第一講「教職員、面接」
春の朝。
けたたましいアラームが、携帯から鳴り響く。
痛いほど強い太陽が、寝ぼけた目を刺す。
慣れない早起きに吐き気を催し、目覚めない舌と歯で強引に朝食を運んでいく。
カミソリを当てて二日ぶりにヒゲを剃り、歯を事務的に磨く。
真新しいシャツが、肌になじまない。
新品のネクタイが、喉を締め付け呼吸を制限する。
ヘドが出る、すばらしい面接日和だった。
私、花見大悟は高校教師になることになった。
かつての教師射場重藤に
「教師になってくれ」
そう乞われて一ヶ月後。
しばらく音沙汰もなく、酔った私の聞き違いかと安堵しかけていた。
その矢先に、面接の連絡が来た。
「残念ですが私には教員免許がなくてですね」
「すでに学生時代に中・高の免許を取っていることは確認済みだ」
「しかし実績のない人間をいきなり現場に放り込むのも」
「おや、こんなところに君の資料が……ふーむなになに? おや、二年前、組織の任務で教鞭をとっていたじゃないか」
私は隠さず、舌打ちした。
「教職に返り咲こうとする大人が、また子どもみたいなウソを言う」
「すみませんね。相手を選んで程度の低いウソを見繕ってみたんですが」
「…………はぁ。いいからとにかく来てくれ。職場見学も兼ねてるんだから。それに、我々が君を雇うとも限らないだろう?」
「ありがとうございます。助かります」
「いや、だから落とす気ならさっさと落としてるんだがね!」
「……なんで私なんですか?」
「そうだな。僕は反対だったのだが、『娘』のたっての希望でね」
「梓の……?」
口走ってから、しまった、と悔いる。
呆れたような低い声が、端末越しにうつろに聞こえる。
「君、まだ酒でも飲んでいるのか?」
「……えぇ、まぁ」
「ほどほどにしてくれよ」
「そうします」
早口に言った私の部屋は、心境とは裏腹にきれいに片付いている。
「妹、羽々音の方だろう。普通に考えて。君、家庭教師をしていただろ? ……それに、君の口から梓の名前は聞きたくないな」
「すみません」
私は心から詫びた。
電話の相手に対する申し訳なさからではなく、すでに亡い、かつての恋人に対して。
「で、妹さんはなんで私をご指名で?」
「会って確かめると良い。当日、席は設けてあるから」
……結局なし崩し的に承諾してしまった。
あの姉妹に対する心残りが、私の中に少なからず存在していたからだろう。
■■■
私立国原中央学院があるA県品山市。
別名「天空都市」。
ご大層な名だが標高の高い山が市の五十パーセントを占める不便な土地につけられた、皮肉な別名だ。
例に漏れずこの学校もかなりの高所にある。振り返れば盆地となった町並みが一望できる。
そして理事長を務めているのが、あの射場だ。
こんな場所の、こんな学校に、こんな私が、教師として、赴任する。
……自分でもどうかしていたと思う。
かつての恋人の妹、しかも小学生の頃会っていただけの女の子に会うために、ここまで?
私は自分が人に教えを授ける立場の人間でないことも、聖職者と呼ばれるような人格でもないことも、自覚している。
なのに……なぜ。
「花見くんは、変なところで子どもっぽくて意地っ張りで負けず嫌いなくせに、自分自身はどうでも良いのね、ヘンなのっ」
射場梓の言葉と共に、その笑い声を思い出す。
はじけるような笑い声。
そういうのが苦手な私なのに、あの声だけはいつだって苦にならなかった。
できれば生きている間に、あの笑い声をもう一度聞きたかった。
遠く届かぬ思いを馳せて、青空に顔を向ける。
一歩、強く踏み出した。
「遅刻ちこくーっ」
曲がり角からふとそんな声が聞こえた。思わず足を止めた。
それが、いけなかった。
そこから駆け込んできた少女と、衝突した。
少女がくわえていたトーストが、口から飛び出て宙を舞う。
「いったたたた……。いっけないや。大丈夫ですか?」
たとえ私が良識ある大人でも、そうでなくとも、たしなめたり注意したり、あるいは叱ることもできただろう。
だが、できなかった。
口を開くことができなかった。
――なぜか?
