敵襲の夜
森の奥から、悲鳴や人が争う物音が聞こえた。
遠くから聞こえたそうした雑音が、ムヒライヒ・アムラヌニアが最初に感じた異変の前兆だった。
「……もう来たのか」
ムヒライヒは呟く。
敵の襲撃を予想してはいたが、ここまで迅速な反応があるとは思っていなかった。
そして、その場にいた全員に向かい、
「敵の襲撃があったようだ!
警戒するように!」
と、大声で叫ぶ。
たちまち、周囲の者たちは浮き足だった。
作業にあたっていた人夫たちは逃げ腰になり、警護にあたっていた兵たちは手持ちの武器を構え直す。
「非戦闘員の者たちは、一時対岸に待避!
兵員は、引き続き周囲を警戒せよ!
くれぐれも、慌てるな!
対岸に待避する者は、落ち着いて、他者と押し合わず争わず、順番を守って移動せよ!」
この場で一番怖いのは、この場にいる者たちが恐慌を来して制御を失うことだった。
なにしろ、この場にいる人数は、兵よりも非戦闘員の人夫の方が圧倒的に多いのだ。
ここで戦闘になったら、非戦闘員は確実に邪魔になるから、さっさと退去してもらいたいのが本音だが、かといって不安を煽っても、こちらが得るものはなにもない。
「敵は、森の中にいるようだ!
非戦闘員は、順次、浮き橋の方に移動せよ!」
この時のムヒライヒは、この異変がどこまで深刻な打撃を自軍に与えるのか、予想していなかった。
まずガグラダ族を襲ったのは、何度かの矢の斉射だった。
ただそれだけで、ガグラダ族の半数以上が手傷を負い、ろくに反撃もできない有様になっている。
本来ならば、すぐに撤退を命じているはずの打撃を受けていたが、アジャスが撤退を命じる前に勝敗は決していた。
矢の斉射のあと、黒い固まりが無音のままガグダラ族の者たちを襲う。
早い。
躊躇や遅滞がいささかも見れない動きだった。
この闇夜の中で、まるで目が見えているかのような。
それに、野性の獣であるかのような、俊敏な動き。
ガグダラ族の者たちは反抗する間もなく、すぐに制圧された。
「……脆いものだな……」
アジャスの背中を踏んで弓を構えた女が、感想を述べる。
「狩ることはあっても、狩られたことはなかったか。
お前が、この集団の頭領か?」
「……そうだ」
アジャスは、女が構えた弓の鏃が自分の首筋を狙っていることを確認し、低い声で応答した。
「殺さないのか?」
「殺すよりも、そちらの内情を聞きたい。
はなす気がなければ、お前の仲間をこれからひとりひとり順番に殺していく」
「好きにするさ……と、いいたいところだが……」
アジャスは、ことさらゆっくりとした口調でしゃべった。
イミルとズランギが、この場からうまく逃げ延びることができていたら……時間を稼ぐ必要が、あるのだった。
「……わかった。
降伏しよう。
その代わり、仲間は……」
「助けよというのなら、助けないこともない。
ただし、捕虜にはなってもらうがな」
「……奴隷か」
アジャスは、鼻に皺を寄せた。
「贅沢はいえねーが、あまりぞっとしないな」
「この場で殺されるよりはマシだろう。
承知するのなら、お前の仲間に抵抗をするなと命じろ」
「……ああ、ああ。
いいとも。いいだろう。
その前に……立ち上がっていいかな?」
「駄目だ! 動くな!」
女が、叫ぶ。
なかなか用心深いやつだな、と、アジャスは思う。
次の瞬間、なにか黒いモノがアジャスに近づき、素早くアジャスの手足を縛りはじめた。
むっとした、獣臭い吐息が、アジャスの顔に当たる。
「……異族なのか?
平地民が人外の者を使役するなんて……聞いたことがねーぞ!」
「では、われらは最初の例外ということになるな」
女の声は、素っ気なくそう答える。
「よし。
生き残ったお前らの仲間は、すべて身動きが取れなくなったようだ。
今なら、立ち上がってもいいぞ。
怪我人も、すぐに治療にあたらせる」
「……そりゃ、どうも」
アジャスは、憮然とした表情でもそもそと起きあがろうとした。
手足を縛られている状態では、そんな些細な挙動が、ひどくやりづらい。
「おれは、ガグラダ族のアジャスだ。
あんたは、なんて呼べばいい?」
「イリーナ。
洞窟衆の、イリーナだ」
「順番だ! 順番だ!」
「押し合うな! しかし整然と急げ!」
アムラヌニア公家子飼いの兵たちの誘導に従って、人夫たちが足早に浮き橋の上を渡っていく。
その表情には、やはり一様に不安が張りついていた。
「いいか!
