゃいな  紀州の殿様お国入り

    金紋先箱供揃え       お籠の側には髭奴


 ほおずき色の日が山に半分入ったころ。畦道、小川、吹く風も全て茜に染められ、東山の空をうっすら紫ににおわせていた。四方を山に囲まれて、昼間はうだるような熱気がたまっていたのも、夕暮れ時には涼風が里を下る。。

 なだらかな坂を上る途中、山のふもと近くに屋敷があった。集落からほんの少し離れたところにあって、山の影になりがちな場所のためか、まわりに田畑も少ない。

 その屋敷の小さな門のそばで少女が鞠をついていた。子犬の頭ほどある鞠で、歌にのせて地面を軽く跳ねる。


     毛槍をふりふり      ヤッコラサァのヤッコラサ


「もう中へお入り。日が暮れて暗くなってきましたよ」

 門の中から年寄りの声が少女を呼んだ。

「もう少しだけ。あとちょっとで帰っていらっしゃるから」

 少女は父の帰りを待っていた。父は学者で、金鎧山きんがいさんの調査結果を報告するため大学へ出かけていた。金鎧山とは、少女の家から半里ほど西の小さな山で、古墳だったそうだ。そこから採取されたものを、夜遅く行燈の明かりで父の膝上でながめるのが少女にとって楽しみだった。周辺の子供らと鞠つきをするよりもずっと楽しかった。

 父は少女に、いい子に待っていたらお土産をあげようと約束していたのだ。

 少女の頬にぽたりと一筋、雨粒が落ちた。空を見上げれば雲一つないのに雨が降ってきた。縁側から年寄りが外へ出てきて、少女を家の中へ入れようとする。

    とーん とーん

 何かで地を突く音がして、きっと父が帰ったのだと、年寄りの腕を振り払って思わず走り坂道に出た。

 坂を上ってきたのは番傘を掲げて白装束を身にまとう花嫁行列だった。

 金紋先箱、長持を担ぐ者たちはみな笠をかぶり顔は見えなかったが、身にまとうものは白装束で夕焼けに透いて黄金に輝くようだった。

 次に進むは壺装束の、侍女たちと思しき女性たちが大事そうに貝桶を抱えている。豪華な蒔絵が施され四方を朱色の組みひもで括り黒々と光っていた。

 そして従者に守られながら歩くのは、白無垢姿の綿帽子だった。懐剣の房飾りは前に長く垂れ、緞子どんすに浮かぶ疋田鈴が袖振るごとに玲瓏な音を立てるようだった。丹色にいろの唇は引き結ばれて、長い睫が頬に影を落とし、こちらを流目した瞳は真っ黒だった。

 うっすら、潮の香りがした気がした。

 一行は紫の闇を引き連れるようにして金鎧山を目指して進んでいった。

(お山へお嫁に行くのかしら……)

 少女は思わず手を伸ばしかけた。

「婆様」

 年寄りが駆け寄って少女の肩を抱き寄せ、兵児帯の結び目を軽くたたいて顔を上げた。しわが深く刻まれた顔に不安と安堵が入り混じっている。

「お前、今、門の前で姿が消えそうだったんだよ。……ああ、狐の嫁入り行列に巻き込まれそうだったんだよ」

 狐は子供の魂が大好きだから、幻に浮かれ出てきた魂をさらってしまうのだという。子供の帯の結び目をたたけば、魂は我に返って戻ってくると、年寄りは少女に語って聞かせた。

 坂道を上っていったはずの一行の姿は陽炎のように消えていた。


   第弐幕

 

 紺色の空には星が瞬き、葉にたまった雨粒とともに松林に降り注ぐ。その中を、従者が掲げるほおずき色の燈火がゆらゆら泳いで進む。木の匂いは一層濃くなり、吹く風も夜露を含んで冴えわたる。

 護衛が杖を打ち鳴らし、燈火につられ出てくる木霊を追い払う。ゆらりゆるりと山道を、白い蛇が這うように頂めざして嫁入り行列は歩んでいく。途中切り立った崖が一行の前に現れて、そこを水が伝い脈のようにうねっていた。

