ルノ・トロの書斎
「実戦部隊の先発隊がドン・デラ近郊に到着したそうです」
ある朝、リンザがハザマにそう告げた。
「予定通り、移動に使用した車両や馬はハザマ商会に返還し、人員は近くの宿に分宿します」
今回、戦闘が起こるにせよそれは市街の中であると想定されている。
そのため、洞窟衆の実戦部隊も軍用馬を持ち出さずに貨物用の馬車に分乗しての移動となった。
予定では、二、三日郊外の宿に分宿した状態で旅の疲れを取り、本格的に活動をするのはそれからということになってことになっている。
その間、洞窟衆の軍勢が到着したという噂もドン・デラ中を駆け巡るはずであり、そのこと自体が仮想敵であるドン・トロ一派への牽制にも繋がるとハザマは考えていた。
「今回、戦費はおおむね王国が出してくれるということで、最終的には予定よりも多い八百名ほどがこのドン・デラに移動してくる予定です」
リンザは、そういい添える。
「八百名か」
ハザマは呟いた。
「威嚇するためには、十分な数かな」
国境紛争とガンガジル動乱を経験し、洞窟衆の兵は精強として周辺諸国に知られるようになっている。
実際に十分な実戦経験を得ているのはその八百名のうち、三分の一も居ればいい方だろうな、と、ハザマは予測した。
残りは訓練中の連中を掻き集めてファンタルが送り出してくれたのだろう、と。
なにしろ、旅費と作戦行動中の飲食代や人件費はすべて王国持ちであるから、それに便乗しない手はないのだ。
それにこの大移動は、表向きには、近く予定されている魔法兵の連中との洞窟衆の女たちの合同結婚式の下見も兼ねている。
魔法兵の地位向上を目論むアズラウスト公子の肝いりにより、この合同結婚式は領地内で一番栄えた都市であるドン・デラにおいて華々しく行われることになっていた。
むろん、それはこのドン・デラにおいて魔法兵と洞窟衆の者とが公然と合同して動くための口実でもあるわけだが。
上の指示によりドン・デラ内での行動を著しく制限されているアズラウスト公子もどうにかしてこの事態に介入しようと必死なのであった。
ここ数日、緊急連絡用の通信タグをドン・デラ内の各所にかなりの数ばら撒いてきたわけだが、予想に反してドン・デラの市民たちが洞窟衆に助けを求めてくる場面は一度も発生しなかった。
このことについてハザマがズベレズラ准男爵に質問すると、
「それは、こちらの者たちは揉め事を自分たちの手で治めることに慣れておりますから」
という答えが返ってくる。
前提として、このドン・デラは推定人口百万を越えているわけだが、それと比較して治安を守る役割を担う衛士隊は数千人くらいしかいない。
以前から、圧倒的に人手が足りていないのだった。
結果、なにかあっても市民たちが自前で解決するような風潮が強くなる。
ことに、これほどの大都市となると各地からの流入してくる食い詰め者が多く、古くからこのドン・デラに居住している住民たちは結託して怪しそうな人物を監視するようなことを普段からしているらしい。
それ以外に同業者ギルドの内部で違法な行為を行う者を独自に監視、制裁するような文化もあり、そうした住民たちの自助努力によってどうにか秩序を保つことができている、ということだった。
「ドン・トロの息子たちが雇った無法者たちが多少、やんちゃをしたとしても、すぐに取り囲まれて袋叩きにされるのがオチですよ」
と、ズベレズラ准男爵はそのように説明してくれた。
そうした市民たちは別に戦闘のプロというわけでもなかったが、その代わり、自分たちの町を守るという自衛意識は強く、なにかあったらすぐに集まって数の暴力を行使する。
その多くが職人などの肉体労働者であることもあり、そこいらの軟弱な無法者が数十人くらい集まって暴れたとしてもすぐに鎮圧されるだけだという。
このことは逆にいえば、周辺住民に迷惑をかけない形で無法者同士が勝手に争うだけならば放置される公算が高いということも意味するのであるが、いずれにせよ、一連のドン・デラの騒動がここまで長期化している一因にもなっていた。
ドン・デラの住民たちは意外に逞しく、やられっぱなしになるほどひ弱な存在ではないが、自分たちが被害を受けそうにならない限りは自発的に治安維持に努める習慣もないらしい。