この避難は、あくまで念の為だ!」
「今、洞窟衆の者から森の中の敵軍を捕らえたという報告が入った!
安全が確認され次第呼び戻すので、向こう岸に渡ってもそこから離れないように!」
「……また、洞窟衆ですか……」
ムヒライヒ・アムラヌニアは、憮然とした表情で呟く。
確かに、エルシムとかいうエルフに森の中に入ってもいいかと訊かれたとき、許可を与えたのは自分なのだが……これほどすぐに、伏兵としての効果を現すものとは予想していなかった。
「架橋作戦のときといい、おいしいところを持って行ってくれるものです」
ムヒライヒは、前線司令の枠割りとして、各将兵の働きを評価する必要がある。
今の時点では、どのように割り引いても、洞窟衆の働きを評価しないわけにはいかないだろう。これだけ大きな役割を果たした洞窟衆にしかるべき恩賞を与えないとなると、下手をすれば全軍の士気を低下させかねない。
ムヒライヒの脳裏に、なにかというと「経費削減!」とか叫ぶブラズニア公家のご令嬢の顔が思い浮かび、げんなりとした気持ちになる。
経費、特に人件費をケチっていては、勝てるいくさにも勝てない……というのが、ムヒライヒたち現場の人間の感覚なのだが、後方の人間はなかなかこの感覚を理解してくれなくて辛い。
「そりゃあ、お金も人も湯水のように蕩尽したらどんないくさにだって勝てますでしょうよ!
でも、戦利品よりも莫大な戦費を費やしてもぎ取った勝利に、いったいなんの価値がありましょうか!」
ブラズニア公家のご令嬢は、普段からドヤ顔でそんなことをのたまっているのだそうだ。
その理屈も、わからないこともない。
ことにこのいくさは、防衛戦争であり勝ったところで、「敵軍を退けた、国土を防衛した」という名誉が残るだけであり、銅貨一枚分の戦利品があるわけではないのだ。
国の上層部にしてみれば、より少ない損害でうまく事態を収拾したい、という思惑もあるのだろう。
しかし……敵軍である山岳民どもは、手加減して互角に渡り合えるほど、甘い存在ではないのだよなあ……と、ムヒライヒは思った。
「……洞窟衆に、より詳細な報告を求めよ!」
ごく短い時間にそんなことを考えたあと、ムヒライヒは伝令にそう告げる。
「今、捕虜を連れてくるそうです!
捕らえた敵は、ガグラダ族! おおよそ半数を殺害、半数を捕獲した模様!」
「ガグラダ族だって!」
ムヒライヒは、叫ぶ。
森の中での行動を得意とする部族は山岳民の中にもいくつかあるのだが、ガグラダ族といえばその中でも一番好戦的な部族とされている。
「あの森の狩人を一網打尽にしましたか!
はは!
これは……すぐにでも喧伝しないといけませんねえっ!」
有名を馳せた敵を討ち取った……という報は、敵の戦意を挫き味方の戦意を高揚させる、またとない好材料なのだ。
「そんな捕虜がいるのなら、すぐにでもこちらに……」
ムヒライヒが上機嫌でそこまでいったとき……第二の異変が起こった。
山道が、いきなりぐずぐずと崩れはじめた。
堅固な地面が、いきなり砂地になったかのような変化だった。
自重を支えきれなくなって、山道が陥没する。
川から続く急斜面が、ぽっこりとへこんでいく。
せっかく築いた土塁が、防柵が、沈下した地面に引きずられて、高さも揃わなくなっていき、用をなさなくなっていく。
「……あ。あ。あ」
ムヒライヒは、口をあんぐりと開けてその異変を見つめた。
今日一日、膨大な予算と人手を蕩尽して得た成果が目前で無に帰そうとしているのであるから、無理もないといえる。
浮き橋の方へ避難する途中だった者たちは、この異変を目の当たりにして、パニックを起こしかけていた。
誘導に当たっていた兵たちが、「押さないでださい!」とか、「落ち着いて移動してください!」とか、大声を張り上げているが、あまり効果はないようだ。
「こんな……こんなことが……。
地震……ではない、な。
まったく、揺れがなかった……」
いいながら、ムヒライヒは徐々に自失の状態から脱して思考能力を取り戻していく。
「では……魔法か」
ムヒライヒがそう結論したとき、浮き橋の上が、朱に染まった。
よりにもよって、ムヒライヒの目前で、目に見えない攻撃を受けた避難中の者たちが、一斉に体表を切り刻まれて、出血したのだった。
ムヒライヒは、奥歯を噛みしめた。
「敵軍の……魔法使いかぁ!」
「なんだ!
