巨乳の誘惑
夜も更けてきたし、より詳細な話し合いは、明朝以降に持ち越しとなった。
ハザマは水辺で平らな石を適当に拾い、それに水をかけながら、麻布の鞄から取り出した小刀の刃を取り出して研ぎはじめる。衣服以外の道具はおおかたこちらに来てから拾ったり奪ったりして調達してきたものなのであるが、これまで入手してきた刃物の中でこれが一番、切れ味が良い。というより、こちらの世界の冶金技術の限界なのか、他の刃物はすぐに欠けたり曲がったりして、長期の使用には耐えられない。
ゆえに、日常的な使用はこの小刀に頼らざるを得なかった。
脂がついたら丁寧に拭い、切れ味が鈍ってきたらこうして刃を研ぐ。水気は、丁寧に拭う。そうでなければ、すぐに錆びる。
すべて、煩雑な手間ではあるが、何しろ使用頻度が高い道具であるし、手入れを怠るのとそうでないのとでは、ちょいとした使用時の作業効率が格段に違ってくる。
手を抜けばかえって時間も手間も食われるとわかっているから、面倒とはわかっていてもこまめに手入れをするより他、選択枝がない。
ときおりたき火に刃をすかしてみて刃の具合を確かめながら、ハザマはしばらく小刀を研ぎ続ける。
「……こんなもんかな、っと……」
ようやく満足がいったのか、ハザマが顔をあげる頃になると、周囲はだいぶ静かになっていた。
危地を救われた女たちは、気がゆるんだのかたき火の周囲に固まって寝息をたてている。
傭兵たちも、少し離れた場所で火を囲んでいた。こちらは、女たちよりは気が立っているらしく、数名の不寝番を立てて交代で寝ているようだ。
夜とはいえ、だいぶ暖かい。日本でいえば、初夏くらいの陽気か?
若干、虫の羽音がうるさいが、気温的なことをいえば、野外で寝具なしにごろ寝しても、さほど不快ではない気候だ。森の中をさまよっていたときから、そればかりはありがたかった。
「……体でも洗うか……」
ハザマはそうひとりごち、服を脱いで泉に体を浸す。
こちらに飛ばされてからこっち、これまで全身を洗う機会には恵まれなかった。なにより、森の中では豊富な水にありつけることが、まずない。果実や捕らえた動物の血を飲んで喉の乾きを癒すのがせいぜいだった。おかげで、自分の体臭や痒みにはかなり鈍感になった。
「……冷たぇ……」
いいながら、ハザマは頭の先まで水に浸かり、指でごりごりと体表のそこここを掻きだす。石鹸もなにもない以上、他に汚れを落とす方法がない。ハザマの周囲に、驚くほど大量の垢が浮かび上がった。
「次は、っと……」
研いだばかりの小刀を取り出し、頬に当てる。何度も引っかかりを感じつつも、延び放題だった髭を、時間をかけてゴリゴリと半ば無理矢理剃り落としていく。刃が変な風に当たって何カ所か浅く皮膚が切れたが、なんとか満足がいくまでに髭を剃ることができた。
「……よーやく、人心地がついたかなぁ……」
水につかりながら、ハザマはぼんやりと呟く。
今日一日で、随分といろいろなことがあったものだ。
久々に、満腹するまで食べることができた。
こちらに来て初めて人間らしい存在と出会い、会話が出来るようになった。
ハザマにとって重要なのはその二点のみ、である。
その他のもろもろは、森の中で身につけた生存戦略の延長でしかない。
すなわち、自分の生命を危うくしそうな要素は、徹底的に排除する。
ときにハザマを酷薄そうに見せているのは、いってみればそんなシンプルな原則でしかないといえる。
