「魅了」の終焉
ハザマが両手持ちで構えているのは両刃の直剣で、いわゆるロングソードという種別の剣であった。ハザマの目測によれば、刃渡りは約八十センチほど。もちろん、交易により入手したドワーフ制の逸品である。
しかし、この世界でも最高水位に近いこの得物は、ハザマにとってはひどく頼りなく思えた。
なにせ目前に、体重でいえばハザマの十倍以上はあろうかという巨大な猛獣がいるのだ。
それでもハザマが取り乱さないでいられたのは、ひとえに現在進行形でバジルが刻々とその位階をあげていることと、その派生効果として、ハザマ自身も気分の高揚と、なんとなく全身に力が満ちてくる全能感とを味わっていたからである。
大蜘蛛ルシアナとバジルとの位階差はかなり著しかったらしく、刻一刻とバジルからハザマにむかって「力」が流れ込んでくる感覚があった。それこそ、バジルが大蜘蛛の肉を咀嚼して嚥下するそのたびに、ある種の「力」を簒奪しているのだろう。
そのおかげで……ハザマは、ひどく冷静でいられた。
気分の高揚もありがたいといえばありがたいが……それ以上に、見える、のだ。
目下の敵である、白いサーベルタイガーの動きを目で追うことができ、なおかつ、それに対応することも可能だった。
もちろん、以前のハザマであったなら、そんな超人じみた動体視力も反射神経も持ち合わせてはいなかった。
この世界に来る以前のハザマは、あくまで「どこにでもいる若者」のひとりに過ぎなかった。
これといった特技も特徴も持たない、有象無象の一員でしかない……と、ハザマ本人が、自認していた。
それが、今では……。
「……はっ。
ほっ。
ほっ」
敵の動きに応じて、ロングソードを突く。薙ぐ。
体を、かわす。
牽制し、翻弄する。
……ことが、自在にできるようになっていた。
至近距離にいるサーベルタイガーを相手に、である。
どのように考えても「異常」な事態といえたが、ハザマ自身は、自分の動きに対して特に疑問を感じてはいない。
むしろ、しごく冷静に、
「一度でも捕まったら、終わりだ。
それだけの体重差、膂力差がある相手だから。
だから、どこまでも、いつまでも避け続ける」
と、判断している。
むろん、「本当に自分の身が危ないとき」には、目前のサーベルタイガーに危害を加えることに躊躇するつもりもなかったのだが……このサーベルタイガーの正体が、実は萎びた小さな老人であることを知っているハザマとしては、本当に「ヤバい」事態にでもならない限り、積極的に傷つけるつもりもなかった。
時間。
今、ハザマは欲しているのは、なによりも「時間」なのだ。
バジルが大蜘蛛の血肉を喰らい尽くすまでの時間を、ハザマは、なによりも欲していた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
ハザマが体感するところによれば、随分と長いように思えたのだが……その実、せいぜい、わずか数分といったところでしかないのに違いない。
とにかく、ハザマが白いサーベルタイガーと相対してしばらくしてから、ある異変が起こった。
ハザマは、視界の隅に動く影を関知して、そちらにも若干の注意をむける。
サーベルタイガーの動きを牽制し、攻撃を避けつつ、であるから、多少気になることがあっても、そちらにばかり気を取られるわけにはいかないのだが……。
「……ぅおっ!」
奇声を発して、ハザマは、すんでのところで頭上から振り下ろされた大蜘蛛の脚を避けた。
脚の動きは、速度こそ十分にあったもの、単調で進路を予想しやすく……明らかに、ハザマを狙った動きではなく……もっと無秩序な、乱暴な動きの動線上に、たまたまハザマの体があった、といった態であった。
「おっ……とぉっ!」
サーベルタイガーの相手をしながら、ハザマは、次々と振り下ろされる大蜘蛛の脚を、ことごとく避ける。
大蜘蛛の様子が、おかしい。
何本か欠けた脚をすべて動かし、しかし、なにか明確な意志を欠いて、無秩序に、出鱈目に動かしているようにしか見えなかった。
その証拠に、周囲にいた小蜘蛛たちを蹴散らし踏みつぶしていたし、背に乗っていた「代弁者」の女も、悲鳴をあげてあさっての方向に振り落とされてしまった。
明らかに……錯乱した動きであった。
「へへ。
バジルが、確実に浸食しているってことかね……」
