ホームルーム「女子高生、届かぬ距離」
はやくも番外編です。
(見ている人がいるなら)本編とはあまり関わりのない内容なので、読んでも読んでいなくとも問題はないようにいたしますです。
成人男性の平均身長は現在一七○とちょっと。
正確な数値は知らないけれど、花見大悟さんはそれよりほんの少しだけ高くて、あたし、射場羽々音はその平均身長とおんなじくらいだ。
数年前、姉の結婚式で会ったあの人はとても大きく見えたけど、今は身体的にはとても近い。並んで、距離が縮まったことを感じて、理屈じゃなく嬉しくなる。
大悟さんはイヤそうな顔をするけれど、一番成長を感じられるのは、この瞬間かもしれない。
でも、あの時よりも心の距離はずっと遠くなった気がする。
姉との関係は、あの涙が証明してくれた。他人以上に、自分のことをよくわかっていない人だから、たぶん気づいてることには、気づいていないだろうけど。
もしもあの時、姉さんと結婚するのが鴨目家の御曹司ではなくこの人だったら、姉さんはどういうことになっていたのだろうか。そしてあたしは……?
想像はつかないけれど、なんとなく予感はある。
あたしはきっと、あの時出会っていなくとも、いつかはあの吸い込まれるような泣き顔に、会えていたのだと。
■■■
いつも五時きっかりのアラームで、目が醒める。
軽いストレッチの後で寝間着代わりのジャージを脱いで、制服に着替えて、台所に下りる。
エプロンをつけて朝食を整え、そして最後にコーヒーを淹れる。
そこに二人の男の人が下りてくる。
振り返り、笑顔で応える。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
朗らかに笑いかけるのが、あたしの父、射場重藤で、
「……おはようさんです」
明らかに不機嫌なのが、あたしの家庭教師、花見大悟さんだ。
この人が、今日から再び、あたしの教師になってくれる。
そのことを考えると、とても嬉しくなる。
そのことを考えるだけで、幸せになれる。
■■■
それぞれの席について、朝食を食べる。
「いただきます」
「いただきます」
「まス」
フレンチトースト、アスパラとベーコンの炒めものに、レタスのサラダ。
ウチの食卓を管理するのはあたしで、だいたいは洋食が多い。
そこに必ずなくてはならないのが、コーヒーだ。
あたし、射場羽々音の朝食には、必ずエスプレッソがつく。
父はミルクを足し、大悟さんは猛然と砂糖を入れる。
苦いものを前にして、それぞれの在りようが顔を出すのが、とても楽しい。
あたしは、砂糖を底に沈ませて、飲み干した後にデザートにするのがとても好きだった。
時々、大悟さんが二杯目を頼むことがある。あたしはそれに応じて大悟さんの好みの量で砂糖を入れる。
体調や気分で調節はするけれど、今のところ、手応えがなかったことはない。
それを一口飲んで、大悟さんは息をつく。しかしすぐに気恥ずかしそうな顔で目をそらす。
それがたまらなく、かわいかった。
大悟さんがあたしたちの教師、そして『識札』を操り『識』と戦うあたしたちの導き手となることを承諾して二週間。
それから倒した『識』は計三体。
大悟さんの初陣の際のような激戦も、『キッペー先輩』の妨害もなく、スムーズに済んだ。
いつの間にか桜の咲く季節だ。
「大悟さんっ」
「ん?」
準備でもあるのか、早めに家を出ようとする彼を、私は玄関先で呼び止めた。
「せっかくですから、一緒に行きませんか?」
……彼は、いやな顔をした。
というよりも、花見大悟という人はいつも眉間にシワを寄せて、不機嫌そうな顔をしている。
だけどその表情の中には嬉しい気持ちがあったり、悲しい気持ちがあったりするのを、あたしは誰よりも知っていた。
今は……たぶん困っているだけだ。
あたしはもう登校の準備ができている。その様子を察した大悟さんは「好きにしろ」という言葉の代わりに、無言で手を振る。
「羽々音」
その声に振り返ると父が居る。
前髪の天命は尽きようとしているし、ぼつぽつ白いものが後ろ髪に混じり始めた。