ドン・トロとその息子たちの構想についても、内心では勝手にやり合ってればいいくらいに思っているのではないかと、ハザマはそう予想する。
さらにそれから数日が過ぎ、今回動員される予定の洞窟衆実戦部隊が全員、ドン・デラの近郊に集結した。
ハザマは予定していた通り、アズラウスト公子に連絡を取って、洞窟衆実戦部隊のパレードを行うことにする。
このパレードを行うことについては、領主の親族であるアズラウスト公子経由でドン・デラ市長であるロロ・トロ、衛士隊長のカロ・トロなど関係各所に対して、決して邪魔をしないようにと通達がなされていた。
許可を取った、というよりは領主としての権限を持ってもっと強い意味合いを持たせた通達であったようだ。
どうやらこれは、ブラズニア公爵家がそれだけ洞窟衆と強い関係を持っていることを内外に誇示するためのパフォーマンスも兼ねているらしい。
直属班の者たちはこのためにドン・デラ市庁舎に日参してパレードを行う際に巡回する道順などについて細かく打ち合わせを行っていた。
洞窟衆の実戦部隊とブラズニア公爵家の魔法兵合わせて千人を超える規模になる。
歩兵による行進でるから交通規制の必要まではなしとのドン・デラの市当局は判断したが、それでもそれだけの規模の人間が隊列を作って移動すればそれなりに邪魔にはなるはずで、ハザマたちは独自の判断によって周辺地域住人に行進を行う日時を通達をして注意を促した。
そして、当日。
ドン・デラ郊外にあるハザマ商会を発した千人以上からなる軍勢は、具足や武器を装備した状態で都市の中央部目指して出発した。
洞窟衆はハザマ領の旗を、魔法兵たちはブラズニア公爵家の旗を高々と掲げている。
一糸も乱れぬ統制を保って移動するその隊列を、ドン・デラの市民たちは奇異の目をして見守った。
別に楽曲を鳴らしながら練り歩いているわけではないので、表面的には幾重にも重なった足音が鳴り響くだけの行軍であったが、それもいつまでも途切れずに長々と続くので、たまたまその行列に遭遇した人々は最初は物珍し気に見物していても、次第に恐怖に顔を引きつらせていくのだった。
「これはどこの軍勢だ」
「旗印を見ろよ。
領主様の軍勢だ」
「いや、それ以外にも見慣れない旗印を掲げているではないか。
あれは?」
「トカゲをかたどった紋章を見てわからないか?」
「あれは、ハザマ男爵家の旗印だ」
「ハザマ男爵というと……洞窟衆か!
なんだって洞窟衆の軍勢がこんなところに!」
「知らないのか?
王家直々のお達しで、洞窟衆のやつらがこのドン・デラの騒動を治めに来てくださったんだとよ」
「ありがたすぎて、涙が出らぁ」
大都市ドン・デラに居るのは地元住民だけではない。
もともと人の出入りが激しい場所でもあり、こうした洞窟衆の動きをこれまで知らないでいた者も多かった。
しかし、この軍装の行列を目撃したあとでは、ドン・デラにおける一連の騒動について、王国が本腰を入れて解決しようとしていることに関して疑念を抱く者はいなかった。
マスメディアというものが発達していないこの世界においては、噂はなによりも迅速なニュースソースになる。
なにより、自分の目で目撃したことによるインパクトは大きく、ドン・デラの住人たちはこの日、いよいよ王国がこの事態を打開するために動き出したと口々に囁きあう。
その実、戦力としてみるとこの千人を超える軍勢もドン・トロの息子たちが動員できるどの勢力よりも小さかったわけだが、そのことを気にかけた人間は驚くほど少なかった。
その行軍は早朝から日が暮れるまで、ドン・デラの住人に見せつけるように、ほとんど丸一日をかけてドン・デラの隅々まで練り歩いた。
その間、ドン・デラ内の主要な交通路はほとんど網羅するように通過している。
「いやあ、痛快じゃありませんか」
例によって公務をさぼってズベレズラ准男爵のところに姿を現したアズラウスト公子は、この件に関してそう述べた。
「これでドン・トロの一党もさぞかし肝を冷やしたことでしょう」
「そうだといいんですけどね」
ハザマはそんな応じ方をした。
「この程度の脅しでおとなしくなるのなら、やつらもここまでしたい放題にはしていないと思いますが」
仮にこの行軍の中に領主であるブラズニア公爵家の旗印が混ざっていなかったら、ここまでおとなしく見物するだけに留まっていたのだろうか。