いや、どんな生物であれ、生物である以上、同様の原則に従って生きているはずなのであるが……五十日にわたる過酷なサバイバル生活が、現代日本の平均的な若者でしかなかったハザマをして、ときに躊躇なく過剰にも見える殺戮を辞さない存在へと変えていた。
今のハザマは、今日の出来事が証明するように、自身の安全のためならば大量殺戮も、あえて手に染める。
「しかし……これから、どうすんだろうなぁ……おれ」
またもや、ハザマは、ぼやく。
今日、この世界の人間とようやく接触できたばかりである。
自身の将来の展望など、まるで考える余裕がなかった。
「邪魔するぞ」
ぼんやりと考え事をしていたところに、声をかけられた。
顔をあげると……。
「ええっと……ファンタルさん、でしたっけ?」
「ああ。そのままでいい。
体を洗いたいだけだ」
いうがはやいか、ファンタルは手早く身につけていた衣服を脱いでいく。
「いや……おれはいいですけど……」
昼間の女たちも人目を気にせず水浴びをしていたし、こちらは混浴も気にしない文化なのか? などということを考えつつ、ハザマはファンタルの脱ぎっぷりをしげしげと観察した。
若い男性である以上、どうしても視線が吸いつけられてしまう部位というのはあるものだ。
ファンタルはハザマの視線を気にせず、上着を脱ぎ、胸部を締めつけていたさらし状の布を解いていく。
「ああ、これか?」
ハザマの視線がどこに向かっているのかに気づき、ファンタルはつまらなそうに説明した。
「弓を引くときに邪魔でしょうがないから、普段は布で締めつけているのだ。
おかげで、汗をかいてしかたがない」
すくなくとも裸体に羞恥心を感じている様子はなかった。
「いえいえ、ご立派なもので」
ハザマがそういう間にも、下履きもするりと脱いで一糸もまとわぬ裸体となり、ハザマのすぐ横の水に入る。
「なんだ、欲情したか?」
そのまま、ファンタルはハザマの方に身を寄せて、耳の近くで囁いた。
「その気があるのなら、体を洗った後で一戦交えてもいいのだが……」
「いやー……。
それは、またの機会に」
ハザマとて、男女関係については、ここに来る前まで、それなりの経験を積んできている身だ。欲望はそれなりに自覚していたし、避妊とか性病とかいう言葉が頭をよぎる以外は躊躇する理由がないようなものだが……。
ただ、このときばかりは……。
「今日は、いろいろなことがありすぎてそんな気になりませんし……。
それに……ふぁ……。
体力的に、ぼちぼち限界なんで……今はもう、ただひたすら、寝たい」
五十日のサバイバル生活直後に、今回の騒ぎである。
頭も混乱しているが、それ以上に体が休息を欲している。
いや、これまで気を張り続けていたのが、奇跡のようなものだった。
「そうか」
ハザマの返答を聞くと、ファンタルは二、三度瞬きしてから平静な声で答え、
「では、本格的なのは次の機会に譲ろう」
といってから、ごく自然な動きでハザマの唇を奪った。
そのまま強引にハザマの口を割り、舌で口腔内を乱雑にかき回す。
しばらくそうして蹂躙した後、ようやく顔を離した。
「……ふう」
「髭を剃ると、ずいぶんと若く見えるな」
「まあ、二十三の若造っすから」
「若いな。
うん、若い。エルフなら小僧扱いだ」
「……ファンタルさんは、おいくつで?」
「さあなあ?