すでに外に出た大悟さんをはばかるように声をひそめ、父は言った。
「最近、どうだ? 大悟くんに変わったところはないか?」
「……どうだろ。ああいう人だから」
と肩をすくめて言うあたしに、「嬉しそうに言うなぁ」と感心する。
笑ってごまかしているが、あたしはあの人が何をしているのか、薄々気づいている。
けれど、それを父に報告するのは、はばかられた。
「結局お前は射場の人間なのか」
……そう、大悟さんに言われるのは、とても怖い。
姉さんも父も、あの人には心ならずもひどい仕打ちをしている。その同じ道を、進みたくはなかった。
現に大悟さんは、あたしのことを完全には信用していない。
確かに『識』へのトドメとか、重要な仕事を任せられることはあるけれど、力量を評価するのと、人格を信用するのとでは、まったく別問題だろう。
「とにかく、彼の動向に警戒しておいてくれ。彼に取り入り、信用を掴め。助言を求められたらこちらの都合の良いように動かす。……ああいう男だから、手綱を持つ人間が必要なんだ」
「大丈夫だよ。父さん。あたし、言われなくても大悟さんと一緒にいる」
そう言ったけど、手綱で引けるような人間じゃない。
一度動き出すともう留めようがない、それが花見大悟だ。
■■■
「うわっ、チンピラみたい」
開口一番そんなとんでもないことを言ったのは、あたしの親友で同じく『識』を追う仲間、しーさんこと村雨雫だ。
彼女の指と視線の先には、不機嫌そうな大悟さんが立っていた。
紺色のジャケットの下に、黒いシャツ。ネクタイはない。濃いめの色のサングラスで顔を隠しているが、にじみ出るのはしーさんへの恨み。
服装の違いは当然あるけれど、このサングラスは外出の際には欠かさない。
オシャレの小道具、ではない。つけてる理由も、あたしはだいたい察している。
しーさんは若手女優という肩書きもあるけれど、同時にあたしたちの仲間で、『識』の構築者でもある。
あたしがあげた『識札』によって。
このことをしーさん本人の口から聞いた時、大悟さんは露骨にイヤそうだったけど、言い訳させてもらうと、彼女に『識札』を渡した時、それがどういうものか知らなかった。
その後、あたしが『識』を構築し、しーさんが遅れて。
多少の後ろめたさがあるけれど、真相を知ってもしーさんははしゃいでくれているので、救われている。
父に関しては、色々含むところはあるけれど、そのおかげで大悟さんをこの地に呼ぶ口実もできたから、おあいこだ。
さて、このしーさんと、大悟さん。
「そーそー! ハナミン、昨日あたしテレビ出たんだけど、見てくれた?」
「ああ、鼻にキュウリ突っ込んで全裸でスキーしてたよな」
「あー、それテレビかハナミンの頭のどっちかがイカれてんだと思う」
「つーか、役者がテレビごときではしゃぐなよ」
「わかってないなぁハナミンは。見る方は気軽だろうけどテレビに出られるって、大変なんだよ?」
「いや、お前なら顔出すだけで取り上げてもらえるだろ。何しろ人間かもわからん怪生物だからな。二ヶ月くらいはお茶の間を賑わせられる」
「人をチュパカブラみたいにゆーなっ! っていうか、期間が微妙にリアルだし!」
とまぁ、こんな具合に話が弾む。
悪態のつきあい、どつきあい。
でもいつもは何かと本心を隠したがる大悟さんが、彼女にだけは感情をむき出しにする。
多分、本人たちは気づいていないけど、二人はほんとうは似たもの同士なんだと思う。
だからあたしは、時々しーさんが、むしょうにうらやましくなる。
■■■
始業式は一年前と同じような流れで進んでいく。
緊張して身じろぎできない新入生。
退屈そうにあくびを噛みしめる同級生。
堂々と外の桜を楽しむ上級生。
あたしは別に元々苦ではないけれど、花見大悟さんが壇の近くにいるだけで、心がワクワクする。彼の一挙一動が楽しみでしかたがない。
新任のあいさつは、どういうものだろう。今もまだサングラスを外さない新人教師に、同僚は、生徒は、一体どういう反応を示すだろうか?
