入浴の重要性
「こちらでは、湯浴みの習慣はありませんか?」
「まるでないということもないのだが、あまり一般的ではないな」
ナイゼルはもっともらしい顔をしてそういった。
「大量の水を汲んでくる、わざわざ燃料を消費してそいつを温める。
つまり、手間や費用がかかる。
たかだか体を洗うためにそこまでする、いや、することとができるほど余裕がある者は限られている。
水や燃料自体が貴重な地域も多い」
「つまり、湯浴みができるのはごく一部の金満家や王侯貴族に限られているわけですね?」
ハザマは、そう確認する。
「だいたいのところ、そんなもんだろうな」
ナイゼルも、ハザマの言葉に頷いた。
「普通は、もっと優先されるべきものに金や手間をかける」
「そいつはよかった!」
ハザマは、少し大きな声を出した。
「銭湯が実用化できれば、そうした上流階級の気分が味わえるってことになる。
それだけで充分に売りになる!」
「……まあ、事業としてみれば、そうなのかも知れんが……」
ナイゼルは、複雑な表情をした。
「維持費は、それなりにかかるぞ?
いいかえれば、入場料もそれなりの金額に設定しないと、元がとれん」
「ああ。
その辺は、まず大丈夫です」
ハザマは大仰な動作で頷いてみせた。
「適温の湯にどっぷり肩まで浸かる。
この快楽を知ったら、たいていの人間は再度経験したくなります」
あのリラクゼーション効果は習慣性があり、それに民族性や文化などにも限定されることがない、普遍的なものだろう……と、ハザマは思っている。
「……そんなにか?」
ハザマのはなしぶりを聞いて、ナイゼルが逆に興味を持ってきた。
「論より証拠。
一度経験してみれば、はっきりしますよ」
ハザマはしたり顔で、そういう。
「帝国領には、温泉とかはないのですか?」
「温泉、か」
ナイゼルは難しい顔になった。
「はなしに聞いたことはあるが、実際に見たり体験したことはないな。
帝国の領土には、そもそも大きな山地が少ない。
温泉というのはあれだろ? だいたい、火山の近くにあるものだそうだし……。
むしろ、この近くの方が身近なのではないか?」
そういって、ナイゼルは漠然と上の方を指さす。
いわれてみれば、山地では硫黄が産出し、山岳民は火薬を作っている。
これまで確認したことはなかったが、山岳民の方が温泉に馴染んでいるのかも知れなかった。
だとすれば、銭湯の宣伝や入浴習慣の普及も効率的に行えそうだな、と、ハザマは思った。
「とにかく、一度施設を作ってしまえばこっちのもんです」
ハザマは、そう受け合った。
「完成品がちゃんとしたものなら、閑古鳥が鳴いて赤字になるってことはあり得ません」
「まあ、資金を出す男爵様がそういうのなら、おれからはなにもいうことはないけどな」
ナイゼルは、なんとも微妙な顔で頷く。
「そのボイラーって仕掛けについては、特に複雑な代物でもなかったので弟子に任せている。
詳細な進捗状況とかについては、そっちに聞いてくれ。
それよりもだな、男爵様よ。
荷揚げ用のクレーンかリフトを作ってくれという依頼が現場方面から来ているのだが……」
「クレーンですか?」
ハザマは聞き返す。
「初耳だ」
「ボバタタス橋の前後の川面に接する部分はかなりの高さがある。
これは、知っているな?」
「ええ」
ハザマは、頷いた。
「あそこいらへんに起重機を設置して、船から直接荷を吊りあげるような仕掛けができないか?