彼女のくわえていた食パンが、納豆をペーストしたそのパン切れが、顔にへばりついていたからだ。
大粒の大豆。
糸を引く納豆菌が、アンモニア由来の悪臭。
口腔を、鼻孔を、眼窩を、顔のありとあらゆる穴を、ふさぐ。
絶望が波となって心に押し寄せる。手足はけいれんを起こす。
苦界の真っ直中の私とは異なり、少女はあっけらかんとしたものだ。
「うっわー、ほんとにあるんですねー! こんな少女漫画みたいなコト! だって出会い頭に食パンですよ、ププー! レア過ぎてレア過ぎて、逆に運命の相手だったりして? ヒャーおもしろーい!」
……ブチリと、
同時に自分の中で何かが切れる音を、たしかに聞いた。
緊張? 堪忍袋の緒? どれでもよかった。
これに怒りをぶつける理由としては。
「ね、写真撮ってブログに貼っても良いで」
スマートフォンを携えた彼女の言葉は、そこで途絶えた。
顔から引きはがした納豆トーストを、
「おらぁっ!」
今度は私が逆に彼女の顔面に叩きつけたからだ。
「ウギャアー!」
数秒前の私と同様の姿となったその少女を見ながら、私はハンカチで己の顔を拭う。
顔からとれないイヤな臭いと粘つきが、なおのことイライラさせた。
「ちょっと! 何すんの! 人間やっていいことと悪いことがあるでしょーがっ」
「お前が言うなバカ! 大体こんなお約束がそうそうあってたまるか!」
それがとても不快な攻撃だという自覚はあったらしい。
眉を逆立てるその女子生徒を、改めて見る。
中身はともかく、見た目は悪くない。
それどころか切りそろえられた短い栗毛と、赤いフレームの眼鏡。目鼻立ちは、その清楚さは、お嬢様のそれだった。
その身には紺のブレザーに、薄いブルーのシャツ。赤いタイ。
頬に張り付く、大豆が、この女の美点一切を台無しにしていた。
そもそも納豆食いながら町を疾走する女が、清楚なお嬢様であるはずがない。いや、人類とも認めたくもなかった。
「先に仕掛けたのはお前だろーが!」
「だから謝ったじゃないのよー!」
「そんな言葉一片も聞いとらんわ! 写真撮るとかぬかしてたろーが!」
「だからってわざわざ投げ返さなくてもいいじゃないの!」
「自業自得だろ、バーカバーカ!」
「バーカバーカ! っていう方がバカなんだよバーカバーカ!」
臭う額を突き合わせ、彼女と睨み合う。
だがこんなの相手に時間を費やしているわけにはいかないと、改めて気がついた。
チラと時計を目に移したのにつられ、その少女も自分の腕時計を見つめた。
「っあー! もうこんな時間じゃない! あんたみたいなクサイおっさんに関わってる時間じゃないよ!」
「誰のせいだよ!」
フン、と鼻を鳴らしてしかめっ面を背け、彼女は一目散に駆け去っていく。
「最悪だ……」
立ち止まり、改めて学校のパンフレットを見る。
紺のブレザー、タイリボン。そして薄くストライプの入ったブルーのシャツ。
国原中央学院の、つまり私の赴任するであろう学校の制服と、すべて合致している。
そして方向は、その学校の通学路。
来るかも知れない自らの教師生活を予想し、私は思った。
「なんかもう、終わったな」
……と。
■■■
しばらくすると国原の門が見えてきた。
校門とはいえ、イタズラ坊主が簡単に乗り越えてしまえるような、簡単な柵のものじゃない。
朱塗りの枠。そびえ立つ高さ。藍色に塗られた瓦屋根。
唐風に仕立てられたそれを見上げれば、まるで自分が平安の都に入る官僚か何かだと錯覚してしまいそうだ。
青龍門、百虎門、朱雀門、玄武門。
それぞれご大層な名をつけられたそれら東西南北の門をくぐれば、最新の設備と洗練されたモダン調の学園が私を出迎える。
全校生徒千人弱を収容するその校舎は屋内プールや食堂はもちろんのこと、インターネットコーナーやカフェテラスまであるそうだ。
朱塗りの門が映える表紙のパンフレットには、理事長射場重藤の名で、
「個性は差別ではありません。私たちはそれを伸ばすお手伝いをいたします」
と、口当たりはいいが実現不可能なことが書かれてある。
しかし面接をすると聞いていたのだが、ならばあの類人猿は何をしにこの門をくぐったのか。
まだ学校は始業式もまだだろうし、運動部という感じでもない。
文化部?
