第十四講「一同、目覚めの一杯」
ある日の朝。
アラームを鳴らすことなく、私は自然と朝日で目覚めた。
光はまだ淡く、夜明けの町を照らして、私は射場家のかつての自室から、それを見ていた。
教師を辞めさせられて以来、久々の早起きだが、頭はシャンとしていた。
手元の携帯を開く。圏外。
テレビをつけてみる。つかない。
窓を開けると、ハラリと一枚、人型の紙が、まるで意思を持っているかのように、生ぬるい風とともに舞い込んできた。
私は掌に落ちてきた、その文を流し読みした。
「……なるほどな」
台所に下りて、冷蔵庫の、冷たさを失った食料、その中でもまだ使えそうなもの、使っても問題なさそうなものを探る。常温保存が可能なマヨネーズを使い、缶詰のシーチキンと混ぜ合わせ、パンで挟む。デザートは同じく缶詰の桃、ペットボトルの水をそれぞれ二つ分、用意する。
その一つにはラップをかけた
今はこれが最高級のごちそうだった。
わずかな充電を使い切るまでカミソリでヒゲを丹念に剃った後、ホテルからかっぱらったような安物の歯ブラシと歯磨き粉で気分をスッキリとさせる。
着慣れた黒いシャツ。
紺色のスーツの上下。
ベルト。
色のついたネクタイを手にしようとして、そういう必要ない相手だと思い出し、やめた。
それら一式、まだ捨てられてはいなかった。
それにしても、二年前を思い出す、久々の感覚だった。
出て行く前に、まず仏壇に手を合わせる。
「……行ってくるよ、梓」
――あんたの父親の夢を壊しに。
詫びの言葉は、出尽くした。もう口にはしない。
玄関で靴を履く前に、振り返る。
徳本にもらった風邪薬を飲んで深い眠りについているだろうに羽々音に、
「行ってくる」
そう言い残し、戻ってこられるか分からない家を、私は後にした。
■■■
バスではなく、徒歩で向かう。
だが行く先々に、人は見えない。
……いや、倒れている人間はちらほらいるものの、うめき声ひとつ漏らさず、反応らしい反応はない。
その精神は『切札』に取り込まれた後、だろうか。
私立国原中央学院があるA県品山市。
別名「天空都市」。
ご大層な名だが標高の高い山が市の五十パーセントを占める不便な土地につけられた、皮肉な別名だ。
例に漏れずこの学校もかなりの高所にある。振り返れば盆地となった町並みが一望できる。
そして理事長を務めているのが、あの射場だ。
――あの、射場重藤だった。
私を呼んだのも、私や自分の娘たちを利用しようとしたのも、私を殺そうとしたのも、
一度は許されたはずなのに、百地への反逆を企んだのも。
あれほどイヤだと思っていた相手だったのに、今となっては憐れみすら覚える。
教師になったきっかけは最悪だった。
それでも、その生活自体は悪くなかった。
今となっちゃ、大切な思い出、のようにも思える。
重藤のこと、学校のこと、この町のこと、羽々音のこと、雫のこと、雪路のこと。
すべて考えて、自分の意思で、
私は、奴らを止めに行く。
曲がり角に差しかかる。
ふと、本能的に足が止まる。
ゆっくりと、慎重に角を覗き込むが、誰かが納豆パンをくわえて突撃してくる気配はない。
――少し、残念だ。
反撃してやろうと思ったのに。
■■■
しばらくすると国原の門が見えてきて、開いていることにはすぐ気がついた。
――どうやら、先客がいるようだ。
駆け足で旧校舎に向かい、板張りの廊下を歩く。
旧生徒会室。
私たち『カフェ・シャレード』の拠点。
引き戸が不用心なほど開けっ放しになっていて、中には
「おーっと、来た来た」
――雪路橘平がいた。
車椅子に、カラーのパーカー。そこから上に、何故かこの学校のブレザーとズボンの制服。
……まぁここに来るしかないとは思っていたが、まさか一番離れた病院にいて、かつハンデを抱えている彼が一番とは思わなかった。
「へへへっ、徳本先生が送ってくれた」
私が質問するよりも先に、種明かしをしてくれる。
「それで、徳本先生は?」
「お医者さんの居場所は、病人の場所っしょ」
「……そっか、向こうも大変らしいな」