とかいう問い合わせが来ているんだ」
「実際には、できそうなんですか?」
「理論上は、できる。はずだ」
ナイゼルは、なんでもないことのようにいった。
「ただ、吊り上げる際に使用する綱がどれくらいの重さにまで耐えきれるかによって、起重機の大きさも違ってくるのだがな。
基本的には、荷を吊った状態で綱が弛まないような機構を作っておいて、あとは人力なり家畜なりをつかっていっちらおっちら綱を引っ張って引き上げる、とか、そんな単純な仕掛けになるはずだしな。
負荷や耐久度の検証にいくらか時間を取られるかも知れないが、機構自体は単純でそんなに難しいものでもない」
「それ……」
ナイゼルのはなしを聞いたハザマは、ぼんやりと呟いた。
「……綱、では弱すぎるから、ワイヤーロープ……は、流石に無理か。
せめて、チェーンにできませんかね?」
「鎖か?」
ナイゼルが身を乗り出した。
「そんな丈夫な鎖を作ることが……あ。
ここには、ドワーフがいるんだったな」
「そう」
ハザマは頷く。
「その手の工夫は、とりあえずドワーフの人たちに任せておけばいいんです。
こちらが要求する性能について説明しておけば、とりあえず、最上の品質のものを作り出してくれますから。
それ以外にも、なにか金属関係の相談事があったら、とりあえずドワーフの方に相談してみた方がいいですよ。
そうすれば、あっさりと解決する可能性が高い」
それ以外に、二、三、ハザマが以前に書いた覚え書きを元にした問答をしてから、ハザマはナイゼルの元を辞した。
ナイゼルには通信用のタグを渡しているので、緊急性が高い用件があるときは直接ハザマを呼び出してもよい、という許可も与えている。
必要な材料の手配など、日常的な用件はたいてい洞窟衆の誰かに告げさえすれば手配してくれるはずなので、実際にはナイゼルが直接ハザマが呼び出す機会は少ないだろうが。
それでも、いざというときに直接に対話ができるという保証を与えておけば、直に対面する時間をあえて取る必要もないのだった。
小屋の外に出たハザマは、周囲の様子を改めて確認した。
「……なにもないな」
そんな呟きが、口から漏れる。
商用地区、と称されることになった、ハザマ領の一部。
現在では邪魔な草木は始末され、地面が剥き出しになった広い土地に過ぎない。
建造物といえば、ポツンポツンとかなり距離を置いて点在する粗末な小屋の数々。
それにやけに背が高い風車が、やはり距離を置いてあちこちに設置されていた。
隣接している居留地方面は、今は、道路の舗装や建物の土台部分の施工をしている段階だった。
やはりというか、以前から計画があったむこう側の方が、こちらよりも先に進んでいる。
こちら側も、整地や溝堀りなどの人夫が多数働いているので、実際の建造物は乏しいものの、決して活気がないわけでもないのだが……。
とりあえず、ハザマは風車を検分してみることにした。
一番近くにあった風車の近くに移動したハザマは、その風車を見あげた。
「……想像していたよりも、大きいな」
その風車は、まだ実験段階ということもあって、丸太で骨組みを組んだだけの簡素な構造物によって支えられている状態だった。
そのおかげで、シャフトや歯車の組み合わせでポンプらしき物体に回転力を伝え、その物体からとどめなく水が出てくる様子までそのままで観察できる。
ポンプらしき物体には覆いがかかっていたので内部の様子まではわからなかったが、そこから出てきた水が樋を伝わってすぐそばに置いてあった大きな樽に溜められていく様子まで、肉眼で見ることができる。
「全高が二十五ヒロ前後、風車の直径が七ヒロ前後。
それ以下の大きさだと、風車を回してもそんなに多くの水を汲みあげることができずに効率が悪いそうです」
ハザマの呟きに、クリフが答えた。
「それに、せっかく汲みあげた水もある程度高所に置いておかないと今度は配水するときに困りますから」
水は高いところから低いところへと流れていく。
貯水槽を設置する位置も、ある程度高い場所にしておかないと意味がない、というわけだった。
「そうなると、貯水槽の位置も高くしないといけないわけか……」
ある程度の水を高い位置に溜めておく……となると、それなりに頑丈な土台も用意しなければならない。
水は、意外に重たいのだった。
「そうそう。
そのための貯水槽を作るのが間に合わなくてね」
不意に、背中から声をかけられる。
「とりあえず、排水量の計測だけは続けているわけだけど。
失礼ですが、あんたがハザマ男爵さん?