やがて唯一の新任教師は、大義そうにノソノソと壇上へ上がる。
面倒そうに群衆から顔をそらした彼は、ふと部屋の片隅の来賓席に顔を向ける。
「花見大悟です。……よろしく」
唖然。
開いた口がふさがらない全員に、気のないお辞儀をしてその場を後にする。
ただあたしだけが、もしかしたらあたしとしーさんだけが、笑いを殺すのに必死だったのかもしれない。
彼の考えがは、おおよそこうだろう。
壇上にのぼったは良いが、これといって仕事に対する情熱のない彼は大勢を前に言うべきこともない。ふと見た視線の先にあたしの父でありこの学院の理事長、射場重藤を見つけ、父に対するあることないことないこと言おうとして、その罵声の内容を考えた後、面倒になってやめた。
そんなところだろう。
しかし、まさか意気込みどころか担当教科さえ言わないとは……。
「大悟さんってばやっぱり面白い」
■■■
多少場の空気は乱れたけれども、つつがなく式は終わり、あたしたちを教室に戻らせるべく、大悟さんがやってきた。
担当クラスは2ー1。つまりあたしたちのクラスだ。
思わずしーさんと二人、駆け寄っていく。
「……え、なに、私のクラス、お前らいるのか」
憮然とした様子の大悟さんに、あたし達は顔を見合わせた。
「……ひょっとしてハナミン、知らなかったの?」
「まだ名簿もよく見てない」
「ひどすぎる」
「自分でもそう思う」
と、大悟さんには珍しく、そのまま自分の非を認めた。
――あるいはひょっとして、名簿も見ているヒマもない、そんな理由があったのか。
そのことを聞こえとしたけど、先にしゃべったのは、しーさんだった。
「それよりなんなの。あの気のないあいさつは。もうギャグ通り越してみんなドン引きだったよ?」
「……スピーチの内容なんにも考えてなくて、で、片隅見たら重藤のヤツがいたんでこき下ろしてやろうかと考えたけど、色々めんどくさそうだからやめた」
父のことなのに、あまりに考えていたことと同じすぎて、思わず噴き出してしまう。
抑えきれない笑いに耐えてうずくまるあたしに、大悟さんは呆れたような視線を投げる。
■■■
さすがにクラス内でのあいさつは、一言二言の単純なものじゃなかった。
「さて、お前らの担任となる花見大悟だ。今朝の一件で分かったように、私には教職というものに、情熱もなけりゃ、愛着もない。お前らだってこの十年ぐらいは生徒やってて、教師、なんて期待できないものだって知ってるだろ。……けど、私には責任感だけはある。給料分の仕事はする。問いや相談に対しては自分の範疇で応えてやるし、アドバイスもしてやる。だが、お前らの道を決めるのは、お前ら自身だ。私は仕事として、そのサポートをしてやる。それを受けるかどうかはお前ら次第だし、自分に必要ないのなら無視すれば良い。……こんな人間だからな。まぁそう長続きもしないだろう。以上だ」
――とまぁ、決して褒められた内容ではないけれど、きれい事を並べず、やや投げやりながら、一度引き受けた仕事に対する面倒見の良さは、いかにも大悟さんらしい。
「それじゃ明日は身体測定。次が係と委員決めか。まぁ、せいぜい休め。以上だ」
と区切り、今日はそれでお開き。今日は午前で終了だ。
まだ生徒全員が帰りきらないうちに、
「大悟さん」
あたしは大悟さんを呼び止める。
「目立つ行動をするな」と、その厳しい目が言っている。
あたしの隣に、しーさんが並び立つ。
「お昼、どうします?」
「まるで約束したかのように言うなよ……」
「でも、帰る所は同じですから」
「君ら学生と違って、大人には色々やることがあるんでな」
「っていうか、いい加減サングラス外したら?」
「……やだね」
