水上の尋問
バジルに中身を喰い尽くされた大蜘蛛の胴体が、水上に置かれている。まだ残っていた脚は、折り畳まれた状態で蜘蛛の糸により固定されていた。
「浮くのか、こいつ」
ぽつりと、ハザマが呟く。
「浮かせるー」
「運ぶー」
「壊れにくいしー」
水妖使いの三人が、口々にそんなことをいう。
「ま……そっちはお前らが専門だから、任せるけどさ」
内心では「大丈夫かいな?」と疑問に思いながらも、ハザマは口ではそういっておいた。
「で、こっちはこっちでまた……」
中身を失って空になった小蜘蛛の殻が、いくつも折り重なって蜘蛛の糸によって固定され、巨大な繭状の物体を形作っていた。
「……シュールな光景だなあ……」
もちろん、中身の肉はハザマたちだけで喰らい尽くしたわけではなく、鍾乳洞内にいた蜘蛛やその他の動物たちが勝手に食べたのだった。
なにしろ、ルシアナが使役していた動物たちはかなりの数になる。その全員が糧を求めようとすれば、今回の戦いで命を失い、あるいは負傷して動きが悪くなった蜘蛛などは格好の獲物となる。
そんなわけで、牙や爪のあとがある蜘蛛の殻も大量に獲得した上、素早く荷造りを終わったのだった。
「……ハザマさん」
リンザが、声をかけてくる。
「蜘蛛たちに、燃料にするための乾いた枝を集めさせてもらえますか?」
「ああ、わかった」
ハザマはすぐにその通りに命じてみた。
小蜘蛛たちはちょこまかとした動きで、周囲の森の中に散っていく。
「この小蜘蛛は、連れて帰るんですか?」
「全部、は無理だろうが……少しは持って帰ろうかな、と思っている。
今のサイズなら、食わせるのにもそんなに苦労しないだろうし、なにより、便利だからな」
「便利、ですか?」
「用がないときは森の中にでも放って、番犬代わりにでもしておくさ」
「……なるほど。
うまく飼い慣らすことができれば、森の中の防備がさらに完璧なものになりますね」
なんだかんだいって、こいつが一番順応性が高いのかも知れないな、と、ハザマは思った。
「あとは……」
ハザマは、首を巡らせて、ある女を見据えた。
ハザマの視線に気づいた女が、「ひっ!」と小さな悲鳴をあげる。
「……心配しなくていいよ。
こっちが知りたい情報をすべて吐き出すまで、絶対に死にたくても死なせてあげないから」
トエスとイリーナが木の枝の上に固定していたカヌーを降ろす。
そして、小蜘蛛たちに運ばせて、大蜘蛛の死骸の上に持って行った。
「ろくに身動きのとれないカヌーの上より、あの上の方が落ち着くだろう」
と、ハザマがいったからだ。
リンザとエルシムが大蜘蛛の上の、比較的平らな部分に枯れ草をしきつめ、その上でくつろげる空間を作っていた。
ドゥ、トロワ、キャトルの三人は、川の中で水を跳ねあげてながら、なにやらはしゃいでいる。
聞けば、あの鍾乳洞の中から外に出た記憶がないというから、目にするものすべてが珍しいのだろう。
カヌーがすべて大蜘蛛の上に運びあげられたのを確認してから、トエスとイリーナも大蜘蛛の脚に結ばれた綱に手をかけて、大蜘蛛の上に登りはじめた。
他の者たちはすでに上にあがって、思い思いの格好でくつろいでいる。
再び衣服を得たルゥ・フェイは、また元通りのしなびた老人の格好になっていた。
「……質量保存の法則とか通用しねーのか、こっちは……」
とか、ハザマがぶつくさいっていたが、もちろん、こちらの世界の者にはその言葉の意味までは理解できない。
「おーい!
お前ら!