「姫様、金鎧山の中ほどまで来たようです。もうすぐでございますね」

 貝桶を抱えた侍女がやや息を弾ませながら綿帽子に言うと、腕が伸び白無垢が朱色に照らされ、細い指が崖に伝う水に触れた。

「海から離れてどれほど経ったのでしょう。今では糸ほどの気配しか感じませんが、代わりにあの方の霊気が強くなっていきます……。あの方は私を覚えていらっしゃるでしょうか?」

「海の一年は陸の三百年とか。心の碑に刻み込んでも、やがては時の雨風にさらされて消えてしまいます。海にあるものは永遠ですが、陸のそれは儚いものでございます」

 燈火の光でさえも取り込んでしまいそうな深い色の瞳が、綿帽子の内側から傍の侍女をまっすぐ見た。

「たしかに、海には滅ばぬ美しい宝がたくさんあります。けれど更科の秋の月、木曽路の木洩れ日の美しさは海にないものです。たとえ忘れていらっしゃっても、お前の手に抱えているものを見せれば、きっと心の奥から呼び覚まされるに違いありません」

「さようでございますか。しかし姫様、お忘れなさいますな。海神様からの使命を果たすために、陸へ上がったということを」

 視線を、念を押す侍女から岩に走る水に逸らした。

「わかっています。主である海神様の御慈悲をないがしろにできません。私の見張り役としてついてきたのだろうけど、お前、水がなくて苦しいでしょう」

「もったいないお言葉でございます。この体、海の泡沫あわといえど、姫様のお力ある限り、私は生きていられるのでございます」

 番傘が立ち止まり、草履の地をする音も止まった。

「到着いたしました」

 侍女が綿帽子にそうささやいた。すると霧のように綿帽子が消えて銀の瓔珞が揺れた。

 珊瑚の玉の見事な簪、鼈甲細工べっこうざいくのあでやかな簪が真珠の肌を照らしだす。白装束が道を開け、姫と侍女が進み出た。そこにはぽっかりと天空に向かって口を開け、闇を満たす池があった。向こう岸にぼんやりと青白い光が、蛍のように水辺を飛び跳ねている。

 狐火だ。飛び交う火が増えていきぼんやりと池の縁に影を作り、一人の青年があらわれた。

「……燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも……」

 姫は青年の姿をみて思わず口ずさんだ。向こう岸の影が動いた。

「誰だ。その歌を詠んだものは海へ沈んだ」

「その歌を船上で詠み、海底へ身を投げたとよでございます」

 姫がそう言うと、風が吹きわたり、木の葉を巻き上げ池の水面へ落とした。丸い狐火が形をゆがめて風になびく。

「まことに、あの豊姫とよひめなのか?」

 銀の瓔珞、懐剣の飾り房が揺れる。

「はい。海の底で暮らしても、若宮様の面影は色あせることなくこの心に……。おなつかしうございます」

 鞠ほどの大きさの狐火が青年の姿を照らし出す。

 青丹の鎧直垂に袴、脇楯には紫裾濃の縅のいでたちだった。簡素ながらもやんごとなき血を引く方の凛々しい面影はあのころのままであった。

 しかしその眼は疑いに満ちていた。

「海と陸をつなぐ道はすでに神代の時に閉ざされたはず。なぜいま陸に上がることができた?」

「わが主、海神様のお慈悲でございます。主様はわたくしを慰めるために御殿には極楽の音楽がやまず、風味絶佳の不老の食べ物を並ばせましたが、心は晴れませんでした。そんな私をみかねて、あるとき陸へ上がることを許す代わりに遣いを果たす命を下されたのです」

 今は海神の妻であっても、向こう岸にいるあの方の姿、声は千年の時を経ても変わらず、心が震えて止まらなかった。

 狐火が姫の方へふわふわ飛んできて、青白い炎の光が姫の黒髪を照らしだす。

「荒れ狂う海の中、波に飾られ渦に巻かれたその黒髪を、決して忘れることはない。そなたが身を投じてすでに千年経つ。生身の体を保つとは信じられん」

「海の一年は陸の三百年。不死の酒を口にしてこの体は滅ばず、あの時のままなのでございます」

「わが身は霊となって眷属の狐に守られながら生きておるのに、不思議なことだ。海神の寵愛を受けたそなたが携えてきた命とは何だ」

 姫はもどかしさを押し殺し、まっすぐ対岸を見据える。

「この山の水の流れを平野の大河につなげれば、山からの恵みを海へそそぐことができ、さらに海の恵みもこの里にもたらすことができるとお考えです。それをお願いに参りました」