「は・ず・せ! ……ふぐぅ!」
「この……クソ、ザルぅ……っ!」
飛びかかってサングラスのフレームを握りしめるしーさんの顔の肉を、逆に大悟さんの掌が歪ませる。白目を剥いてとても女優とは思えない顔になってしまっているが、それでも大悟さんのサングラスを外そうと手を離さない。
痛そうだな。子どもみたいだな。でも、
「うらやましい……」
「「!?」」
■■■
「しーさん、顔大丈夫?」
「くっそぉー、あいつめぇ……商売道具を」
帰り道、腫れた頬を、手で押さえ、しーさんは大悟さんを呪っている。
温泉街の大通り。土産物の並ぶその道を、あたし達は歩いている。
シーズンオフの時期、人通りは比較的少ないけど、人はどの時間でも尽きることはない。
「なんかその顔だと、バラエティ向きだねぇ」
「あー……無理。うちガチガチの硬派だし、バラエティ出してもらえない」
「うん。はしゃぐとボロが出るしね」
「パネちゃん、ちょっとヒドいよ!?」
ふふっ、と笑う。それにつられて、しーさんも微妙に苦そうに笑った。
「しーさんはさ」
「うん」
「大悟さんで、良かったと思う?」
「それって、担任として? 『識』の指導者として?」
「両方」
むー、とふくれる顔を擦りながら、しばらく考え込んでいる。
たっぱり時間を使った後で、しーさんは目を閉じて言った。
「人のこといじめるし、イジるし、何かあればすぐ文句言うし、人の言うことにはことごとく反発するし、愚痴っぽいし!」
「うん」
「……まぁ、でも、いい加減なことはしないんだと思う。たぶん最初にすんごい拒否ってたのは、一度引き受けたら、とことん面倒を見なきゃ気が済まなくなる、とか考えてるせいだと思う。正直ムッチャクチャ大嫌いだけど、そこだけは認めても良いから」
「良かった。あたしも、そう思う。大嫌いじゃないけど」
「だよねー、なんせバネちゃんのは嫌いなんじゃなくて」
「え?」
ギクリとした瞬間、しーさんの携帯がコブシの聞いた演歌を歌い始める。
そのスマートフォンは大悟さんとしーさんの初陣の際、彼女の『識』である『八房』の能力発動の基点として活躍したものだ。
「あ、ごめん。……はいもしもし! ってうぇぇぇぇっ!」
奇声、と大悟さんが評する素っ頓狂な裏声が、昼の天空に反響した。
会話の内容まではわからないけど、彼女が二、三言、小声で反発する。
しかし電話の相手は折れてくれず、結局、しーさんは渋い顔で、見えない相手に頷いた。
通話を切ったその瞬間、彼女は、この世の終わりを告げられたような、暗い顔をこちらにひねって向ける。
「うえぇぇぇ……ごめん、バネちゃん。急な撮影入った。一緒にご飯食べられない~」
「あ、うん。いいよ。帰って食べるから」
「ごーめーんーねー……ぇー……ぇー……」
言葉の尾を伸ばしながら、彼女の姿は猛然と遠のいていく。手を振り、姿が視界から消えるまでしーさんを見送りながら、ふと思う。
「そろそろ大悟さん、仕事終わったのかな」
いくらなんでも早すぎると思うけど、せめて終わる時間ぐらいは把握しておきたい。
そう思って、父に電話をかける。
〈射場だ〉
すぐに出た。どんな相手でもワンコール以上は待たせない。それが社会人としてのルールだ、と父は語っていた。有言実行、といったところか。
「あ、もしもし。父さん? あの、大悟さんは仕事終わったかな?〉
〈大悟くん? 仕事が終わったって、今日はそんな大した仕事もないだろう。部活の顧問でもないし〉
「……え?」
〈それに彼、もう学校から出てるみたいだぞ? 退校記録がこっちに残ってる。確かに、教員同士の親睦会は今日あるみたいだが、出るようなタイプじゃないしなぁ〉