ぼちぼちこっちに乗って、出発してくれっ!」
ハザマが、まだ川で遊んでいる水妖使いの三人に声をかける。
「はーい」
「あいあーい」
「ほいさー」
それぞれに返答して、三人は俊敏な動作で大蜘蛛の上によじ登った。
一番年長で、とはいっても、せいぜい十六、七歳くらいの子がドゥ。
トエスやリンザと同年輩くらいの子が、トロワ。
十二、三歳くらいの子が、キャトル。
ただし、ハザマによると、「精神年齢は、下手するとそれよりも十歳くらいは低い」ということだった。
「出してくれ。
下流の方向に、おれが止めろというまで」
ハザマが合図をすると、水妖使いの子たちが軽く目を閉じ……そして大蜘蛛の死骸が、ゆっくりと動き出す。
最初のうちこそゆっくりだった動きは、すぐにぐんぐん加速していった。
来るときとは逆にに、流れに逆らわないかたちだったから、かなりの速度がでているようだった。
「こんな重いもん動かして、疲れないのか?」
ハザマが、水妖使いたちに訊いた。
「ぜんぜんー」
「これくらいー」
「眠りながらでもー」
水妖使いたちにとって、この程度の水の操作は、さほど負担がかかるものでもないらしかった。
「そんじゃあ、お待ちかねの尋問タイムといきましょうか」
ハザマは、そういってニタリと笑う。
「……その前に!」
エルシムはそういって、ハザマの耳たぶを摘んで引っ張った。
「お前様は、傷の手当てをしなくてはな」
「いろいろ訊きたいことはあるのだが……」
ガズリムは、例の女にいった。
「……まずは、おぬしの名を明らかにして貰わねばな」
「ルシアナと。
それ以外の名は、持ったことがありません」
その女は、今や、完全な諦観の中にいる。
「……ふむ。
そういわれてもな。
これからもその名を名乗っていくわけにもいくまいし……。
これを機会に、新たな名をつけてはどうか?」
「新たな名、ですか?」
「おぬしは、まだ若い」
ルゥ・フェイが、口を挟んでくる。
「これからも、前途には多くの苦難が待ち受けていよう。
自分の名前くらいは自分でつけておいた方が、のちのちにも励みになろう」
「……苦難、が……」
そういったっきり、女はしばらく絶句した。
女のすぐうしろでは、水妖使いたちが、きゃいきゃいいいながら、手頃な大きさの蜘蛛の脚に荒縄を巻いて「握り」を作っていた。
なんのことはない。
その女の尋問道具を作っている最中なのであった。
「そうですね……」
冷や汗を額に滲ませながら、女は、いう。
「それでは……これ以降は、ルアとお呼びください」
「ルシアナから音を引いたか」
「安易でしたか?
それなりの期間、ルシアナとして動いてきたのも紛れもない事実。
そのことを忘れたくはありません。
今も、ぽっかりと……半身を喪失したような心持ちでいます」
「そうか」
とのみ、ガズリムは口にした。
「それでは、まず訊ねる。
おぬしは、おれの母上のことをどれほどおぼえているのか?」
「わたし自身はまだルシアナには成っていないときのことですから、しかとはおぼえておりません。
しかし、ルシアナは克明に記憶していました。
風貌はもとより、体臭なども。
そしてわたしもいっとき、それを共有しておりました」
「あの戦いの最中に、おぬしが申したことも事実であるのか?」
「あなた様のご母堂がいっときあの鍾乳洞で虜となり、その容姿を見込まれて解放されたのは事実です。
解放されてからかなり経って、人づてに痕跡の残らない毒薬を所望してきたことも。
彼女とルシアナの間には、その容色をもっていずこかの要人に取り入るようにとの密約がございました。
そのことが、彼女をあの鍾乳洞から解放する条件だったのです……」
「……もういいっ!」
「……みよ。
何本か、中手骨がぽっきりと折れておるわ」
ハザマの手のひらを指先で探りながら、エルシムはそう診断した。
「きれいに折れているから、まだしも治療の施しようもあるのだが、これが砕けでもしていたら目も当てられんぞ」
「へいへい。
今後気をつけますー」
応じるハザマの口調は、棒読みに近かった。
「いいか?
他人事とではないのだぞ?」
エルシムは、半眼になってハザマを睨んだ。
「……帰ったら、殴打用のグローブでも作らせようかな……」
「それで気が済むのであれば、そうせい。
その前に、武器を使う前に拳を使う短絡的な思考の方を矯正した方が早いと思うがの。
どれ。
今、回復魔法をかける。
へんな風に繋がると面倒だから、この手をしばらく動かすなよ」
そういってから、エルシムはなにやら呪文を詠唱しはじめた。
「回復魔法って……確か!