 姫が侍女の持つ貝桶に手を触れた。朱の組紐をほどき中身を取り出すと、夜の山を一瞬昼のような明るさが包んだ。

 兜だった。金に輝く鍬形に赤の縅で縁取られた吹返しには立派な鋲が打たれている。しころには若宮の脇楯と同じ紫裾濃の縅で彩られていた。

「この法力兜ほうりきかぶとを覚えていらっしゃいますか? 嵐の静まった後、若宮様が兜の緒を緩めて浅瀬に投げて主様に捧げられたあの兜でございます。今はこうして輝きを増しております。これをお収めになれば、主様と主従の誓いを受入れたことになりましょう」

「海をあなどった、この愚か者を許してくださるというのか?」

 姫は微笑んだ。

「怒りは一時期の、今は恨んでもおりません。東方遠征のご活躍をお聞きになり、むしろ感心していらっしゃいました」

「海神は計り知れぬ深いお心をお持ちのようだ。その願いを承諾する前に、そなたが真に豊姫なのか、そしてあの法力兜なのかこの目で確かめたい」

「では、今お持ちいたしましょう」

 若宮が腕を伸ばすと狐火がいくつか姫のもとへふわりと飛んできて、姫を囲み池に進むよう促した。

法力兜を胸元で捧げ持ち、ゆっくり池の縁まで歩み出た。風が一陣吹き渡り、白無垢は鮮やかな色に変わる。牡丹、藤、萩に菊など四季の花に鶴の舞飛ぶ錦の打掛になった。池の水面に足を踏み入れると水輪が広がり、赤い裾が水面に触れたと思えば、ぱっと紅葉の散ったようである。姫の周りを狐火が飛び交い、足元を青白い光で照らしだす。一歩踏み出せば珊瑚の玉、二歩目には鼈甲の簪、三歩目に金糸銀糸を織り込んだ振袖が、露を含んで照り輝く。

 池の中ほどまで進むと、水面に映る姫の姿が揺らいだ。絢爛な帯は毒々しい光を放つ鱗となり、角隠しは牙をはやした蛇の頭に変わった。

 しかし次の一歩では、おぞましい怪物の姿は消え、麗しき姫の姿に戻っていたが、その瞬間を若宮は見逃さず太刀を抜き放った。

「その姿、豊姫にはあらず! 悪しき毒蛇め、豊姫の皮をかぶったところで、この鏡ヶ池の、真を映す力の前で我をだますことはできぬ! よくもだましたな!」

 若宮が怒りの形相で太刀を抜く姿を見て、姫は立ち止まった。狐火が姫のもとを飛び去って周りに闇が降りるも、兜の輝きが姫の見開かれた目に映る。

「そんな……。この池の霊験がまやかしなのです。穢れなき少女の目にも白無垢姿で映っていたというのに……どうか信じてくださいませ」

「ええいだまれ! 硫黄を吐き瘴気しょうきをまき散らす口から我が名を言うとは、虫唾が走る。我が墓の上を天津神あまつかみの涙が降り注ぎ池となった、この聖なる池を侮辱するとは言語道断。一刀両断してくれる!」

 たちどころに若宮の姿は大鎧に変わり、紫裾濃むらさきすそご大袖縅おおそでおどしが太刀を横に一閃振るえば、風が刃となって姫を襲った。

とっさに侍女が姫の前に立ちはだかったかと思えば、風刃に切り裂かれ泡沫となり、法力兜は風刃で姫の手から滑り落ち、池の中へ沈んだ。二度と侍女の姿に戻らぬ泡沫の塊を見て、姫の瞳は哀しみと怒りと驚きを湛え対岸を睨んだ。