「そゆこと。何せガス、電気、水道。今朝からぜんぶストップだからね。膨大な備蓄と予備電源があるっ、みたいなこと言ってたけど、いつまで保つやら」
「天災の備えを、まさか人災で吐き出すことになるとはな」
二人して、重いため息をついてたところに、
「ハナミーンっ!」
村雨雫がけたたましく、教室になだれ込んでくる。
「みんな起きないの! パパがっ! ママがっ! 兄ちゃんがっ! 会社のみんなが、役者のみんながっ! あとペットのイグアナのエリザベートがぁぁぁあ……」
「落ち着け。今から説明する」
こいつも、集まるのならここと判断して、ここにいるのだろう。
「おっはよー、雫ちゃん。今日も元気……」
「あとお腹空いたっ!」
息を切らし、青い顔、必死の面持ちで、叫ぶ。
そして何故かこの女も、国原の制服を身にまとっていた。
「……じゃないみたいねー」
「土掘ったらミミズくらいはいるだろ」
「人間扱いしてよこーゆー時ぐらい!」
そう言ってまずいの一番に冷蔵庫に飛びつく。
「だから電気切れてるっつーの」
「おほっ、冷たい!」
「なにっ?」
「けど、牛乳しか入ってないぃぃぃ~」
「むしろ電源切れてたらヨーグルトになってたかもねー」
中のものはとにかく、たしかに近づいていくと、冷気が冷蔵庫から流れ出てくる。
思えば私はこの施設がどこから電力を供給しているのか、今の今まで知らなかった。
あるいはとくもと総合病院同様、予備電力に切り替わったか。
――おかしなものだと思う。
助けられている。こんな事態を引き起こし、一人怪物の中に逃げ込んだ、張本人に。
「あっ、お砂糖あった」
「……お前がそれで良いならそれでも舐めてろ」
次いでやってきたのは、しばらく姿を消していた女。
小山田かすみ。
外から聞こえたバイクの音で、やってきたことはすぐに気がついた。
背には、ライダースーツにはとても似つかわしくないリュックサック。
「皆様、お久しぶりでございます」
「……あぁ」
心なしか、いつにも増してその仏頂面は、私に対して険しいものがある。
――おそらく、父親経由で私の正体を知ったのだろう。
自分が追い求めていた相手、しかも父親は自分を飛び越えたところでつながりを持っていたとあれば、面白くないに決まっている。
「あらゆるものの供給が絶たれた今、父から物資の差し入れです」
「物資!?」
シュガーポットを抱えていた雫が、その言葉に反応して目を輝かせる。
あくまで表情は鉄のごとく、かすみは重々しく頷いて、荷物入れのファスナーを開いた。
「はい。人間の三大欲求が満たさねば、体力は減る一方と懸念されて……」
取り出したのは、長方形の包み。
それに飛びついた雫が、包装紙を引き破り
「……」
目を、曇らせる。
「巨乳グラドルのセミヌード写真集です」
「なんで性欲のほうなんだよ!?」
「……ていうか、『使った』ら、逆に体力減るかも?」
「気力も減ったー」
「花見大悟には特別に、男優専門のグラビアをご用意いたしました」
「…………お前のオヤジに伝えとけ。『帰ったら、シメる』ってな」
「それを聞いて、安心いたしました」
私たちの非難もどこ吹く風、うやうやしく頭を下げて、かすみは言った。
「そのお言葉が来るであろうと予想した父よりの伝言でございます。『花見殿に生きてやるべき望みができて何より。ではがんばって瀬戸際で踏ん張りなさい』とのことです」
「……」
この期に及んで緊張感がない。
かつ、どこまでもこちらの意図を読み切って、遊んでくる。
「花見大悟」
とかすみは私を呼ぶ。
「まだ自分もこの町に何が起こっているのか、全容は理解しておりません。なので、お二人とご一緒に説明をお聞きしても、よろしいでしょうか? できれば、あなたの『正体』も含めて」
――そうだった。
この二人には、まだ言っていなかった。
言う前に、この町に異変が起きた。
■■■
とつとつと、私が羽々音に語った説明が終わる。
「……そっか。ナミさん、最初っからすっとぼけてたってワケ、か」
「どーして言ってくんなかったの? そしたら、こんなめんどーな」
「もっとめんどくさいことになってたぞ。多分」
ぐぬぬ、と雫が呻く。