嘲りを含んでそう吐き捨てて、ハザマは大蜘蛛から距離を取った。
いくら大きくても、こんな単調な動きである限り、ハザマ自身が大蜘蛛から直接被害を受ける心配はない。
この大蜘蛛の錯乱も……おそらくは、バジルが大蜘蛛の神経かなにかをさんざん喰らい散らかした結果であろう、と、ハザマは予測する。
大蜘蛛の巨体から、ハザマはバジルが敵を喰らい尽くすまでにしばらく時間がかかると予測、覚悟もしていたのだが……バジル自身も刻々と位階をあげて速度にブーストをかけているらしい。
ハザマにしてみれば、実に慶賀すべき傾向である。
「……うっ」
洞窟衆の娘たちによって意識を奪われた、ブシャラヒム、ガズリム、アジャスの三人のうち、最初に意識を取り戻したのは、ガグラダ族のアジャスだった。
三人の中で一番軽装であったアジャスが最初に意識を取り戻したのは、皮肉といえば皮肉な事態ではあったが……ただ単純に、「打ちどころが良かった」程度のことが原因であろう。
ともあれ、ガグラダ族のアジャスは、薄目を開け……目の前にあるものがいったい何なのか、しばらく理解ができなかった。
全長一メートル以上もある大きさの生きている蜘蛛を、真下から見る機会はそうそうないはずだから、はじめて「それ」を目の当たりにしたアジャスが、しばらく正体に気づかなかったのも無理はない。
数秒、目と口をぽかんと開け、ようやく頭に血が巡っていくらかはマシな思考を回復すると同時に、アジャスは恥も外聞もなく、
「……うわぁぁぁ!」
と、大声を出して跳ね起きた。
もちろん、アジャスの上に乗っていた小蜘蛛も、その動作によって振り払われる。
アジャスはすぐそばの地面に落ちていた自分の山刀を見つけると素早くそれを拾い上げ、動揺のままに手近にいた大蜘蛛にむかって何度となく振り下ろす。
しばらく、八つ当たり気味に小蜘蛛たちに鬱憤をむけたあと、ふと我に帰れば、周囲の様子がひどく違って見えることに気づいた。
まず、小蜘蛛たちの動きに、一貫性がなくなっている。
アジャスが意識を失う前は、魔法使いたちという明確な目標にむかって集まってきていたのだが……今の小蜘蛛だちは、無秩序に蠢いているだけだった。
次に、大蜘蛛が……これも、どう見ても、意味もなく脚をバタつかせ、あっちからこっちへ、こっちからあっちへと無駄に歩き回っている。
その巨体ゆえ、下手に近づいて踏みつぶされたりしたらひとたまりもないのだろうが……逆にいえば、近づきさえしなければなんの被害も被ることはない……ということでもある。
「……いやぁぁぁ!」
どこか遠くから、そんな、悲痛な響きを伴った女の声が聞こえる。
「ルシアナがぁ!
ルシアナの声が、どんどん遠く、小さくなっていくぅ!」
アジャスには、その意味は理解できなかったし、するつもりもなかった。
とにかく、理由はわからないものの、今、蜘蛛たちの統制がほとんどなくなっていることだけは、確かなようであった。
だとすれば……アジャスとしては、自分が本来やるべきだった仕事を再開するだけのことである。
「……そらよっ!」
好戦的なガグラダ族の常として、アジャスはもともとシンプルな気性の持ち主であった。
複雑な思考や策略を玩弄するよりも、もっと直感的にわかりやすい目標へむかって邁進することを得意とする。
目の前には倒すべき敵がいて、今のアジャスは、その敵を倒すことが可能な位置に居る。
だとすれば、やるべきことはひとつであった。
アジャスは持てる力を振り絞って右往左往する小蜘蛛たちを解体していく。
相変わらず魔力切れでへばっているゼスチャラを尻目に、エルシムは先ほどから水妖の攻撃を無効化する仕事に余念がない。
エルシム生来の、エルフの巫女としての精霊との親和性を適用すれば、水妖の水を使った攻撃を霧散することは不可能ではないのだが、三人同時に相手をしなければならないということと、それに、操作者がここから離れた場所に居て、いつどこで仕掛けてくるのかわからないというふたつの要因が、エルシムの神経をことさらに疲弊させた。
卑近な例を出して喩えるのなら、「いつ終わるともしれない、ミスが許されないモグラ叩き」を継続的に続けるようなもので、もちろんこのような事態に直面すれば、エルシムでなくとも精神的にクるものがあるはずだ。
そこでエルシムは、
……ええい、まだかっ!