「なぜ、なぜ覚えていらっしゃらないの? 若宮様に会える日を海の底より千年待ったというのに……。もう、あの時の若宮様ではいらっしゃらないのですか?」

「ええい、だまれだまれ! 法力兜を手に入れた今、毒蛇を成敗してくれる」

 若宮の頭上には、姫の手から滑り落ちた法力兜が輝いていた。

 金鵄より与えらえた、かぶるものを邪から守ると言われる兜。正当な主のもとに帰った今、若宮の力は東方遠征の時よりも増して見えた。

(私だけ若宮様のもとへ行けないなんて……)

 打掛が消え、闇を写し取ったような漆黒の地に染められ箔打ちの亀甲文様を浮き上がらせた引き振袖となった。姫神が金襴の懐剣を抜くと、反りのついた薙刀となった。

 石突で水面を打てば水柱がいくつも現れて、満天の星空はとたんに雷雲に隠され稲妻が走る。

「どうして、覚えていらっしゃらないの? 豊は若宮様を忘れずにいましたのに!」 

 対岸の若宮めがけて水柱が襲うも、太刀を一閃すれば糸束と同じで切り崩された。若宮が水面に獅子のごとく躍り出て、姫の首を狙った。

 きん、と薙刀と太刀が切り結び雷光で互いの顔が照らされた。青白い炎をまとった太刀が突き込まれたが、姫神は一撃を払ってよけた。その勢いで鎧の背を軸に身を反転させ肩を切り裂く。さらに薙刀を振りあげると、若宮の体が姫の懐へ飛び込むと同時に小太刀が閃めいた。姫はとっさに飛びのいて池のふちへ立つと、血珠が頬を伝った。赤い(しずく)は宝玉となりきらきらと足元に転がる。

「もう、覚えていらっしゃらないのなら仕方がありません」

 姫神は空を仰いだ。暗闇に殺気が渦巻き、触れた狐火はしぼんで消え、草木や木霊も枯れ腐った。轟音を響かせながら落ちる稲妻とともに、雨が竹槍を突き下ろすように降ってきた。砂や小石が雨水で跳ね返り、鏡ヶ池の水があふれて山道を流れ出す。清澄な泉から泥の激流となって崖を下り里の家や田畑を飲み込んでいった。

「おのれ里を滅ぼすつもりか!」

 怒号と同時に大鎧が動いて焔をまとった太刀が黒振袖に切り込み、刃に触れる雨粒を切りとばし振袖を裂かんとせまる。そのたびに薙刀の柄で受け止め流し打ち払い、火花を散らして金の亀甲文様と法力兜を輝かせる。

 間合いを取り睨み合い、半円を描き再び刃をかみあわせる、一瞬誤れば切り裂かれ塵芥になってしまうほど激しい討合はまるで舞のようである。強烈に刃と刃が斬り合って互いの顔がはっきり見えた。憎しみに燃えた若宮と、悲しみに心を沈めた姫神がいた。若宮が太刀を押し出し刀が光ると同時に、姫が横に一閃薙いだ。


  第参幕


 姫神は、青白い燐光を体中にまとわせうずくまる若宮の首に、薙刀をあてた。

「私には果たさねばならぬ命があります。しかし首をはねようにも腕が動きません……。やはり若宮様はあの若宮様なのです。切り捨てた魂が濁流にのまれ、海で哀れな海月となって浮かんでいるのは見るに堪えない。ならば代わりに武者の姿から大蛇に変じ、この川を鎮守なさる方がよいでしょう」

 姫は薙刀の切っ先を水面につけ切り裂いた。こぽり、と水が盛り上がって濁流の中を一筋清らかな流れが紛れた。

「鏡が池でお静まりくださいませ」

 姫がそういうと、若宮の口から断末魔の叫びが雷の咆哮に掻き消えた。燐光の塊となりはてた若宮の体がとぐろを巻く巨大な白蛇へと変わって雨粒に押し付けられるように池の中へ沈んでいった。

 雨が晴れ雷雲は消え去り、池の上には姫一人、右手に薙刀、左手にはあの法力兜を携えて立ち尽くしていた。

「若宮様、せめてさいごに私の名を呼んでいただきたかった」

頬に透明な筋が流れて真珠に水晶となり、刀にたまった赤い滴は柘榴石となって水底へ落ちていった。

 


