奴隷巫女のエセル
奴隷巫女のエセルは暗い水面を見通そうとする。
しかし、見通しはまるで効かず、ほとんどなにも見ることはできなかった。
無理もない。
周囲には人家がなく、光源となるものがなにもないような場所である。
ましてや、現在エセルたちが居るのは夜中の川の上。
こんな場所では、わずか一ヒロ先にある物だって見分けがつかない。
そんな、ぬばたまの闇の中にエセルたちは居る。
エセルたち、ベズデア連合軍は。
小さく合図を囁き合いながら、ベズデア連合軍の船はゆっくりと進み始めた。
これほど暗い中、船団を組んで前進を続けるのはかなり危険なことだったが、ベズデア連合軍はこれまでだって夜間行軍の訓練を行ってきている。
極力音をたてず、水音もたてず。
ただ敵軍に見つかることだけを警戒して。
滑稽なことだ。
と、エセルは思う。
ベズデア連合は身分制度を否定し、貴族や王族などの世襲の身分を撤廃することを国是としている。
今回のスデスラス王国への遠征も、あくまで危難に遭っているスデスラス王国の民を救うことを目的としている。
少なくとも、表向きにはそのように主張していた。
だとすれば、こんな夜更けにこそこそと隠れながら進むべきではなく、白昼に堂々と正面から乗り込んでいけばいいではないか。
そもそも、これまでに激戦を繰り返した末、周辺に駐留している将兵が軒並み疲弊しているアボレテ沼地を選んで目指していることこそが、実際にやろうとしていることと主張していることとが乖離していることを見事に物語っている。
エセルにいわせれば、大義名分を掲げたベズデア連合がやろうとしていることは、その実、火事場泥棒にしか見えなかった。
この樣子をはたから確認できる者がいるとすれば、失笑するのではないか。
と、エセルは思う。
エセルは奴隷巫女である。
奴隷巫女とは、一切の身分制度の存在を否定しているベズデア連合が例外的に認めている賤者であった。
連合が国家として成立する前から、ベズデアと呼ばれる地域には精霊との親和性が高い人たちが一定数、生まれてくる傾向がある。
全体数からしてみればごくごく少数に過ぎないのであるが、こうした精霊と意志を通わせることができる者たちがその資質を活かして魔法使いになると、ときとしてとんでもない威力を持つ魔法を使役できるようになるので、ベズデアではこうした体質の持ち主は見つけ次第奴隷にして、決してそのときどきの権力者に逆らえないようにするのが慣例となっていた。
表向きの名目としては社会秩序を乱さないためとされていたが、実際のところは、そうでもしなければ安心できないからだろう。
と、エセルは思っている。
大きすぎる能力を生まれ持った代償として、エセルたち精霊使いとして生まれた者たちは、古くから行動の自由を大きく制限されていた。
形式としては奴隷であったが、むやみに虐待されているわけでもなく、それどころか衣食住などについては一般的な庶民よりもよほど高級なものをあてがわれ、表向きは巫女としてうやうやしく扱われている。
ただ、その能力を自分自身のために使うことは硬く禁じられていた。
いいかえれば、命令されたことにその能力を活用しようとしない場合は、その存在意義がなくなるとしてあっさりと打ち捨てられる程度の存在であった。
奴隷巫女とは本質的に奴隷、つまり生きた道具であり、普段どんな生活をしていようと、肝心なところで自分の意志通りに行動する権利を与えられていない。
今回もエセルは、エセル本人の意思によらず、この火事場泥棒じみた戦いに加担すべくこんなところまで運ばれてきている。
幸か不幸か、これまでエセルがその能力を直接敵兵にむけて行使する機会はなかったわけだが。
それでも、いざ命じられさえすれば、エセルはあっさりとその能力を大勢の人間にむけて使うだろう。
奴隷巫女とは、そういう存在だからだ。
ベズデア連合の兵士たちは、この暗闇の中、水音さえ抑えるような動きで船を漕いでいる。
なんの光源もなく水上を移動しようとするのはその実、かなり危険な行為なのだが、これまで毎晩のようにやってきたことでもあり、彼ら兵士たちの動きに遅滞は見られなかった。
星明かりこそあるものの、それだけの乏しい光では水面上はなにも見えない。
完全に手探りに近い状態で、船団は前に進んでいく。
川の流れだけを頼りにして行き先を察知し、船の舳先に障害物が当たれば船の行き先を横に逸らす。
そんな状態であるから、当然、速度は出せない。
いや、それ以上に、櫂を操る者たちの神経をすり減らすような行軍であった。
異変が起こったのは、船団がそうして音もなくしばらく進んでからのことである。
水が。
