卓上の戦場
使節団三十名のうち宮廷料理人は三名でしかない。
饗応の場に出すのに恥じないだけの食材とともに王都より戦地へ転移してきたわけだが、彼らは現地の料理人を助手に使い、夜通し仕込みをしていた。
どんな場であろうとも常に最高の料理を出し、王国文化の粋を客人に誇示するのが彼らの仕事である。
場合によっては彼らの料理が国政や外交を左右することさえある……と、少なくとも彼ら自身は自負している。
その夜、天幕の外では獣と王国軍の兵士たちが血みどろの戦いを繰り広げていたわけだが、彼ら宮廷料理人は、彼ら自身の戦場で腕を振るっていた。
ボバタタス橋。
過去、幾度となく争奪の対象となり、そのたびに夥しい血を流してきたこの橋も、今では死体を運び出され、血糊もきれいに洗い流されている。石に近い質感の、しかし、万年単位、風雪にさらされてもまったく損傷する気配がない謎物質で構成されたボバタタス橋は、水で流すだけでたいしていの汚れを落とすことができた。そのため清掃作業は楽といえば楽であったが、それで実際に作業にあたる者の気持ちが楽になるというものでもなく、また、洗い流されるたびにその排水は結局川に流され、朱の色を濃くしていった。
そうして奴隷や志願兵などが総動員され、両国の首脳が対峙するのに相応しい舞台が整えられようとしていた。
慣例として昼餐会が行われる日は夜明けから仮初めに休戦状態に入ることになっており、双方の軍は互いに相手を攻撃することができなくなっていた。そうでなくとも、ルシアナの子らがあっさりと蹴散らされた時点で、山岳民連合側はそれまでにかなり被害を出していたこともあり、かなり戦意を喪失していたわけだが。
中央委員の一人、ホマレシュ族のアリョーシャは、トンネルの中に残っていた焼け焦げた仲間を死体を始末するよう指示を出したあと、ルシアナの子らが壊滅する様子を目撃した弓兵隊たちの証言に耳を傾けていた。
「アズラウスト・ブラズニアとブラズニアの魔法兵団、とそのように名乗ったのだな?」
「は。
確かに、そのように」
「……魔法兵団、か」
理論上、そのような兵が存在することは可能である。山岳民連合の間でも研究された時期もあったし、他の諸国も同じようなものだろう。
ただし、そこまで様々なことができる兵を、それもある程度数を揃えて育てるには、その育成にかかる人手や年月、それに費用などを勘案すると、よほどの働きをしてくれなければ到底、割に合うものではない。そのような理由で、実行に移される前に却下去れ続けていた存在だった。
たとえば山岳民連合では、そんな特殊な魔法兵に頼らずともルシアナの子らをうまく運用することで似たような仕事をさせることができたし、他の国でもそれなりに特殊な技能を持った者は存在する。わざわざ膨大なリソースを費やしてそんな特殊な部隊を創設する意味が薄いのだった。
にもかかわらず、そんな部隊が現れたとするのならば、その背景にあるのはある種の妄執、採算を度外視した執念、みたいなものがあるはずだった。
そのブラズニア家のアズラウストという男が、採算を度外視して湯水のように金をかけ、はじめて実現する類の部隊を実現したことに、今、それが目前に現れたことを、どのように評価すべきなのか。
いや、そのことを考えるのは、あとにしよう。
今はもっと、差し迫ったことを考えなければならない。
ルシアナの子らは確かに王国軍に対して膨大な損害を与えることに成功した。が、代わりに彼ら自身は離散の憂き目にあった。死体が残っているのは首を断たれた戦闘伝令師のトグオガだけだが、そのほとんどが惨殺され、あるいは行方不明の状態である。
所在が知れなければ責任を問うこともできないし、なにより、あとの働きに期待することも不可能だった。王国軍が魔法兵団というかなり万能に近い駒を持った今、それに対抗できる者がいるとすればルシアナの子らだったはずだが、その肝心なルシアナの子らが真っ先に潰されてしまった、というのが現状だ。
つまり、今の山岳民側には魔法兵団への対抗手段がないのだった。
停戦直前までの時点で実際に被った被害は王国側の方が多いが、近い将来に想定される選択肢は山岳民側がほとんど刈り取られている。少なくとも、軍事的には。
だったら……と、アリョーシャは考える。
外交では?