「そして、追い詰められた重藤は、とんでもない置き土産を残してくれたようだ。……いや、当初の計画どおり、なのかな」
窓の縁に尻を下ろすかすみは、背を伸ばし、腕組みしたまま眠るように目を閉じている。
彼女の向こうに、死の町がある。
「お前らも知ってるだろうけど、今この町ではありとあらゆる物が止まっている。電気、水道、ガスはもちろん、交通、物流、通信……それらを運用する人が、市内でことごとく原因不明の昏睡状態に陥っているからだ。市内だけじゃない。市外の隣接地域にすら、何件か報告が上がっている」
「原因は、射場重藤の一味にあると?」
「そういうことだ。百地の技術班からの報告と、芦田の自白で今日未明にわかった。奴らはある地点から『切札』と同様の波長を発生させている。『切札』で生み出した巨大な『識』が、それの源だ。その波長は人から意識を奪い、『切札』なしに精神を内包した『識』を生み出す。そういう能力らしい。発動しただけでこの有様だ。……追い詰められた奴らにとっちゃ、文字通りの『切札』だよ」
「じゃあ、なんでわたしらは無事なの?」
「その影響力は広範囲に及ぶ代わりに、『切札』ほどはないらしい。おそらく、構築者やその他霊的資質の持ち主はある程度の耐性を持っているんだろう。……私は逆に、ないおかげでな」
「……それで」
と、胸の前で両腕を絡ませたまま、かすみは私に顔だけ向けた。
「その暴走を止める、と?」
「あぁ。それも早急に」
「何のために?」
「何のため、に?」
疑問符を浮かべる私に対し、彼女は腰を浮かせ、こちらに何の感情も示さずに詰め寄った。
「所詮反乱といっても、リーダーを失い、失敗に片足突っ込んだただの暴走。じき、百地本家の部隊が駆けつけ鎮圧されるか、それとも自滅か。どのみち花見大悟が出る必要のないことかと。ならば、あえて、早急に、この騒動を鎮静化させる必要があるのか。その理由をお聞かせいただきたいのです。……言わなければ、何も伝わりませんよ」
――お前が言うな!
と、言える雰囲気じゃない。飲まれている。それに他の連中も、私の答えを求めている。
せっかく整えた髪を無意識に手櫛で梳いて、頭の中を整理し、答える。
「……そうだな。色々理由はあるが、まず百地は事態の収拾を確実に、かつ乱暴に行うだろう。『カフェ・シャレード』は言うに及ばず、品山市の人間全員を消す。それだけのことはするさ。今だって封鎖と報道規制が敷かれている。政府に対しても手回ししてあるはずだ」
大きくなった話に、高校生組がポカン、とマヌケに口を開く。
「あと、百地家は射場家の取りつぶしを考えている。そこは重藤の読みが当たってる。だから、本家連中が動いて主導権を握られる前に、独力で、かつ最小限の被害で勝利し、付け入る隙を埋める。このままじゃ、重藤の命が危ない」
「え……ちょ、ちょっと待ってよ!」
砂糖壺から引き抜かれたスプーンが、私に突きつけられる。
「なんだ雫、話の腰折るなよ」
「えーっと、さ。聞き間違いじゃなかったけど、今、重藤……バネちゃんのパパさんの命が危ないって、そう言ったの?」
「二重の意味でな。『識』に取り込まれたうえでの消耗。あとは、百地に身柄を確保されて処断されること。今は徳本先生が抑えてくれているが、強引に乗り込まれたら……」
「そーじゃなくって!」
「今回の騒動の犯人である、射場重藤を、多くの人間を今もこうして苦しめているあの男を、それらから救うと、貴方はそうおっしゃるのですか?」
「……だったらあいつと同じように、本来自分の力でないモノで、復讐でもするか?」
息を呑む雫たちをよそに、私は一人、うっすら笑んだまま沈黙を守る車椅子の少年を見つめた。
「しかし、ま、お前の気持ちもわかる。どうする雪路? その脚の仇を討つか?」
「んー……?」
返事は間延びした声。
かわいらしく、愛嬌良く、左に、右にと傾けて
「卑怯だなぁ」
――自分でもそう感じることを、思いのままに言った。
「ナミさん、知ってて言ってるっしょ」
頷く代わりに、無言で肯定する。仕方なさそうに肩をすくめ、少年は言った。