第肆幕


 少女は夢を見ていた。雲のみならず畦道や家、すべて同じ色に染まっている。少女は黒いおかっぱ頭を風になびかせながら鞠つきをして待っていた。

 誰を待っているのか少女にはわからなかった。なぜ家の門の前で鞠つきをしているのかもわからない。そうだ、父からお土産をもらうんだった。

 ふと山を見ると、西の山のふもとから誰かが坂を下りてきた。亀甲文様の振袖の上に羽織るのは、四季の花々をちりばめ鶴の舞飛ぶ打掛だった。薙刀と兜を両手にそれぞれ携えて歩く姫が少女の前で立ち止まる。引き結ばれた口元、長い睫が頬に影を落とし、こちらを見る瞳には優しさの中に哀しさと疲労が入り混じっていた。不思議な姿を目の当たりにして、少女は振り返って婆をよぼうにも声が出ず、足は地に張り付いたままだった。

――これ、お嬢さん。海へ行く道を教えてくれませんか――

 少女はゆっくりと腕を伸ばして坂の下を指さした。しかし、指した先には紺碧の海が広がっており、田んぼも畦道も水の中に沈み、坂道はぷっつり途絶えていた。道の端をさざ波が打ち寄せている。姫はかがんで少女に微笑みかけた。

――そう。ではあなたの指した先に道を作り海へ帰ります。陸へ上がることはもうないでしょう――

「もう、ここへ戻ってこないのですか? お嫁へ行ったのではなかったのですか?」

――あなたにはやはり花嫁行列に見えたのね……。古い縁へたずねることがありましたが、向こうがお忘れになっていたので、戻ることにしたのです――

「ではここにいらしてください。一緒に鞠で遊べます」

姫の腕が伸びて少女の頭にそっと触れた。

――やさしい子。でも帰らなければなりません――

「なぜですか」

 首をかしげる少女の目に姫の姿が映りこむ。

――あまりに陸のことを忘れてしまったからです。私がいたということを、あなたに覚えておいてほしいのです。聞きいれてくれますか?――

 優しく微笑む姫の姿はとても美しかった。お雛様よりもずっとずっと輝いて美しかった。

――今、この里に川を作りました。今まで以上に田畑を潤すことでしょう。川には白蛇の主が住んでいて今は眠っています。しかしひとたび目を覚ませば濁流となり里を飲み込みます。眠りを覚まさぬよう、この薙刀を持って、里の八端はちたんを巡り川の主を鎮めるのです――

「姫様の代わりに?」

――そうです。八端に祠を設け、私の眷属をくさびとして祀ってありますが、時々海が恋しくて祠を離れてしまうでしょう。そのときこれを振るうのです。そうすれば再び封がされます。この川が海にそそぐとき、あなたの思いが海底にいる私のところまで届くでしょう。わかりましたね?――

 少女の前に差し出された薙刀は刃が大きく反っていて、東雲色に輝いていた。恐る恐る口金に触れるとひんやり冷たく、あたりの空気がぴんと張った気がした。少女はまっすぐ姫神の漆黒の目を見て大きくうなずいた。

「はい」

――ありがとう。任せましたよ。きっと、待っていますからね――

「では、待っているあいだ、この鞠をついていてください。姫様ならば、たくさんの鞠つきの歌をご存知でしょう?」

 姫神は鞠を受け取ると莞爾と笑みを浮かべ、立ち上がり少女のもとを離れた。道を下り、波打ち際に裾を濡らしながら海へ入っていく。打掛が波に揺られて、描かれた鶴がぱっと羽ばたいて飛び立つように見えた。少女は、姫の姿が海に沈んで見えなくなるまで、ずっと紺碧を見続けた。


   てんてん手鞠は殿様に   抱かれてはるばる旅をして

   紀州はよい国日の光    山のみかんになったげな

   赤い蜜柑になったげな   なったげな


             ――童謡 「鞠と殿さま」より――


学生時代に書き溜めたもののなかで、一つのお話として完結したものはほんの一握りでした。未完結の物語に終わりをつけることができないのなら、始まりをつけてあげようと、この話を書きました。帰り道を照らす法燈になるように。

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