と、奴隷巫女のエセルは思う。
変わった。
なにがどうと具体的に説明をすることは難しい。
特に、精霊の存在を感知することができない者には。
だからエセルは、その異変についてあえて口にすることはなかった。
今、エセルがこの異変についてベズデア連合の者たちに説明したところで、ここまで来たらもはや結果はあまり変わらないだろう。
それだけ、エセルが察知している異変の範囲は広範であった。
エセルが今から騒いだとところで、これほど力量のある水使いに抗する術はない。
それに。
と、エセルは思う。
相手側がこれだけ強力な水使いを擁し、なおかつベズデア連合の動きをあらかじめ察知して待ち構えていたという事実だけでも、ベズデア連合がかなり不利になっていることを物語っていた。
「おい」
さらにしばらくして、ようやくそんな囁き声が聞こえはじめる。
「やけに、櫂が重くなっていないか?」
「そうか?」
「その割には、船の進みが早いようだが」
「い、いや。
これは!」
最初はゆっくりと、それから、徐々に速度を増す形で、ベズデア連合の船団はまとめて沼地の真ん中に放り出された。
船団の周囲にある水が、唐突に意志を持ったかのように勝手に流れを強めて船団の船をまとめて動かしている。
「速い!」
「速すぎるだろう!」
「櫂を持っていかれた!」
そんな声が、そこここから聞こえてきた。
時ならぬ異変を察知して、ベズデア連合の者たちももはや声を潜めることをやめてしまっている。
「どうしたことだ、これは!」
分隊長が叫んだ。
「エセル!
奴隷巫女!
この流れを止めよ!」
「敵の力量がわたくしのそれよりも遥かに勝っております」
エセルは静かな口調で告げた。
「船団すべての動きを止めることは不可能です。
一隻か二隻ほどの動きを止めるだけで精一杯になりますが、それでもよろしいでしょうか?」
「なにを落ち着き払っているのか!」
分隊長が叫んだ。
「なんでもいから、できることをやれ!」
おそらく、頭に血が上っているのだろうな、と、エセルは思った。
「了解しました」
エセルは、やはり静かにいった。
「命令を実行します」
これだけの力量を持った水使いが、不意に不自然な動きをした船を見逃すとも思えないのだが。
それはともかく、エセルは奴隷巫女である。
たとえ不合理な命令であろうとも、正式に命令をされた以上は、それに従わなければならない。
エセルは水の精霊にお願いをして、分隊長が乗った船と自分が乗った船だけをその場に静止させる。
そのすぐ横を、同じ船団の何十、何百という船が信じられない高速度で滑るように進んでいく。
ああ、これで。
エセルは、安堵とも諦観ともつかない奇妙に静まり返った心持ちになった。
わたくしの人生も、おそらくは終わる。
そう思った瞬間、エセルが乗った船は横合いから強く押され、エセルはあっけなく真っ暗な水中に放り出される。
エセルは、そもそも泳げない。
それだけではなく、奴隷巫女の通例として大きな鉄の首輪と足枷を嵌められ、そのそれぞれに長大な鉄の鎖がついている状態であった。
逃亡や反乱を防ぐという名目で、奴隷巫女にはそのような拘束をすることがベズデアでは慣例となっているのであった。
当然のことながら、そうした重りに引っ張られる形で、エセルの小さな体は下へ下へと沈んでいく。
「ちょっといってくるね」
唐突にそんなことをいって、キャトルがおもむろに着衣を脱いで沼地の水面に飛び込んだ。
止める暇もない、素早い動きだった。
トエスが気づいたときには、いつの間にか獣形に変化したキャトルがかなり遠くまで泳ぎ去っている。
「ったく、こんなときに」
トエスは軽くため息をついた。
「キャトルが抜けた穴、二人でどうにかできそう?」
通信を介して、そう訊ねてみた。
離れた場所で別の船に乗っている、二人の水妖使いに、である。
『んー、たぶん』
『間に合わなかったら、沼の真ん中あたりでぐるぐる回していればいいだけだし』
あまり緊迫感がない答えが、ドゥとトロワから返ってきた。
ま、あの子らにしてみれば、この程度のことは造作もないだろうけどさ。
とか、トエスは思う。
「キャトル、聞こえる?」
続けて、トエスが問題行動を起こした本人に訊ねた。
「いきなり、どうしたん?」
『同じ子が、居た』
キャトルが通信を介して即答してくる。
『沈みかけているから、ちょっと引きあげてくる』
キャトルの返答は舌足らずというか明らかに説明を要する事項をすっ飛ばして言及しており、当然のことながらトエスにはなんでキャトルがそんな行動をしたのか理解できなかった。
「なんだかよくわからないんだけど」
トエスはいった。
「その用事、すぐに済むの?