「仇とるつもりなら、病院でそーしてるってば。それに、最初に言ったはずだよ。……オレらは、『切札』倒して囚われた人ら解放するために集められた。どんな目に合っても、そいつだけは曲げられない」
「……ということだ」
私は雫を振り向いた。戸惑いつつも、どこか安堵した様子を見せる小娘に、私は苦笑を漏らす。
「それに、私の仕事は本来内部監査であって、お前らの監督役じゃなかった。ここまで接近する気もなかったんだ。どんな経緯でも、この道を自分の意思で私は選んだ」
私はこの部屋全体を見渡した。
紙フィルター
エスプレッソマシン
それぞれのカップ、ソーサー、スプーン……
コーヒー豆は煎り具合、産地に分けて袋詰めされていて、棚に陳列されている。
「煎った豆を挽いたのも、湯を沸かしたのも、フィルターも、カップも用意したのも他の奴らだ。だけど、湯を注いだのは、私自身だ。例えそれで出来たコーヒーがどんなに濃くて苦いものでも、呑み切る責任が私にはある。……まっ、ちょっとアクセントは、私なりに加えさせてもらうけどな」
濃く、苦く、
けどそれと同じぐらいに甘く、
かつて少女のアドバイスで気づかされた、私の好み。
「そーいえばさ。コーヒーで思い出したけど、肝心のイバちゃんはどしたん?」
と、雪路は私に向けて疑問符を浮かべた。
「彼女はまだ家だ」
「……まさか! あんたまた彼女をのけ者にする気? もー! せっかく良いこと言ったと思ったのに、全然成長してないじゃん!」
と、
まださわりだけしか説明していない私を、ここぞとばかりに雫がなじる。
だがその雫の背後から、
「お待たせしました!」
彼女は、射場羽々音はやってきた。
何故か彼女も、ここの学校の制服を、その一七○超の身の丈にまとっていた。
背に担いだショルダーバッグを、机の上に、無造作に置く。
「『識札』、あるだけ全部かき集めてきました!」
「ありがとな。……で、他に何か分かったことは?」
「はい。父さんのパソコンで調べたんですけど、父さんの名義で昨晩、一つだけ荷物がある場所に送られています。……大型の荷物じゃないんですけど、おそらくその中に、問題の『識』が、まだ展開されていない『切札』の状態で入っていたんじゃないかと思います」
「そうか。で、その場所は?」
「市内中央にある『月森夢の国』……旧名は『月森大公園』です」
あの敷地の中で巨大な『識』を隠して容れられるのは、体育館内だけだ。
「……因縁、だな」
独り言のように呟いた私の身体から、そっと、食ってかかってきた雫が距離を作ろうと離れていく。
「待て」
「ギクリ」
――口で言った。
「お前、何か言うことあるんじゃないか?」
「ど、どゆこと?」
「聞いてのとおりだ。彼女には色々と、調べてもらいたいこと、準備してもらいたいことがあった。事情説明のために、私は先行してここに来た。……つまりお前はただの勘違いでロクに考えもせず私を責めたわけだが……何か、弁解はあるか?」
「……ば……バネちゃんに、病み上がりの女の子にそんなことさせるなんてっ!」
「じゃあどうしろってんだよッ。何がなんでもケチつけたいだけだろお前!」
そんな私たちの隣で、クスクスと、羽々音が声を立てて笑っている。
私はそれを軽く睨みつける。
――私だって、この状況下で、彼女の体力が心配でないはずがない。
でも
「もし何かあっても、置いてかないって約束してください。連れていかないと、朝までこのままです」
――病院で、しがみつかれたままそう言われては、断りようがない。
雪路も、まるで他人事のように笑っている。
「もーダメじゃん、雫ちゃん。ナミさんをもっと信じてあげないと」
「最初に言い出したのユキセンパイだよね!?」
「オレ? オレはいないねーって言っただけだもん」
うぐぐー……と喉で詰まった音を雫が鳴らす。
「さて」と。
私は椅子に座り、卓を囲む『カフェ・シャレード』の面々の前に立つ。
その傍らには、羽々音の持ってきた『識札』が、限界までそれぞれのホルダーに収められている。
「全員揃ったところで、まず改めてお詫びする。……くだらない、大人になりきれない大人たちの反乱ごっこに付き合わせてしまい、申し訳なかった。こんな茶番は、さっさと幕を下ろしたい。下ろしてやりたい。もう目ぇ覚ます時間だと、叩き起こす。けど、私一人じゃもはや事態の収拾がつけられないんだ。だから、君たちの力が必要だ。頼む」
