ガンジガル王家の兄弟
「ええっと……」
さてその前後、彼ら兄弟の姉にあたる、ガンガジル王家のニライア姫がなにをしていたかというと……。
「……かくしてエ伯はス国王に契約の破棄と退位を迫り、しかるのちに自害をしたり。
直後にガンガジル王家のヘグレモリン王子と名乗る男がス国王を誘拐せり、と。
なにをやっているんでしょうかね、あの子は」
そういって草稿から顔をあげて、軽く顔をしかめた。
ひとりごとをいいながらも、手早く活字を拾って版下を作っていく。
この地で起こった出来事はかなり速やかに文章として起こされ、印刷に回されている。
そうして印刷された文書は、即座に各地へと運ばれて売られていく。
いわゆる新聞なのであるが、この頃では「時報」という呼称が定着しつつあった。
紙が貴重である故によほどの重大な事件が起こらなければ記事が一枚に収まるよう、文章量や文字数が調整してあり、たとえば、「エデチエル伯爵」は「エ伯」、「スデスラス国王」は「ス国王」などというように、頻出する単語などは独自の略号を使用して文字数を節約している。
ここ数日、暇を持て余していたニライア姫は見習いとして洞窟衆の出版部に出入りをしていた。
小遣い程度の賃金はともかく、元々出版事業自体に興味があるニライア姫は、まずはその身で体験することにしたのだった。
着用している前掛けの汚れが証明しているようにこれまでにいろいろな工程を実地に体験してきているのだが、この活字拾いが一番ニライア姫の気性にあっているらしい。
版下を仕上げるのが、他の活字拾いたちよりもずっと仕上がりが早く、間違いも少ないという評判になっていた。
幼い頃から大量の文章に触れてきたのが強みになっているのだろうな、と、ニライア姫自身は思っている。
記憶している語彙の豊富さ、知識の正確さということでいえば、生活に追われる庶民よりもやはり王侯貴族の趣味人の方に歩がある。
本人の能力というよりは生まれ育ってきた環境によるところが大きいから、自慢にもならない、とも思うのだが。
ともかく、ニライア姫は今日の出来事を一枚にまとめた時報の版下、そのすべての活字を手早く拾って組み、それを試し刷り班に手渡す。
活字は鉛でできていて、それを集めて箱に入れた版下はかなりの重量物となっている。
ついこの間まで本より重い物を持ったことがない王宮育ちにはちょいとした重労働であったが、今ではそれにもすっかり慣れてしまった。
怠惰なことで知られたニライア姫が自発的にこのような労働に従事している様子を見たらガンガジル王宮内の人々はかなり驚くはずであったが、現在、ニライア姫の周囲にはそうした旧知の知り合いはいない。
ここでは、ニライア姫は「ガンガジル王家の姫君」ではあく、無名に近い一個人でいられるだった。
そこで試し刷りしたものを校正し、間違いがなければそのまま印刷班に渡される手はずとなっていた。
そのままなにもなければ、明日の朝には印刷された時報がかなり広い範囲に発送され、この地で起こった出来事もおおやけに知らされるわけであった。
校正が終わるまで、活字拾いのニライア姫はしばらくこの場で待機をすることになる。
なにかの間違いが発見されるか、それとも記事の訂正や追加が入ればまた活字拾いの作業が発生するからだ。
「……ふう」
大量の活字が収納されている棚の隅に置かれている腰掛けに腰をおろし、ニライア姫は歩く息をつく。
いくさの結果や周辺諸国の将来など、ニライア姫はあまり関心を持てないでいた。
ガンガジル王家の慣例では女性に王位継承権はなく、政治向きのことに対して興味を持つような教育をされていない、ということが大きかったが、それ以上にニライア姫自身として、そうした事柄に興味を持てないのであった。
ニライア姫の興味はもっと個人的な領域に集中している。
「そちらはどうですか?」
そんなときに、テンロ教徒のメイムが顔を出した。
「いつもの通りです」
ニライア姫は答える。
「今は、校正待ちですね。
そちらはどうですか?」
「ちょいと大きな仕事が入ったんで、まとまった収入になりそうです」
メイムはそういった。
「精算は少しあとになるということでしたが」
「それはよかった」
ニライア姫はにたりと笑った。
「これで、また一歩夢に近づきましたね」