……芸術を生み出せるようなインテリジェンスなど欠片もなかったが。
学校に着き、校庭を抜けながら考える。
もしかしたらあれはただのコスプレで、「自分は天下の名門国原の女子高生だ!」などという妄想のためにこの学校に来たのだと思いたい。
そして彼女は警備員に呼び止められて警察に連れて行かれて余罪が発覚してブタ箱に即刻ブチ込まれて頭おかしくなってその日のうちにクビくくって死んだのだ。
というか、もうそれでいこう。
そうしよう。
脳内でメスザル一匹の屠殺を終えて、一つ頷き気分を変えて、廊下を渡る。
途中トイレに立ち寄り、顔を洗い、汚れをとった。
とりあえず適当にやって切り上げて、あとは酒でもかっ食らって寝よう。
そうしよう。
「失礼しまー」
と会場であるという一階東棟、職員会議室の戸を開けて、
「す」
その口が、閉じられない。
唇をすぼめたまま、私は硬直してしまった。
矢だ。
人間の腕ほどの太さはある矢が、こちらに向けられている。
……私は、ドアをそっと閉めた。
ガチャリ、と音を立ててドアが完全に閉じた瞬間、どっと冷汗が流れ、動悸がいっきに高まった。
「待て、待て待て待て待て……」
落ち着け、と己に命じつつ、閉じたばかりの部屋の様子を思い返す。
面接官もいない。それどころか、あのいけ好かない、重藤もいない。
ただこちらに殺意を向けた武器があるだけだ。
呼吸を整える。
心の準備をする。
一つは、もしかしたら自分が幻でも見たんじゃないかという楽観。
もう一つは……それが本物だったらどうしようかという、予測。
――覚悟は終えた。
後ろ手で掴んだままの扉を、肩で押すようにして、開けた。
やはり、私の目にはどうやっても、矢が向けられているようにしか見えなかった。
床弩とでも言おうか。
黒く塗られた巨大な矢は、羽が青く、鏃は美しい銀で、装飾された短槍と言われても、疑いようがないぐらいに立派な代物だ。
濃紺の地に金の装飾をほどこした台座が、それをしっかりとこちらへ向けさせている。
「はは……」
引きつった力ない笑みが、漏れる。
これはなんの、冗談だと。
頭は追いつかないが、身体が動いた。
扉を叩きつけるように閉めると、そのまま横へと跳ぶ。
次の瞬間、ドアを突き破りガラスを散らし、部屋の中から矢が飛来する。
私の背後の壁を突き抜け、どこへともなく消えていく。
「くそっ、ふざけんなっ! 死ね、あのジジイ、死ねっ!」
居もしない男の顔を思い浮かべ、口汚く罵りつつその場にへたり込む。
何かの罠か、それともこれが「試験」だということか?
……とすれば、私に求められているもの、それは……死ぬこと?
私は立ち上がった。今来た道にとって返すべく、立ち上がり、横を向く。
またも、私はそこで固まった。
巨大な矢と、それをつがえる台座。
今まさに全力で回避したその罠が、まったく同じ姿で、私の帰るべき道の上に、ある。
私は横を向いた。
壊れたドアの奥、そこから先ほどまであった床弩がそこにあったという痕跡もなく、忽然と姿を消していた。
まさかここまで移動したということか?
あの巨大な物質が、私の目をくぐり抜けて。
実際に飛んでくる矢よりも、そうした不気味さに怯み、じりじりと退く。
二射目が発射されたのは、ちょうどそうした時だった。
咄嗟に伏せて、軌道上のわずかな弧の下に飛び込んだ。
私の髪をかすめる凶器。
廊下の最奥、武道館に続く道まで届いて、その鉄扉を粉砕する。
顔を上げれば、床弩がそこにある。威圧感に呑まれかける。
ここでは、逃げ場が限定されてしまう。
這うようにしてその下をくぐり、一気にゲタ箱に向かう。
靴を脱ぐも履くもとりあえず、出入り口へ。
……、
瞬間、嫌な予感がした。
差し込む影が、その予測に確信をもたらし、寸前で足を止めさせる。
上から注ぐ、五本の矢。
簡易的な鉄格子となったそれをつかんで見上げれば、発射台は入り口の上の壁に、張り付いていた。
重力を無視した、おおよそ人智では及ばない事象。
壁に張り付く台座は消える。私の両脇に一列、矢がきれいに降り注ぎ逃走路を塞ぐ。
振り返れば、台座は矢をつがえて私の正面に立っていた。
進路、退路の限定。この執拗な先回り。
もしこの奇っ怪な兵器を操縦している人間がいたとしたら、相当に意地の悪い人物に違いない。
弦が、引き絞られる。
それとなく隣の矢に触れる。
初撃の巨大なものに比べいくぶんか小物だが、タイルに深く突き立つこれを乗り越えるには時間が必要だし、背中も無防備になる。
正面で、助走をつけるように矢がぎりぎりと狙いを絞る。
傍らの矢を、ぐらぐらと、左右に揺らしてみる。柔軟なその柄はある程度動かすことはできるが、抜くには力が要りそうだった。
その矢の柄を握りしめたまま、私は立ち尽くしていた。いや、現状に至るまでの矢の速度、威力、軌道の具合、柄の柔軟性。それを考え、計算し、
射。
風を裂いて鳴かせ、正面から巨大な矢が襲いかかる。
私は、手にしたままの矢を、思い切り引き、自分の側へと傾けた。
ガッ……と、
矢先は、音を立ててその柄に当たる。
「…………~ッッ!」
狙い通りに当てた喜びに酔ってる暇も、肩にまで達する痺れに気をとられている暇もない。
間隔のない右腕を強引に引っぺがし、逆の手で矢に刺さった矢の柄を手に取る。
歯を食いしばって体重を預け、身を乗り出して、脚を投げ出し、一気に矢の柵を跳び越える。
浅く呼吸。
可能な限り脚を動かし、低姿勢のまま駆けた。廊下の窓を身体でぶつかり突き破り、校庭の花壇の上に転げ落ちる。
「……ッハァ……ッ……ハァ! あぁ! もう! なんか! もう! クソッタレ!」
ロクな罵声も思い浮かばない。
そもそも思いつきもしない罵声と理不尽なことへの憤りを、誰にぶつけたら良いのか。
と言うよりこれは、重藤の企てなのだろうか?