私は若者たちに、深々と頭を下げた。
何度だってそうしてきたが、ここまで年下に、ここまで誠意を込めたのは、初めてだった。
「だけど、これだけは言える。私はこの『識札』に関する一切と、君らに関する一切、すべて面倒見てやる。……無事に、卒業まで送り出すから」
これは、約束じゃない。
決意。
流されるばかりだった私が、己の意思で、自分の決定を下したこと。
だからこそ、何に代えてもねじ曲げるわけにはいかなかった。
「って……言ってもねぇ」
まず苦々しげに言ったのは、雫だった。
「ハナミン、要するに今の今までわたしたち騙してたってことでしょ?」
うん、と。
雪路が頷いて同調する。
「……オマケにまたケガするかもしれないのに、手伝えって?」
「性格も暴力的で、褒められたものではありませんね」
「お前が言うな!」
「でも」
雫はヒョイと椅子から立ち上がり、私に白い歯を見せた。
「ハナミンには好き放題言える代わりに、好き放題に言われても、しょうがないなぁ、なんて、思えちゃうから不思議だよね」
そう言って、犬の絵のついたケースを手に取る。
「そゆこと」
さっきと同じような軽い調子で、雪路橘平が相槌を打つ。
車椅子を押して私の足下に来ると、ニッコリ笑い、凸型の記号が入ったそれを拾い上げる。
「どんな頼みでも仕方ないって、そう思わせられるのが、ナミさんの良いところ、いやズルいとこだよ」
「……褒めてんのか、それ」
そんな私たちの傍から、物音立てず、気配を殺して去ろうという人間がいた。
小山田かすみ。
その前に、羽々音が回り込んで立ち塞がる。
かすみも高身長だが、並んでみると、やっぱり羽々音の方がちょっと高い。
「はい」と、
その目先に、羽々音はかすみにホルダーを突き出した。
「……これは……」
馬の絵が縫われたそれを、羽々音は声を弾ませて言った。
「小山田さんの分です。実は大悟さん、コッソリ作ってて」
「……雪路の作る時に、もう一つ作ると安くなるって言われただけだ。」
「またまたー」
視線をそらす私の腰を、雫のヒジが叩く。
それがうっとうしくて、私はヤツの頭をためらいなくひっぱたいた。
「だが、お前の報酬としちゃちょうど良い。……小山田、力を貸してくれ」
「……お断り出来る雰囲気ではなさそうですね」
物憂げに呟くように言い、ホルダーを腰に巻く。
それこそまるで一昔前の、マグナムぶっ放す刑事ドラマのようで、ライダースーツとの相性は良い。サマになっている。
腕組み、つかつかと、早足で生徒会室を出て行く。
「おい」と呼び止めると、背を向けたままその足を止める。
「偵察に行ってまいります。……それと勘違いしないでいただきたいのですが」
「は?」
「今ここで射場の暴走を止めなければ穏健派にも火の粉が降りかかる。そう判断し、貴方がたに協力させていただきます。……決してこんなものが嬉しいわけでは、ないのですから」
勝手にそう言い終えると、足早に出て行く。
私たちは、ただそれをポカンと、見送るしかなかった。
「……欲しかったのか、アレ」
という私の呟きに、ウンと雫が頷いた。
「それと、あたしはもう答えが決まってますから」
と、羽々音の手が彼女の『識札』にかかるよりも先に、私はそれを持ち上げた。
不思議そうな顔をする彼女に私は、改めて向き合った。
私たち二人の隣で、雫と羽々音が、見守っていた。
「……向き合えた今なら、やっと言える。羽々音ちゃん……いや、羽々音」
私が彼女を呼んだ瞬間、羽々音は大きくその目を見開いた。
――呼び捨てにされ、不満か。
なんて、思う時間もなく彼女は、やっと安息の地を見つけたような、心底幸福そうな表情で、頬を赤らめ、目を細める。
それに安堵し、自然と私も顔をほころばせた。
弓矢の描かれた札、弓矢の描かれた容れ物、それらを彼女に向け、捧げるように手渡す。
「共に来てくれ。……私には、お前が必要だ」
ずいぶん、勝手な言い分で、ずいぶんとまた、情けない言いざまではある。