このテンロ教徒のメイムとニライア姫とは、出版事業を独自に開設するという夢を持った同志である。
それぞれ単独で目指すよりは、しばらくは二人で共同して動いた方がなにかと都合がよいと判断し、ふたりがかりで資金を集めはじめたところであった。
「ところで、この争乱も終わりが見えてきましたが、姫様は今後どうなさるおつもりですか?」
「できればこのまま、どさぐさまぎれに行方をくらましたいのですが」
王宮に帰ってしまったら、またそぞろ窮屈な生活に逆戻り。
ニライア姫としては、それだけは避けたかった。
「洞窟衆は匿ってくれませんかね?」
「頼めば協力してくれるかも知れませんが、かえって高くつきそうで」
ニライア姫は少し前に、自作小説の草稿を持ってそれを出版してくれるよう、頼みにいったことがある。
この野営地に着いてから執筆した、ハザマとアズラウスト公子をモデルにした作品を周囲の女性たちに回し読みをさせてみたところ、予想以上の好評を博したことに勢いずけられてのことだった。
出版部内での感触はかなり良好であったが、その上の役職者からすげなく却下される結果となった。
「確かにその作品を出版すればそれなりに売れるのかも知れませんが……」
数日前にこの野営地に着いたタマルという少女は、そう説明してくれた。
「ただでさえ紙が不足しがちだっていうのに、そんな娯楽作品に手を出している余裕はありません」
紙の供給量がもっと増えない限り、洞窟衆では娯楽作品にまで手を出している余裕はない、ということだった。
「では、紙の供給は今後、どれくらいで増える予定ですか?」
「現在、製紙工場を増やしている最中ですが、需要の伸びはそれ以上です」
ニライア姫の問いかけに対し、タマルは即答する。
「今後の趨勢については明言できませんが、しばらくは現状か現状以上の紙不足に悩まされることでしょう」
つまりは、ニライア姫の自作小説を洞窟集経由で広く一般に売り出すことができる可能性は、今の時点ではかなり少ないということだった。
洞窟衆が頼りにならない以上、自分の手でどうにかするしかない、というのがニライア姫が出した結論である。
夜間の索敵行為は、現実にはかなりの困難を伴う。
広い地域を見張らなければならないとあっては、なおさらに難しかった。
なにしろ、光源が極端に少なく、見渡せる範囲がかなり限定される。
使い魔を使用していても、その事情はあまり変わらなかった。それ以前に、夜間でも使用可能な夜行性の使い魔の数自体がかなり少ないのであるが。
『本当に来るのか?』
「わからん」
通信を介したヴァンクレスから問いかけに、ネレンティアス皇女が答える。
「ただ、来るとすれば今夜ではあろうな。
今夜のうちなら、こちらはなにかと混乱している」
大量に出た負傷者の救助作業が、夜を徹して行われている最中であった。
大半の人員はそちらに振り分けられており、周囲を警戒している者は少ない。
実際にガンガジル王国軍が襲ってくるとすれば、今夜を十分な好機と見なすだろう。
「昨日の時点で、まとまった数のガンガジル王国の騎兵がスデスラス王国軍から少し距離をあけてつけてきていることは確認している。
それに、スデスラス王国を拐かしたとかいうヘグレモリン・ガンガジル王子の件もある。
警戒すべき根拠は十分にあるな」
そのガンガジル王国の騎兵たちの所在地は、今日、すべての使い魔をスデスラス王国軍に振り分けたため見失っている状態だ。
そのため、どの方角から来るのか、それとも来ないのかわからず、こうしてスデスラス王国の兵士だったものたちがたむろしている周囲を警戒する必要ができたわけだった。
かなり広い範囲を見張る必要があったため、足のある騎兵が距離を置いてその目で見はり、何事が異変が起これば連絡をしあってそちらに集合する、という受動的な体制しか取れない。
『やつらの総数は?』
「最後に確認したときは、二万前後だった」
『こちらが万全の体制だったら、どうということもない数だな』
現存するガダナクル連邦の兵士だけでも十分に対応できる程度の兵力でしかなかった。
それに、元スデスラス王国軍の兵士たちのうち、健在な者たちにも協力を呼びかければ、軽く一蹴できるだろう。
「しかし今は、こちらは気が抜けている状態だからな」
ネレンティアス皇女は、そう指摘をする。
「実際に敵襲があったとして、果たしてどれだけの人数が即応してくれるものか」