「…………ごめん、切るね」
〈おい、羽々音?〉
通話を切ったその手が、力なく下がる。
――なにか、いやな予感がする。
『識』の出没を報せる『赤札』は、今は持っていない。
慌てて気と携帯を持ち直し、しーさんを呼び出す。
こっちは、二度のコールで出た。
〈んー、バネちゃん? どったの?〉
「しーさん、今そこから『識』構築できる?」
〈え? え? まぁ、できるだろうけど、どったの?〉
「良いから!」
落ち着けと、己に言い聞かせる。
鼓動が落ち着くまで深呼吸を繰り返す。
「……ごめん。とりあえず索敵お願いしていいかな」
〈サクテキ?〉
「『識』がいるか見てもらいたいんだ。いたらデータこっちに送って」
『八房』の最大の特徴は彼女の使う携帯端末の機能がそのまま『識』に組み込むことができるということ。
たとえば、マップを画像のデータとして、好きな拡張子に変換したうえで他人に送ることができる。
それだけではない。父の協力で、近々リアルタイムでの現在の動きを、私たちの端末にも反映させることができるようにもなる。
データは、間もなく送られてきた。
――やはり、『識』は発生していた。
でも、大悟さんは『八房』すら頼らず、どこでその情報を?
「ありがとう! それじゃ、お仕事がんばって!」
〈バネちゃんもね!〉
力強い声援に押され、疑問を振り払い、昼の観光街の中、あたしは駆け出した。
観光スポットから少し離れたあたりの、廃ビル。
テナント募集中、という張り紙が、むなしくまだ残って、角は風に揺られている。
立ち入り禁止の柵を越え、あたしはその中に入った。
すっかり片付けられたホールを抜けて、階段をのぼる。
何階にソレがいるのかは分からないけれど、動いて音を隠せるような精密さは、一部そういう能力持ち以外の『識』にはない。
その予測通り、無人のはずの廃墟から、物音が聞こえてきた。
三階。角を折れ、一番手前の部屋に。
入るなり、その二体は、いた。
あの時見た甲冑武者とは違う。鳥の頭と強靱な人の身体を持つ怪物が、手に持った曲刀で、あたしのヒザまでの大きさはある巨大な黒い蛙を貫いていた。
破壊された蛙は、一度霧散した後、再び形を変えて顕現する。
二本の後ろ足のみで立つ、人型の生き物へと。
この能力、間違いない。
「……キッペー先輩っ」
彼の『識』。
制服の裏ポケットに入れた白札を取り出すその手が、上から握りしめられ妨げられる。
口を押さえつけられる。
「……っ!」
心臓が止まりそうだった。
抵抗するならいつでもできた。
でもそうしなかったのは、押さえつけたその手の大きさ、着ている服、背丈、それらがある人物だと教えてくれたからだ。
「私だ」
「だ、大悟さん……」
「それ、しまえ」
「でも」
「まだ付近にいる可能性だってある。ヘタに手を出すと、返り討ちだ」
言われて素直に、札をしまう。
それを、鳥の黒い目が、すっと、武器を腰の鞘に納める。
備品も何もかもが片付いた、オフィスルーム。
張り詰めた静寂が、肌を痺れさせる。
動物を象る二匹の『識』は、示し合わせた風でもなく、窓ガラスを突き破って、私たちの前から姿を消した。
見届けた大悟さんは「だはぁ」と、張り詰めていた息を一気に肺から押し出し、あたしを解放した。
でもその感触とぬくもりが、手と身体にまだ残っている。
大悟さんはすぐさま携帯を上着から抜いて、どこかに連絡した。
「花見です。……えぇ、二体出て行きました。追跡のほうは、頼みます」
通話を切る。それから険しい形相をあたしに見せた。
「ったく、危ないだろ!」
「それはこっちのセリフッ!」
あたしの大声が珍しかったらしい。驚いたように目を見開いて、一歩大悟さんが身を退く。