エルフは、自分の年齢を数える習慣を持たないのだ。二百五十くらいまでは数えていたのだが……もう忘れたし、わからん。
村の中にいれば、相対的に自分の年齢も推測がつくのだが……」
現在のファンタルは、どうみても、二十代そこそこにしか見えない。
肉食系巨乳エルフかよ……と、ハザマは内心でつっこんだ。
「……ところで、こっちでは避妊とか性病ってどうなっているんです?」
「わたしは、繁殖力が低いことでは定評のあるエルフだからな。
相手が誰だろうと、孕む可能性は少ない。仮に孕んだとしたら、喜んで産んで育てる」
ファンタルの返答は端的だった。
「それと……性病とは、なんだ?」
ハザマは、しばらく、乏しい知識をかき集めて説明した。
「ああ。
粘膜接触で伝染する病のことか。大昔は大問題だったそうだが……」
ファンタルの説明によると、体内の抵抗力を高める魔法が一般的になって以来、こちらではまるで問題にされていないということだった。
「……なるほど。
では……」
性交渉についてのタブーも、向こうよりは緩いのかな? とハザマは考え込む。
「……どんなことを考えているのか想像がつくが、こちらでは売春は手っ取り早く金を稼ぐための有力な手段となっている。黒旗傭兵団もそうだが、ある程度の規模の傭兵にはその手の業者が随行しているし……。
とはいえ、団員同士でも気軽にやりあっているので、極端に繁盛しているわけでもないのだが……」
どうやらこちらでは、いや、少なくとも傭兵の周囲では、性的な欲求はかなり即物的に処理されているらしい。少しでも気があれば、気軽に誘い、誘われる。当人同士の合意がありさえすれば性別や種族に関係なく欲望を解消しあうのが一般的であり、その文脈でみれば、現在のファンタルの態度にしてみても、特別おかしいということではないようだった。
「普段はともかく……いくさの前後には、みな、血がたぎるからなあ」
非日常的な状況においては、いつも以上に需要が高まる。
そこに、業者がつけいる隙が生じる……ということだった。
「エルフのファンタルさんはともかく……避妊はどうしているんだろう?」
「知らん」
ファンタルは、にべもなく答える。
確かに、エルフであるファンタルには、無用の問いだった。
ファンタルを残して、先に泉を出る。
シャツをタオル代わりにして体の水分を拭い、トランクス、スラックス、ワイシャツを身につける。スラックスはいい加減、あちこちすり切れて、裂け目が入っていて襤褸きれも同然なのだが、着替えについては明朝以降、改めて考えることにしよう。
麻の肩掛け鞄に小刀を放り込み、ハザマは洞窟の中へと向かった。そこに、相棒がいきたがっていたからだ。
バジルは、先ほどからしきりに、「そこにいきたい」という飢餓感混じりの意志を、ハザマの頭に叩きつけていた。
「はいはい。
今、いくから……」
ハザマは鞄の中で丸くなっているバジルに語りかけながら、歩を進める。
洞窟の奥の……床苗となった女たちの死体が、そのまま投げ出されている場所へと。
「ほらよ。
すきなだけ、食らい尽くせ」
ハザマがいうよりもはやく、バジルは鞄から素早く抜け出し、盛大に音を立てて手近の死体に食らいついていた。そのまま、一心不乱に、噛み砕き、咀嚼する音。
「……やれやれ。
とんだ子守歌だ」
そういって、ハザマはようやく目を閉じる。
多少、不快なことがあったとしても、このバジルのそばにいれば、最低限の安全は確保されるのだ。文句をいう筋合いでもない。
仮に、ハザマがあの森の中でバジルと出会うことがなかったら……いくらもしないうちに、そのまま餓死していたことだろう。
なんの準備もせず、予備知識も持たない、平成の大学生がすんなりと生き延びられるほど、あの森の中は優しい環境ではないのだ。
だから、ハザマとしても、バジルの要求することには可能な限り、応じるべきだと思っている。
バジルがハザマの安全を確保し、代わりに、ハザマがバジルの食餌行動を助ける……というのか、この数十日で築いてきた一人と一匹の共生関係であった。
だが……。
眠りに落ちる寸前、ハザマは、ふとそんな不安に捕らわれた。
……こいつがおれを必要としなくなったら……その後のおれは、一体、どうなるんだろう?
そんな不安について深く考えるいとまもなく、ハザマの意識は闇に覆われる。
夢もみない、眠りに落ちた。