あんまり長引くようなら、後回しにして貰いたいんだけど」
水妖使いの三人組は基本的に気まぐれであり、扱いづらい。
すぐに済む用事であるならば、機嫌を損ねない範囲でさっさと終わらせて、本来の仕事に戻って欲しいところだった。
『大丈夫』
キャトルの思念が返ってくる。
『すぐに、見つかる。
見つかった。
引きあげて、持っていくね』
なにを見つけて、なにを引きあげてくるというのか。
この時点で、トエスはまるで理解をしていない。
「なんでもいいから、早くして」
トエスは早口にいった。
「今回の仕事はまだまだ後が詰まっているんだから」
残る水妖使いの二人、ドゥとトロワは事前に説明されていた通りに仕事をこなしていた。
沼地の中央部までにベズデア連合の船を運んでいくのがトロワとキャトルの役割であり、そうして運ばれてきた船を仕分けして、荷物が多い船はハザマたちが待ち受けている岸辺へ、人ばかりが多く乗り込んでいる船はヴァンクレスや他の兵士たちが待ち構えている岸辺へとドゥが送り届ける。
それだけの単純な仕事であり、三人の能力からすれば完全に片手間仕事であった。
たとえキャトル一人が抜けたとしても、この程度の仕事ならばなんの問題もなく残りの二人だけでこなせる。
「明かりをつけますか?」
「うん。
お願い」
同じ船に乗っている者がそういってきたので、ドゥは即答した。
実のところ、サーベルタイガー形態になればかなり夜目が効くのでこの程度の暗闇ならばかなり見通すことができるのだが、ドゥたち水妖使いだけが見えても他の人間の不安が消えるわけでもない。
ここはやはり、照明魔法を使用して周囲を照らしておくべきだろう。
これまでの人間とのつき合いで、ドゥはその程度の気遣いをできる程度には人に慣れていた。
いきりなり、水面上にいくつかの光源が発生する。
今のところ、ここまで行き着いてきたのは人ばかりが乗っている船ばかりであった。
つまりは、ヴァンクレスたちが待ち受けているところに送り出せばいいのだ。
「人が多く乗っているのは、あっちの方にやるんだっけ」
そういって、ドゥは返答も待たずに沼地の水を操作し、そこにいるすべての船をそちらの方角に押し出す。
なにやら悲鳴のような声が遠ざかっていくが、ドゥは気にも留めない。
「こちらに来るそうです!」
通信に耳を傾けていたスセリセスが、緊迫した声を出す。
「戦闘の準備を!」
「照明魔法用意!」
「照明魔法発動!」
そんな声がいくつか重なり、岸辺が白昼同然に明るく照らされる。
そんな只中に、ものすごい勢いでベズデア連合の船が突っ込んで来た。
それも、一隻や二隻ではなく、何十という船がまとめて押し寄せてきて、そのまま岸辺に激突する。
岸辺は、柔らかな砂浜ではない。
大小の石があり、葦なども多く茂っている。
そんな岸辺に、何十、いや、何百という船が勢いを殺さぬまま高速度で激突した。
当然、それだけで船は破壊されるし、その破片もろとも乗っていたベズデア連合の兵士たちも何十ヒロも出鱈目な方向に吹っ飛んだ末、硬い地面に激突する。
これだけでも、十分な打撃になるだろうな。
と、スセリセスは思った。
あれだけの勢いで岸辺に激突していたら、船に乗り込んでいた人たちもかなりの傷を追うはずである。
しばらく身動きできなくても、不思議ではない。
実際、次々と船が岸辺に激突し続けるのだが、そこから復帰してこちらに攻撃しようとするベズデア連合の兵士はしばらく現れなかった。
「なんでえ」
ヴァンクレスが面白くなさそうな声で呟く。
「こんな樣子じゃあ、まともないくさにならん」
『その方が楽でいいじゃないか』
通信で、こちらの樣子をうかがっていたらしいハザマが伝えてくる。
『とはいえ、ここまで準備を整えておいてそのすべてが無駄になるのもアレか。
ドゥ。
もう少し、こっちに船を押しやる力を弱めてくれ。
スセリセス。
力の加減を、そちらで見て調整してやってくれ』
「あ、はい」
スセリセスは反射的に答えた。
「ですが、いいんですか?