こちらの方も、かなり望み薄だった。
なにしろ山岳民連合は、これまでに近隣の国々をいいように略奪してきた経緯がある。相手方にかなり割のよい、いいかえれば、山岳民側にかなり割が悪い条件を提示しなければ、まともな同盟関係を結ぶことさえ望み薄だろう。それ以前に、今日の昼餐会には間に合わないわけだが。
アリョーシャには、王国の出方がかなり容易に想像ができた。
軍事的な優位性を誇示し、それに、かなり高い確率で、山脈を取り囲む諸国との同盟関係を取りつけ、その包囲網で威嚇して、山岳民側にかなり不利な条件を押しつけてくる。アリョーシャが敵の立場だったら、必ずそうする。
アリョーシャは、つまりは山岳民側は、これからそれに対抗して自分たちの権益を守らなければならない立場であった。
状況は限りなく不利であったが……とりあえずは、配られたカードで最善を尽くすしか道はなく、アリョーシャは打開策を求めて悩み続ける。
マニュルが放った夥しい獣たちも夜が明ける頃にそのほとんどが駆逐されていた。
しかし、だからといって駆逐された獣がいきなり姿を消すわけもなく、王国軍野営地の空気はなんとも金臭い匂いを含んでいる。
金臭い?
いや、もっと端的にいってしまえば、それは、血の匂いだった。
少なくはない兵の、それに、もっと多くの獣の血の匂いが、あたりに満ちている。
天幕から一歩出て、その匂いの正体に気づいたとき、ヒナアラウス公子は手で口を押さえて吐き気をこらえた。
「ヒナアラウス公子」
バグラニウス公子が、静かな口調で咎める。
「さきほどマヌダルク姫もおっしゃっていたように、われらの足下は常に他者の血で舗装されているのです。
今さらこの程度の流血で臆して貰っては困ります」
「……はっ」
血の気の引いた顔色をしながら、ヒナアラウス公子は短く頷いた。
「それでは二人は、お客様をお連れしてから来てください。
わたしは一足先に会談の場へ先行しています」
バグラニウス公子はそういって官僚たちを率いてボバタタス橋へとむかった。
夜明けからいくらかの時間が経過し、ボバタタス橋の掃除も一段落した頃、トンネル入り口付近に数十名の人員がまとめて転移してきた。山岳民側の使節団……とはいっても、中央委員であるアリョーシャよりも上の立場の者はおらず、文官や昼餐会に必要な料理人たち、転移魔法が使える高位の魔法使い数名に伝令師など、下働きの者たちがほとんどであった。この件はホマレシュ族のアリョーシャに一任されており、それはつまり、中央員の中でもこの事態をアリョーシャ以上にうまくまとめられる者はいないと判断されていることを意味する。
料理人たちは、食材や調理器具、半ばまで完成した料理などを携えていた。昼餐会という外交の場は、同時に両国の文化的な優位を誇示するための舞台でもある。両国の料理文化の精髄を差しだし、食べ比べを行いながら会談するのが慣例となっている。会談に望む両国首脳部は、会談の際には料理の味など気にする余裕もなくなっているのだが。その料理もかなり大量に作り、正式になにがしかの結果が出たそのあとは、残った料理は両軍の将兵に振る舞われることになっていた。
到着早々、忙しく働きはじめる文官や料理人たちからいち早く離れた人影があった。
女性の、伝令師だった。
その人影は近くの兵士に声をかけ、二、三、短いやりとりをすると、すぐにトンネルの外に出ていく。
そこでも何度か同じように声をかけながら移動し、そしてついに死亡した兵士の遺体が安置されている場所まで到着した。
「……だっさっ」
しばらくして、そこで目当ての遺体を捜し当てた女性は、その遺体の首が断たれていることを確認し、低く呟いた。
「……普段から、戦闘伝令師だとかうそぶいていて、この有様。
ったく、ざまないね、トグオガ」
内容の割には、しんみりとした口調であった。
「マニュルもマイマスも、バツキヤも行方知れず、か。
うまく逃げ延びているといいけどな……」
状況から見て、この三人以外の生存はほぼないであろう、と、いわれている。
仮に逃げることに成功していたとしても、山岳民連合が所在を把握していないということは、その先は捕虜か浮浪者になるくらいしか未来図が思い浮かばない。
それでも、命があるのならばマシというものだった。
「ルシアナの子らも、こうしてどんどん抜け落ちていくんだろうなあ。
これから……」