ちょ、ちょっと待て!
まだ心の準備がっ!」
しかし、エルシムはハザマの手首をがっしりと掴んで固定しており、ハザマは逃げようがなかった。
「熱い! 痛い!」
エルシムが回復魔法の詠唱を終え、ハザマの悲鳴が周囲に響きわたる。
「熱い! 痛い! 熱い! 痛い! 熱い! 痛い! 熱い!」
「……むこうが少々騒がしいようだな」
ルゥ・フェイがいった。
「ガズリム殿の気はお済みか?
それでは、今度はわしが問わせて貰おうかの。
ルアとやら。
今のおぬしにどれほどルシアナであったときの記憶が残っているのかわからんのだが……わが牙の一族を捕らえたことはおぼえておるのか?」
「何代か前のわたしの時代にあったことでございますが……ルシアナは、おぼえておりました。
あそこにいる子どもたちが、その子孫にございます」
「なんのために、あのような無体な真似をしたのか?」
「そのときのルシアナは、たいそう魔法の研究に熱心でございました。
特に、人体実験に執心しており、多少のことでは壊れない人種としてあなた様の一族を渇望したようでございます」
「……そのようなことでっ!」
ギリ、と、ルゥ・フェイが奥歯を噛む。
「そのようなこと、なのでしょうか?
あなた様の一族のおかげで、珍しい実験をいく通りも試みることができ、成果もそれなりに……」
「……貴様!」
ルゥ・フェイが、吠える。
いつの間にか、発達した犬歯が二本、いきなり五十センチ以上も、延びた。
「人の命を、なんと心得る!」
「……落ち着け、ご老体」
ガズリムが、ルゥ・フェイの肩に手をかけて、制止した。
「こやつを噛み殺すのは、すべての尋問を終えてからにして貰おう」
「……ふん」
ルゥ・フェイはぶんぶんと首を左右に振って、延びすぎた牙を引っ込める。
「そうさの。
こやつには、もはや逃げ場がない。
焦ることもないかのう……」
「……酷ぇ目にあった……」
結局、ハザマが解放されたのは、エルシムが何度も回復魔法を唱えたあとのことであった。
「まだまだ、一応、仮にくっついただけということを忘れるな。
接続面の強度に不安があるから、重い持つことは無論禁止するが、それ以外にもしばらくはなにか掴んで運ぶなどの動作は控えるように」
「……おいおい。
それじゃあ、日常生活にも支障を来すレベルじゃないか」
「それでは、その間のお世話はわたしが致します」
いつの間にかハザマのすぐうしろに来ていたイリーナが、そう声をかけて来た。
「お約束、お忘れなきように」
「……お、おう」
少し気圧され気味のハザマが、掠れた声でそう応じる。
「そ、そうだな。
イリーナが男に慣れるための習熟訓練をかねれば、ちょうどいいか……」
「ルアという娘よ」
ガズリムは続ける。
「おぬしは……ルシアナとしての生活しか知らぬのだな」
「この身が物心ついたときには、すでにルシアナでありました」
「……ルゥ・フェイのご老体よ。
このような境遇であれば、善悪の区別はもとより、通常の倫理観もはぐくまれぬまま長じてたとしても仕方がないのではないのか?」
「虫の……蜘蛛の倫理で育てられたと、そういいなさるか?」
「それで誰かが救われるというはなしでもないのだが……この娘には、いや、歴代のルシアナの代弁者たちもだが……そのすべては、全員、蜘蛛の倫理で動いてきた。
その是非に疑問を抱くための契機さえ、与えられなかった。
こやつらは……そのような存在だ」
ルゥ・フェイは、低く、うなり声をあげる。
「承伏できぬ、か。
無理もない。
しかし、ルシアナの基幹である大蜘蛛はこのように死に絶えた今、不要となった破片にすぎないこのルアを裁いていったいなんの得になろう。
ご老人には……こういってはなんだが、すべてを失ったと思っていた御身には、思いがけず、こうして係累が遺されていた」
ガズリムは、首を振って水妖使いたちがいる方向をルゥ・フェイに指し示す。
「過去のことは過去のこととして……今後は、彼女らの未来を作ることに生きる甲斐を求めてはどうか」