苦労せずに相手を無力化できるのならば、それに越したことはないと思うのですが」
『おれたちだけならそうしているところだけどな』
ハザマはいった。
『ここだけのはなし、今回は地元住民やらその他のお客さんとかも参戦しているだろう?
そうした人たちの見せ場を作っておかないと、あとの協力関係に差し障りが出てくる。
ここでの勝利者は特殊な能力を持った洞窟衆という得体のしれない集団ではなく、あくまで冒険者ギルドということにしておきたいんだ』
そこまで考慮する必要があるのか、とスセリセスは思った。
だが、いわれてみれば確かに、ここで冒険者ギルドの名を高めておきたいという意見はよく理解できた。
ベズデア連合に勝利をするのは、スデスラス王国民を主体とする冒険者ギルドであった方がいい。
だから、ハザマたち洞窟衆は彼らが勝てる程度に的であるベズデア連合を弱体化する。
そこまで、とどめておく。
今後のスデスラス王国のことを考えれば、そうするのが正しいのだった。
「ドゥさん。
もう少し弱く。
ええ、いい感じです」
スセリセスは通信を介してドゥに指示を出す。
「しばらくはそのくらいの強さで、船をこっちにやってください」
ようやく起きあがり、どにか体制をたて直してこちらにむかって来ようとするベズデア連合の兵士が現れはじめた。
しかし、立ちあがることができたとしても、すぐに連弩の斉射をあびて倒れてしまう。
「盾だ!
盾を持って来い!」
地面に伏せたまま、あるベズデア連合の兵士が叫んだ。
「あるいは、盾代わりになるものだ!」
まだまだだ、と、そのベズデア連合の兵士は考える。
上陸に際して大きく遅れを取ったのは確かだが、味方の損害は、全体数から見れば大したことがない。 周囲には死屍累々といった様相の味方の兵士たちの死体や残骸が転がっているのだが、その兵士はそう考えるだけの余裕があった。
これまでに倒された者の、何十倍もの人数が控えているはずなのだ。
ここで諦めず、少しでも敵の兵力を削ぐこと。
そこことこそが、今の自分たちにできる最上の仕事になるだろう。
周囲に転がっていた船の残材から適当な大きさのものを拾って、その兵士はその残材を前方につきだし、矢避けにしながら前に進んでいく。
前方にかざした残材に、面白いように矢が突き刺さる音が重なる。
すごい数だな、と、その兵士は思う。
一体、敵の総数はどれほどになるのか。
「いくら数が多くても、少しずつ減らしていけば最後にはおれたちが勝つ!」
その兵士はそう叫んで間に進みはじめた。
「勝利を信じて、前に進め!」
そういった瞬間、その兵士がかざしていた残材になにかが当たる感触があり、続いて炎をあげて盛大に燃えあがりはじめた。
その兵士は反射的に残材を打ち捨て、そして連弩の餌食になって体中に矢を受けて絶命する。
「敵がなにか遮蔽物を使ってきたら、油壺を投げつけてやれ!」
オイラット・ドラムイ男爵が叫んだ。
「油壺の数は限られているからな!
使うときは慎重に狙いをつけろ!」
油壺は連弩と同様に、洞窟衆が持ち込んだものだった。
こぶし大の素焼きの壺に油を満たし、小さな口に布切れを詰めて、その布切れに火を着けて投じる。
特に洞窟衆が考案したというものではなく、市街地などの攻防においては同様の武器が普通に使用されている。
ただ洞窟衆は、投擲しやすいように紐をつけ、この油壺を量産していた。
とはいえ、中に詰める脂が不足しているので、この戦場で使用できるはせいぜい五百というところだそうだが。
それでも、今のこの戦場においては十分に有効な武器である。
なにしろ戦場は、沼地を背にした敵軍の包囲網が、最初から完成している。