思案にふけりそうになる自分を戒め、ガラスを払い立ち上がると、
チャイムが鳴った。
今まで矢羽根とそれに伴う破壊の音しか聞こえてこなかったというのに、妙に緊張感のないその機械音が、肩から力を奪っていく。
〈お見事!〉
という賞賛から、それは始まった。
男の声ではない。溌剌とした、張りと若さのある少女の声だ。
〈さすがは花見大悟さん。生身で、その『識』相手によく持ちこたえられましたね。合格です〉
「あぁ!? っていうかなんだ、シキって?」
〈そのまま校庭を壁沿いに進んで、カフェテリアまで来てください。……あ、そうそう。そこの花壇、トウモロコシ植えたばかりなので、あまり踏み込まれると……〉
やかましいわ! と怒鳴りそうになる。
「やかましいわ!」
実際、怒鳴ってしまった。
ともかく指示に従う。そいつの顔を見たら、男だろうが女だろうが一発殴って帰ってやる。それぐらいの気構えで、大股に歩く。用心のために、ガラス片を拾って上着のポケットにしまう。
花壇を抜け出て壁沿いに歩き、しばらく進んだ先、きれいに配置されたテーブルが見えた。パンフレットでは確かオープンテラスが人気のカフェということだったが……とにかく、と私はポケットの中の武器に軽く触れて確かめ、一歩進む。
ふわり……
と。緊迫した雰囲気をかいくぐるようにして一筋、しゃんとする薫りが、鼻をくすぐった。
「コーヒー……?」
耳を澄ませば、コリコリと、ミルを回す音が聞こえる。
「この学校って、インスタントも使わないのかよ……?」
そしてカフェのシンクに、国原の制服をまとった少女が立っていた。
背は高く、一七〇センチほど。垢抜けた顔立ちだが、一重まぶただった。
やや水気に欠ける、セミロングの黒髪は後ろで折りたたむようにして束ねられ、その端は天を向いている。
優雅な手つきで陶器のカップにかぶせたドリッパーの中に湯を落としていく。楽しそうに目を細め、口角はわずかに持ち上がっていて。
彼女の傍らにはカードがあった。
赤、白、緑の三色が、十枚ずつほど。
それらが何を意味しているのかは、それだけでわからない。無地だから、どういう用途のものかも判然としない。
カフェテラスの天井に備え付けられた薄型のテレビには、一階のありとあらゆる映像が、分割されて表示されている。
唖然とする私の手前、少女は顔を上げ、黒いカップの中に角砂糖を三個落とし込み、にっこりと屈託なく笑った。
「例えドリップでも、量は少なく濃く、砂糖は多め」
「え?」
「それが好みでしたよね? ……大悟さん。会いたかった。ずっと」
「……誰だ、お前は?」
ざわざわと、脳の中の記憶が騒いでいる。
忘れかけていた面影、それが今、頭の後ろのあたりで繋がろうとしていた。
「お久しぶりです! 射場羽々音です、ほら、覚えてませんか?」
嬉しそうに告げられたその名が、いやでも思い出させる。
彼女との出会い、そして彼女の姉への……想い。
「…………あぁ、久しぶり、だな…………」
上着のポケットから手を抜く。
ガラス片をいつの間にか強く握りしめていたらしい。鮮やかな朱色の線が、指の関節、横一文字に引かれていた。