ま、トカゲを肩に乗っけた若い男がそんなに居るわけもないから、人違いってこともないよな。
おれは、ナイゼル組のハムシュ。
帝国領はドルドの出身だ。といっても、わからんか。
とにかく、ナイゼルの親方からは水回り全般の仕掛けを作って見ろと命じられている」
三十がらみの、浅黒い肌をした男だった。
「ご明察の通り、おれがハザマ男爵だ」
ハザマはそう名乗った。
「で、この水車とポンプの方は、問題なく動いているの?」
「まったくないね、問題」
ハムシュという男は、感心した口調でいう。
「呆れるというか、なんというか。
ハザマ男爵の乱暴なメモを見て、その場でさっさと図面を起こしちゃう親方も親方だが、その図面をみて寸分の狂いもない部品をいくらもしないうちに作りあげちゃうドワーフもドワーフだ。
たいていの場合、うちの親方の要求する水準の品がなかなか仕あがらなくて、そこで悶着を起こすもんなんだが……。
いやはや、ドワーフってのは、噂には聞いていたが凄い腕を持っているもんだな。
なにか発注するたびに酒盛りにつき合わされるのは閉口するんだが……」
「問題がないということは……」
ハザマは、ハムシュに確認をする。
「……風車による給水システムは、このまま量産できるわけだな?」
「はいはい、量産ですね」
ハムシュは、頷く。
「そうですね。
現状、ポンプ部とか風車の部材はそれなりに数が揃っています。
おおむね、二百以上の風車がすぐさま稼働できるくらいの部品は、あります。
すべて実験段階のもので、まだまだ細かい調整や改良は必要だと思いますが。
まあこれも、実際に稼働させてみないとわからないところとかも多いので、このままどんどん設置して様子をみながら改良していく方がいいでしょう。
あとは、汲みあげるべき水源の確保と、それに、さっきいった貯水槽の問題。
本当は、最初から建物の屋上にでも設置しておけば一番いいんですが。
あ、もちろん、その建物自体が、水の重量にも耐えられるような設計になっていることが前提ですよ」
「その貯水槽が、間に合わない、と」
ハザマはそういって頷いた。
「なにせ、はじめて作るものですからね」
ハムシュはそういって肩をすくめた。
「職人たちも、戸惑っているわけですわ。
水に強い木材で大きな箱状の物体を作って、タールかなにかで防水塗装をして、と。
ただでさえ、この建設ラッシュで材料が入手しづらくなっているっていうのに……」
「状況は、わかった」
ハザマは頷いた。
「そっちは、無理がない程度に頑張ってくれ。
で、水回りの担当ってことは、ボイラーもあんたが担当なのか?」
「ええ、そうですが」
ハムシュはあっさりと頷いた。
「ただ、銭湯とやらに関しては、建築さんとか配水関連とか、関連する部署がやたら多いんで、完成を急げっていわれてもすぐには……」
「いや、その辺の事情はなんとなく想像ができるから。
別に、急かすつもりはない」
ハザマは、ハムシュの言葉を途中で遮る。
「それよりも、ボイラーの試作品とかはまだ完成していないのか?」
「……ええっと……」
ここではじめて、ハムシュは躊躇いをみせる。
「一応、実験用の小さなものでしたら、使えないこともないです。
燃料がどれくらい必要になるのか、とか、計算するために作ったものなんですが……」
「その実験用のボイラーとやらは、どれくらいの量の水を沸かすことができるんだ?」
ハザマは、詰め寄った。
「理論上は、時間さえかければどんな量の水でも温められるはずですが……。
そうですね。
湯が冷める前に、とか、実用的なところを考慮するのなら、酒樽くらいは充分に……」
「そうか」
ハザマは頷く。
「それでは、その樽風呂の実験をすぐにでも準備してくれ。
風呂の有用性を関係者に納得させる必要があるからな。
給水や配水の都合もあるだろうから、場所の選定はそちらに任せる。
必要な物があったら遠慮なくうちの物に請求してくれ。
それで、実験の準備が整ったら、誰よりもはやくおれに知らせること」
「そりゃ……そういうご注文でしたら、従わないわけにもいきませんが……」
ハムシュは、ハザマに聞き返す。
「なんだってそんなに急ぐんですか?」
「決まっている」
ハザマはそういって胸を張った。
「おれが、一番風呂に入りたいからだよ」