それでもそれが、私の偽りのない、気持ちだった。
「お前がいたからここまでこれた。お前の誘いがあったからこそ、腐りかけていた私の心が、やっと救われた。……ありがとう」
「はいっ、はい……っ、はい…………はいっ!」
細めたその目が、うるんでいる。涙があふれ出るのに、時間はかからなかった。
子どものように指先で、何度も、何度も指で目をこする。
それでも、笑っていた。
報われた
震える全身が、私にそう応えている。
――彼女の笑顔で、ようやく、帰って来られたという実感が沸く。
「……なんか、ロリコンみたいなセリフだわ」
「良いなぁ。オレも、そんなセリフハナミンに言わせたいよ!」
「…………お前ら、空気読め」
「あははっ……みっともないところみせちゃいました! 久々に、コーヒー淹れましょうか」
さっと涙を収めた彼女は、流石だと思う。
「お腹に入るものならなんでも!」
言葉を強める雫に羽々音は苦笑してマシンに向かう。
「ごめん。最近忙しくてさ、お菓子とか買いだめできてなかったんだよね」
「ムリないっしょー。でも、のんびりしてて良いのかな? 急いでるんじゃ……」
「コーヒー飲むぐらいの余裕はあるだろ。それにあのかすみも戻ってこないってことは、敵襲も今のところないってことだ」
羽々音はマシンを操っている。
給水タンクに家から持ってきた水を注ぎ、フィルターに深煎りのパウダーを詰めてセットする。
ガシン
ガシンと
鉄を鍛えて打つような音を立てて機械を動かす彼女を見て「大丈夫だ」と、そう思えてくるから不思議だ。
かすみも何気なく戻ってきた。
その彼女に、羽々音は一番に、できあがったカプチーノを渡す。
そのデザインは、馬。
雫には犬。
雪路には人型のもの。
そして自分は矢を描いたものを。
私は……量の少ないエスプレッソを。
「あぁっ!」
乾杯でもしようかと思った矢先に、羽々音が珍しく、頓狂な大声をあげる。
「なんだ、どうした?」
彼女はコーヒー豆の袋を抱え、硬直していた。
「……これ、賞味期限切れてました」
申し訳なさそうに頭を下げる彼女に、
「コーヒーって、賞味期限あったんだ」
と雫が的外れなことを言う。
「まぁ消費期限じゃないわけだし、毒でもないだろ」
私は彼女に慰めの言葉をかけた後で、
「……にがっ!」
また砂糖を入れるのを忘れた。
「もー、しょーがないなぁハナミンは! はい! 砂糖」
「さっきまでお前が舐めてたヤツだろ? イヤだよ。雫菌が入ってたらどーするんだ」
「小学生かあんたは!?」
「ナミさん、お客さんだよ」
と、カップ片手に窓から外を見つめる雪路が言った。
窓に近寄れば、校門の下、黒い塊が動いているのがわかる。
黒いヘルメットの集団。いや、『識』もいる。
おそらくは例の巨大『識』が生み出したものだろう。
総勢四十ほどか。
まだあんなにいるのかと呆れる一方、どうにも現実がないせいで、どれもこれもが人形のように見えて、恐怖が感じられない。
私を見る一同の視線にも、恐怖は感じられない。
もう資格がないなんて言ってられない。
「……んー、なんて言うのかな、この一杯。……末期の酒?」
「縁起でもないこと言うんじゃねぇよ!」
上手い言葉が見つからないにしてもあんまりな引用をしてくる雫に、私は怒号を浴びせる。
コーヒーで、乾いた喉を潤す。
自分に「これは苦い、これはとびきり苦い」と言い聞かせ、覚悟し、一口、ゆっくりと飲む。
「……やっぱり苦いな」
味もよく分からないが、それだけはしっかりと、舌が受け付けている。
恋のような甘さ、とは程遠い。
それでもその一滴一滴が、腹ではなく心に染みる。
「こんなんが末期であってたまるか。……また飲むんだよ。最高の一杯を、みんなでまた、ここに揃って。こいつは、その覚悟の杯だ」
それぞれが、誰に言われるまでもなく手にした杯を突き合わせた。
「行くぞ!」
「「「はい!」」」
空になった器が円を作るようにして置かれる。
まばらながらも互いに互いを引き立てる、美しい声。
ふぞろいながらも調和したそれらこそが、決戦へと向けた、私たちの鬨の声だった。