と、これで何度めになるのかわからない悪態を、心中で吐く。
エルシムの精神的な視力によれば、大蜘蛛ルシアナの力は急速に衰え、代わりに、ルシアナの体内にいるバジルの位階は急速に跳ねあがっている。
大蜘蛛ルシアナは、今、盛大に何本か欠けた脚をバタつかせてジタバタと足掻いているが、これは半ば断末魔の叫び代わりの悪足掻きに相当するものだろう。
このまま放置しておいても、大蜘蛛ルシアナはいずれ息絶える……はずであるが、それまでこちらが今の体勢を保持できるかというと、これは、かなり怪しい。
『……ということで、なにか手だてはないか?』
以上のような現状をごく短く説明し、エルシムはハザマに意見を求める。
といはいっても、エルシム自身はすでに手一杯なので、実質的には、
「そちらでなんとかしろ!」
と要請したのに等しいわけだが。
『と、いわれてもなあ……』
ハザマはハザマで、ルゥ・フェイの化身である白いサーベルタイガーの相手をしている最中であり、とてもではないがすぐに手が放せる状態にはない。
『……とりあえず、リンザ、トエス、イリーナ。
ブシャラヒムとガズリムをたたき起こしてくれ。
せっかくここまで連れてきたんだ。そいつらにも少しは役に立って貰わないとな』
まず、洞窟衆の娘たちに、そう指示を飛ばした。
ガグラダ族のアジャスが目を醒まして、特にルシアナの影響もなく動いているようなので、あとの二人を起こしても問題はないだろう。
あとは……。
駄目でもともと。
『……おい!
お前ら!
いい加減、我に帰りやがれ!』
やるだけ、やってみるか……と割り切り、ハザマは水妖の操作者たちに心話で呼びかける。
『ルゥ・フェイの爺さんは、ごく短い時間だったがルシアナの支配から脱することができた!
お前たちにそれができないとはいわせねーぞ!
それともなにか?
ここでおれたちが全滅して元の黙阿弥、またルシアナのいいようにコキ使われる生活に逆戻りしてもいいってのか!
よく聞け!
ここが正念場だ!
お前ら……本当に自由になりたかったら、根性を見せてみろ!
ルシアナの支配力を自分の意志の力で脱し……ルシアナに、一矢なりとも報いてみやがれ!
お前ら、死ぬまでこんな辛気くさい場所に閉じこめられているつもりか!
お前らと俺たちとでルシアナに勝つことができたら……お前らに、本当の自由ってもんを教えてやる!
外の世界を教えてやる!
だから……自分の意志で、ルシアナをぶっ飛ばしてみやがれ!』
ハザマの心話による呼びかけが奏功したのか、どうか。
とにかく、少しの間、水妖たちの動きが止まり……そのあとで、三体の水妖が、今度は大蜘蛛ルシアナの巨体の中で暴れだした。
大きささを除けば、ルシアナの体はほぼ通常の蜘蛛と同じ構造をしている。
つまり、外骨格の中は筋や神経や内臓、それに、その重量の大部分を占有する体液によって構成されている。
その体液が、三体の水妖によっていいように撹拌され、分断され、破砕されていく。
大蜘蛛ルシアナの、生命体としての構造が、ごく短い間に破壊され、本来の機能を喪失していった。
その大蜘蛛の体内には、今、バジルが居て活発に食欲を満たしている最中であったのだが……身の危険を感じれば、いかに食事中ではあっても硬直化の能力を発揮して身を守るくらいはするだろう、と、ハザマは思った。
「……終わったな……」
深い息を吐いてから、エルシムはそう口に出した。
エルシムの、巫女としての視力は、大蜘蛛ルシアナの気配が、急速に、「この世」から離れていくのを感じていた。
水妖がルシアナの支配を離れた今、もはや、エルシムが忙しく働く必要もない。
見れば、白いサーベルタイガーもルシアナの影響力から解放されたのか、所在なげな様子でうろついている。
ブシャラヒムとガズリムの二人は、洞窟衆の娘たちに乱暴に叩き起こされて、首を振りながら起きあがっているところだった。