それがイヤで、なんとか平常心を取り戻す。
「あ、いえ……でも、危険ですよ。単独行動なんて」
「無茶はしないって。私はどうせ、ロクに倒す手段も持たない役立たずだ。できることだけするさ。できることのうえで死ぬようなら、まぁそれまでだが」
また、言葉が出かかる。
話題を変えて、その言葉を心の奥へと押し戻した。
「ところで、今のって父に連絡を?」
「いや、十神時代の先輩が今、フリーで探偵みたいなことやっててな。その人に例の『キッペー先輩』の後を追わせている。その報告でパターンもつかめていたから、人を襲わないということもわかっていた。がめつくて、預金残高半分持って行かれたが」
――なんだか、サラッととんでもないことを、二つほど言われた気がする。
「でも、そんなことしなくても父さんなら」
「射場だけの情報だと、どうしても射場にとって都合の良い情報になるからな。そしてこっちで得た情報は、絶対に射場には渡さない」
「それって、本人目の前にして言います?」
「……君に討たれるのなら、それでも良い」
「えっ?」
ふと、うつむいた大悟さんから漏れた言葉。何かの聞き間違いかと確かめるその前に、いつもの皮肉げな表情が、大悟さんの顔に再び蘇る。
「まっ、単なるイヤガラセだ。バレたとしても、小言食らうだけだろ」
「漏らしませんよ。絶対」
「その言葉、信じるよ」
そう言って大悟さんは笑ったけれど、彼はついさっき、こう公言したに等しい。
「射場は、信用ならない」
と。
姉の裏切りのせいなのか。父の強引な手によるものか。それとも……あたし自身が?
そして、その信じていない人間にこうまで尽くすのは、おそらく、彼自身の信念から。
うつろな気分を笑顔でくるみ、あたしは大悟さんをじっと見る。
「でも、大悟さんも、約束してくださいね。……もう、無茶はしないでください」
「最初からしてないんだがな。でもま、約束だけはするさ」
大悟さんの背後、正午の太陽が後光のように差している。
舞う埃と逆行とサングラスが、大悟さんの姿を、闇の中に隠していた。
夜。
家に帰り、何事もなく一日が終わる。
深夜。
眠る父の寝室を通り過ぎて、地下の倉庫、大悟さんが宿代わりにしている一室の扉を、音を殺してわずかに開けた。
「……うそつき」
折れるその背に、あたしは静かな怒りをぶつけた。
椅子で眠る大悟さんの目には、黒々とクマが残り、幾夜にも渡る徹夜の痕跡を示していた。彼の周囲は膨大な資料の束と、メモと、パソコンと、そこでは無数の情報が錯綜していて、内容を解読できるのは、書いた本人ぐらいだということだけはわかった。
おそらく、気絶するように眠ったに違いない。
ロクに着替えもせず、脱いだまま放られた紺色のスーツを、そっと肩の上からかける。
その肩に触れたい。
でも、
「ごめん」
「?」
「ごめん、梓。ごめん、みんな……ごめん」
幾度となく誰かに対して繰り返される「ごめん」が、あたしの手を本能的に止める。
それは決して、彼にとっては触れられたくない部分。
大悟さんの心が、こうなってしまうまでに追い詰めた射場の人間が、触れて良い場所じゃなかった。
力なく身体を持ち上げたあたしは、踏み場のない床の隅に、ゆっくりと腰を下ろしてヒザを抱える。
朝まではいられなかったけど、こんなことで彼の痛みが和らぐわけではないけれど、
今はただ、じっと見ていたかった。
あの時からあたしと大悟さんの身長の差は縮まった。
あの時離れていた大悟さんが、近くにいる。
強くなった、大きくなった、高くなって、賢くなって、あの人の考えてることもわかって……
それで
それでも、
ほんとうの距離は、