『昼間、あんだけの兵士が動いていたじゃねえか』
「その兵士たちは今は、戦勝の宴で浮かれていることだろうよ」
ネレンティアス皇女はそう指摘をする。
「なにしろ、戦力比十倍の敵軍を退けた直後だ」
『今動いているのは、おれたちみたいな余所者ばかりということか?』
ヴァンクレスの声が、笑いを含んだ。
『それはそれで、暴れる甲斐がありそうな状況だな』
「いや、無茶でしょう」
ブラバニア男爵は断言した。
「昼間のいくさで疲弊しているとはいえ、ガダナクル連邦側もスデスラス王国側も、まだまだ十分な兵士が健在です。
たかが二万ほどの騎兵でその中に突撃をかけるなど、自殺行為もいいところです」
このブラバニア男爵は、以前には混合軍司令部への使節団長を勤め、最近ではスデスラス王国軍を敵野営地のある場所まで案内をする役割を終えたばかりであった。
つまり、両勢力の実体をその目で見てきた、ガンガジル王国の中では数少ない人材である。
「兵力だけではなく、双方、その練度と士気の高さにおいても、とうてい侮れるものではありません。
これ以上の損耗を避けるためにも、どうか思いとどまりください」
「そちの諫言、まことにもっともだと思う。
わたしとしても、その諫言に従いたいところだ」
そのブラバニア男爵の言葉を、ダズモニル王子は厳粛な表情で受け止めた。
「しかしだな、ブラバニア男爵。
それでは、ここまで率いてきた兵たちがとうてい承服しないのだよ。
一連の争乱において、われらガンガジル王国はやられる一方ではなかったか」
三ヶ国方面への派遣軍は散り散りになり、領土の北半分はガダナクル連邦に取られ、果ては、王都と王城をいいように蹂躙された。
それだけの被害にあいながらも、戦利品と呼べるものはなにひとつとしてない。
確かにな、とブラバニア男爵は思う。
「つまりは、このままなにもしないままでは、兵たちの気が済みませんか?」
「そういうことだ」
ダズモニル王子は渋い顔をして頷いた。
大局を見て取ることができない、下級兵士たちの不満を慰撫するために、あえて勝算のない奇襲をかけなければならない。
これは、悲劇なのだろうか、それとも、喜劇なのだろうか。
ブラバニア男爵はダズモニル王子との面会を終えたあと、配下の魔法兵を呼びつけ、王都への緊急の伝令を出した。
ガンガジル王国側の騎兵とガダナクル連邦側の騎兵が接触したのは、夜が明けるまでまだしばらくの時間を要する早朝のことであった。
近づいて来たガンガジル王国の騎兵を見つけたガダナクル連邦側が、急遽兵力を集合させて、なんとかガンガジル側に対抗できるだけの兵力をかき集めた形となる。
明け方の冷え込む空気の中、両軍は至近距離でにらみ合う形となった。
「今、こちらを攻めてもそちらには利がないぜ」
ちょうど近くに居合わせたヴァンクレスが、馬上で叫んだ。
「おれたちを突破できたとしても、その背後にはお前らを十分に全滅できる戦力が控えている」
これ以上の戦闘行為は無駄だから、このまま引き返せと、そういうわけだった。
「ご指摘、痛みいる」
ダズモニル・ガンガジル王子が馬上からそう応じた。
「もっともな意見ではあるが、こちらにも意地というものがありましてな。
このまま引きさがれる道理もなく」
「くだらねえ!」
ヴァンクレスは、吐き捨てるように叫んだ。
「意地で命を捨てようってのかっ!」
「確かにくだらないとは思いますが、そうせずにはいられない者たちもこの世には多いのですよ」
ダズモニル王子は冷静な口調で説明をする。
この大男は、少なくとも名のある家柄の出ではないな、と、そのように思った。
貴族や王族であれば、対外的な圧力に対してなにもせずに受け入れることの危険性を知っているはずなのだ。
外向的な見地からみれば、ときとして、配下の者や手勢が舐められることの方がずっと危険なのだが。
なお、このときに両名は名乗りあうことはなかった。
「なら、やるんだな?」
「やるしか、ありません」
互いの意志を確認しあい、両軍に突撃の合図を送ろうとしたまさにそのとき。
睨みあう両軍の間に、唐突に人影が出現した。
「待て!」
寝間着に近い部屋着を身にまとい、顔の下半分に包帯を巻いた若い男が、大声を張りあげる。
「双方とも、矛を収めよ!
もはや、これ以上の争いは無用!」