このざまはぁっ!」
森を抜け、山道に出た途端、イリーナはその惨状に遭遇した。
「答えろ!
あれは、貴様の仲間がしでかしたことかぁ!」
手足を縛ったアジャスの襟首を掴み、イリーナは大声でそう訊いた。
「素直に答えるわけねーだろ」
アジャスは、薄笑いを浮かべながら、そう答える。
「こいつは、いくさだぜ」
「……このぉっ!」
イリーナは、抵抗できないアジャスのみぞおちを、渾身の力で殴りつけた。
アジャスは、体を折って胃液を吐く。
そのあと、
「……へっ。
へへへっ……」
と、笑い声をあげはじめた。
「貴様!
なにがおかしいっ!」
「地獄は、まだまだこれからさぁ。
おれたちは陽動。
本隊は、別にあるんだ」
「……なんだとぉ!」
イリーナが、いきりたつ。
「ほれ」
アジャスはバタス川の方を見ながら、イリーナに告げた。
「あれが、デムデラ族が使う水妖だ。
あんたら平地民には、あんな敵を抑え込める力を持っているのかい?」
振り返ったイリーナの目に、盛大な水飛沫をあげるバタス川の様子が映った。
下流から上流に向け、一、二、三……四本。
水飛沫をあげながら、高速で移動する、なにか。
その移動する先には……大勢の人が乗った、浮き橋がある。
「……やめろぉ!」
イリーナが、絶叫する。
「ははは。
無理無理。
ここからじゃあ聞こえねーし、たとえ聞こえても止める筋合いはねーし……」
イリーナは、無言のままアジャスの腹部を蹴る。
アジャスの言葉通り、四筋の水飛沫は、その上にいた大勢の人間ごと浮き橋に激突し……あっけなく、すべての浮き橋を粉砕した。
「……んで、なにがどうなっているって?」
心話で叩き起こされたハザマが、叫んだ。
その肩に、素早く寄ってきたバジルが這いのぼる。
『バタス川と、対岸が襲われている』
心話は、ファンタルからのものだった。
『森を経由して襲撃してきたガグダラ族は、洞窟衆の者たちが抑えた。
しかし、別口で魔法使いが何人か来ているらしい』
「何人か、って、何人よっ!」
『それがわかったら苦労はせんわっ!』
ファンタルが、叫び返してくる。
『今、対岸にいるエルシムに気配を探らせている。
問題なのは、強力な風使いがいることだな。
居場所がわかったとしても、滅多なことでは近づけまい』
「それで、おれはどうすりゃいいんだ?
とりあえず、川へはむかっているけど」
『おぬしは、その川の中へ入ってもらいたい』
「川の中、だって?」
『敵の中に、水妖を使うものがいるそうだ。
おぬしのトカゲもどきの力なら、水妖にも通用するかも知れん』
「……その、水妖ってなによ?」
『知らん』
天幕を出てしばらくいくと、背後からばたばたとした足音とが近づいてきた。
「……なにかあったんですか?」
と、クリフがハザマの背中に追いついて来た。
「バタス川に大規模な襲撃。
あのファンタルさんが焦っていたようだから、それなりの攻撃なんだろう」
「今からハザマさんも出るんですか?
ぼくもいっしょに……」
「子どもを連れていけるわけないだろ。
今回は、どうも本気で危険らしいしな。
クリフは、カレンといっしょにおとなしく留守番してろ」
「……は、はい」
「おい返しましたか」
「連れて行っても足手まといになるだけだし……って、リンザ!
いつの間に……」
「先ほどからいましたが?」
「あー、そうかい。
今回は架橋作戦のときとは違って、あまり安全を保証できないけど……」
「そのへんの判断は自分でします」
「……あっ、そ」