このときのハザマは、そんな疑問を抱いている。
いかにドン・トロの一党ではあっても、領主の息がかかっている軍勢に公然と弓引くことが躊躇われただけではないのか。
「それでも、最初の威圧としてみればこれで十分でしょう」
ハザマが想定する程度の疑問は最初から含んでいるのか、アズラウスト公子は平然とそういった。
「頭の連中はともかく、下の者たちはあの旗印と軍勢の様子を見てかなり委縮したと思います」
威圧、というよりも心理戦に属する効果に近い。
この行軍は、ドン・トロの息子たちの手足となって働いている連中に、ことの重要さを悟らせるという効果も期待していた。
これから本格的にドン・トロの一党との交渉を開始するにあたって、洞窟衆が場合によっては実力行使も辞さない覚悟でいること、それに、背後にはブラズニア公爵家が控えていることを公然とアピールしておくことは、今後、相手の士気に重要な影響を及ぼすはずだった。
「王宮から直接的な手出しをすることを禁じられている以上、このような支援の仕方しかできませんが」
アズラウスト公子はハザマにむかってそういった。
「上にばれない、あるいは王都にむけて申し開きができるような支援であれば今後もお力になりますので、なにかあったら遠慮なくいってきてください」
ちなみに今回の行軍に関しては、ブラズニア家の魔法兵と洞窟衆の女性たちの間で行われる合同結婚式の事前告知のためのための行進であると、王国中央には届け出を出している。
この時期にこのドン・デラでこんな真似をしでかすことが、どのような影響を及ぼすのか理解も想像もできないほど王都が無能であるとも思わないから、事前に中止するようにいってこなかったということは、つまりは黙認するという意思表示なのだろうな、と、ハザマはそのように理解している。
王国からくだされた命令を遂行するための助けになることは確かであるし、仮になにか思うところがあったとしても、王都として止めるべき口実がなかっただけなのかも知れないが。
「それで、明日からいよいよドン・トロの血族との交渉に入るわけですか?」
アズラウスト公子はハザマにむかってそう問いかけた。
「ええ」
ハザマは頷く。
「ほぼ同時に会見を申し込む旨をしたためた書状を送ったのですが、最初に承諾の返書をくれたのは末子のルノ・トロ氏になりました」
「ルノ・トロですか」
アズラウスト公子はいった。
「一族の中では、このドン・デラにおける影響力が一番ない者になりますね」
この土地の塩賊の元締めをしているとかいうルノ・トロは、確かにドン・トロの一族の中では一番地縁に影響が少ない立場でもある。
「どんな人物かわかりますか?」
ハザマはアズラウスト公子に訊ねてみた。
「実際に対面したことはなく、あくまで噂を耳にしただけですが」
アズラウスト公子はそう前置きし、慎重な口ぶりでいった。
「まだ若く病弱で、人前に出ることはほとんどないとか。
実際の仕事も、ほとんど部下に任せているようです」
実際に顔を合わせる前に余計な先入観を持つのもいいことではないのだろうが、どうやらルノ・トロ氏とは、少なくとも積極的にリーダーシップを発揮するような人物ではないらしい。
だとすれば、本人よりも周囲を固めている連中をどう制御するのかが鍵になってくるのかな、と、ハザマは思った。
「予断を持つわけではありませんが、最初に対面するドン・トロの一族としては、比較的やり易い人物なのかもしれませんね」
ハザマは、そうコメントしておいた。
アズラウスト公子が帰ったあと、ハザマはルノ・トロに関する書類を改めて読み返す。
ルノ・トロは現在二十三歳。
いまだ妻帯せず、独身であった。
ドン・トロの息子たちは全員母親が違い年齢も離れているのだが、ドン・トロ老人はこの末子の母親を一番寵愛し、ルノ・トロ自身も息子たちの中で一番可愛がったらしい。
ただ、アズラウスト公子も指摘をしたように、ルノ・トロは幼少時から病弱で長く寝つくことが多いようだった。
他の兄弟たちと区別して、このルノ・トロに塩賊の元締め職を譲ったのもこの虚弱体質が原因であるらしい。
この職にある限りは経済的にも自立することができるし、それに塩賊の者たちが影に日向にルノ・トロを守ってくれるはずという計算もあったようだ。