まだ日が高くなる前に、ボバタタス橋上において、最初の会談が行われた。
山岳民連合側からは、ホマレシュ族のアリョーシャ中央委員、王国側から、グラウデウス家のバグラニス公子が出席し、両者の背後には文官や官僚たちがうやうやしく控えていた。
「まずは昼餐会を開催することに賛同してくださったことに、お礼を」
昼餐会を催すことを提案した側のアリョーシャが、口火を切る。
「早速ですが、この会談の目的を確認させていただきます」
「どうぞ」
短く返答して、バグラニウス公子は先をうながす。
「この昼餐会は、こたびの国境紛争の停戦条件を両国で確認することを、まず第一の目的とします」
「よろしいでしょう」
バグラニウス公子は、また頷いた。
「ただし、この昼餐会を望んだのが山岳民側であることを、忘れないでください。
われわれ王国側は、必要とあればまだまだ戦えます」
そういってバグラニウス公子は、手振りで自分の背後を示す。
そちらの方向にある川岸では、巨大な投石機が組み立てられている最中だった。
橋の中央にある会談の卓上からも、その姿は視認できるはずだ。
「王国の方は、なにかと性急ですね」
アリョーシャはそういいって、微笑んだ。
「停戦を求めたのは、確かに山岳民側です。
ですが、その請求はこの地の戦況によってもたらされたわけではありません。
そちらでもすでに把握していると思いますが、長らく山岳民連合を支えてきた大ルシアナが崩御しました。
その影響で、早急に連合の基盤を立て直す必要があったため、ここの兵も引きあげたかったのです」
「それは、山岳民側の事情ですね」
バグラニウス公子の表情は動かなかった。
「われら王国は、侵攻してくる山岳民軍を退けていた側です。
そちらの都合で国境の突破をはかり、都合が悪くなったら引き上げる。
そんな無法をそのまま認めてしまっては、こたびのいくさで散っていった者たちが浮かばれません」
「その点は、わきまえております」
アリョーシャは、平然とした顔で続けた。
「山岳民側は、相応の賠償金の支払いに応じる用意があります」
もともと、山岳民連合は、大陸でも有数の金属資源産出国なのであった。貴金属を支払うことでこの急場がしのげるのならば、多少、不利な条件であっても呑んでよい……と、アリョーシャは他の中央委員からあらかじめ言質を取っていた。
「賠償金の支払いは、当然ですね。
それ以外に、王国側は領地の分割を求めます」
そういってバグラニウス公子は片手を振って控えていた官僚に合図をし、一枚の地図を持ってこさせた。
その地図の内容をアリョーシャに示した上で、
「このような領土の分割と、それと併せて賠償金金貨五十億枚。
それが、王国側が今回の会談で山岳民側に求めるものです」
流石のアリョーシャも、しばらく地図を見て固まってしまった。
「……これは、あまりにも、無体な……」
数秒後、なんとか動き出したアリョーシャは、ゆっくりと言葉を押し出す。
「これは……過去の例からみてもかなり逸脱した、過大な要求ではないですか?」
「この程度で山岳民連合の未来が買えるのならば、むしろ安いのではないでしょうか?」
バグラニウス公子は、無礼を承知で質問に質問で返した。
「王国側は、今回の会談は単なる国境紛争解決のためのものとは見なさず、大ルシアナ亡きあとの新たな国際秩序策定のための会談であると位置づけております。
すでに、ルエナ公国、バットキルア、ハイナンザス、ドリシア、ガッドラッド、ドンナルハラ……など、各国との通商条約も締結し、戦後にはトンネル出口周辺に土地に各国の居留地を置くという構想もあります」
バグラニウス公子があげたのは、すべて、山岳民連合の周辺にある国名であった。この場で、バグラニウス公子は、事実上、山岳民を包囲する条約が締結されていることを明示したことになる。
「今回の賠償金のほとんどは、そうした居留地の建造に費やされることでしょう」
それだけ多くの国の民が一カ所に集まるようになれば、各国の交流は否が応でも増す。商売も活発になるだろうし、それ以上に、山岳民連合は居留地周辺で兵を動かしにくくなる。
その居留地周辺で兵を動かせば、否応なく複数の国家を刺激し、開戦の口実を与えてしまうからだ。
ルシアナの崩御からいくらも経っていない今の時点で、そこまで周到な絵図を描き、実現させる王国の外交手腕に、アリョーシャは内心で舌を巻いた。