普段の職務でさえ部下に任せがちであることからもわかるように、このルノ・トロ自身も過大な野心は抱いていないようだった。
いや、仮に抱いていたとしても、その野心を開花できるほどの体力に恵まれていないだけか。
とにかく、ルノ・トロのその配下の者たちは、このドン・トロにおいても目立った動きを見せることはなく、現在までのところは静観を決め込んでいる。
以上が、外部から見たルノ・トロの概要であった。
もっとも、外から見ただけでは理解できないことも色々とあるだろうしなあ。
一通り諜報部門がまとめた資料を読み返したあと、ハザマはそんなことを思った。
実際に対面してみるまではどんな人物であるのかわからないし、余計な先入観は持たないでおこう。
ハザマは改めて、そう肝に銘じる。
翌日、ハザマは数名のともを伴ってルノ・トロの邸宅を訪ねた。
ルノ・トロの邸宅はドン・デラの中でも閑静な高級住宅街の中にあり、つまりはズベレズラ准男爵邸からもさほど離れていなかった。
十分くらいも歩けば到着する距離で、到着するなりハザマは、そこに居た門番に身分を明かして来意を告げる。
事前に面会の約束を取りつけていたこともあって、ハザマたちはすんなりと中に通された。
そのまま案内の者に先導されて、ルノ・トロが居る部屋まで移動した。
「ようこそいらっしゃいました」
この邸宅であるルノ・トロはそういって愛想よくハザマたちを出迎えてくれた。
「あの大ルシアナ討伐の英傑がわざわざ来てくださるなんて、夢のようですよ」
ハザマ自身といくらも変わらない年頃のルノ・トロは、病弱といわれるだけあって顔色がひどく悪く痩身であった。
いささか頼りない雰囲気ではあるが、美男子といってもいい整った顔つきをしている。
威厳を出すためか、似合いもしない口髭を生やしているのがかえって痛々しかった。
「ハザマ・シゲルといいます」
ハザマはそういって会釈をした。
「失礼ですが、わたしどもがこの場に訪れた用件について、ルノ・トロ様はどこまでご理解さなれているのでしょうか?」
その直後に、ハザマは早速用件を切り出す。
ハザマとて、別にこのルノ・トロと友誼を結ぶ目的でここまで足を運んだわけではないのだった。
「ああ、兄たちの跡目争いのことでしょ」
ルノ・トロは軽い口調でいった。
「あんなもの、勝手やらせておけばいいんですよ」
「すると、ルノ・トロ様はその跡目争いには参加するつもりはないと?」
ハザマは、そう確認する。
「もちろんですよ」
ルノ・トロはそういって両手を広げた。
「ぼくが必要としているのはこの書斎くらいなものです。
ドン・デラとか父親絡みの利権とか、そうした複雑で重いものはこの細腕では持ち切れません。
できれば、塩賊としての仕事もさっさと放りだしたいくらいで……」
「若様!」
ハザマたちをこの書斎まで案内してきた初老の男が、重い声を出した。
「お客人の前で口にすべき話題ではないと思いますが」
塩賊か、それともドン・トロ老人の筋か。
どちらに与する者かまでは判断がつかないが、とにかくこの初老の男はお目つけ役的な役割を担っているようだな、と、ハザマはそんな憶測をする。
「はいはい」
ルノ・トロはそうした厳しい声を軽くいなした。
「それよりも、ハザマ様。
本日はゆっくりできるのですか?
いい茶葉が手に入ったばかりだし、あなたにはいろいろとお聞きしたいことがあるのですが」
どうやらこのルノ・トロにとっては、跡目争いよりも自分の好奇心を満たす方が重要であるらしかった。
その後も、会談はだいたいルノ・トロのペースで進んだ。
ハザマが発する問いの三倍以上の質問を、ルノ・トロはハザマにつきつけてきた。
これまでの洞窟衆の働きについての詳細にはじまり、果ては異邦人であるハザマが来たという未知の天地についてまで。
そして、そうした諸々に対してハザマが答えると、身を乗り出すようにして熱心に耳を傾けた。
随分と好奇心が強い人間のようだな、と、ハザマはルノ・トロについてそう印象に留めた。
病弱であるというから、長く床についている期間に余計な想像力ばかりが育ったのかも知れない。
書斎であるというこの部屋においても、旅行記や戯曲などの塩賊の元締めらしからぬ非実用的な書物が本棚のほとんどを占めていた。




