第十二講「裏切者、告白」
車を出して二十分あたりで、目当ての場所は『八房』ですぐに発見できた。
市の境にある、オープン前の大型ショッピングモール。
雫の携帯の画面には、青と赤のポイントが次々に展開し、計十体ほどが表示されている。
青の数は安定し、かつ動きがない。
赤は取り留めなく動き回るものの、確実に数が消えていった。
間違いない。
羽々音がすでに、戦端を開いている。
そのロータリーに、車を止めて、私たちは自動ドアを手動で引いた。
警報は鳴らない。電気は通っておらず、そもそも警備員の姿もない。
既視感。
これは、雪路の時と同じだ。
罠。
わざわざ人目を避けるような場所に、『識』を発生させる理由は、それしかない。
そして、その策謀に踏み入る前に気付かないほど、羽々音は、疲弊している。
安全を確認し、店に入る。
雫は一度『八房』を解除して映像を閉じると、電話をかける。
相手は当然、射場羽々音その人だ。
一コール……
二コール……
三コール……
コールする度に、それに出ない羽々音に対し、言い知れない不安を覚える。
「あっ、バネちゃん、今どこ?」
〈しーさん?〉
「うん! バネちゃん、無事で良かったぁ」
〈……大げさだなぁ……前よりは少なかったよ〉
――良かった。
ひとまずは、無事だった。
胸を撫で下ろし、雫と頷き合う。
だが、声に覇気がない気がする。
やはり、羽々音といえど、連戦は身体にこたえるのか。
「あのさ! ビックリするなかれ! 今さ!」
ガシャン
ガラスが割れる音がした。
ガラス片とともに落ちてきたスマートフォンを見た瞬間、
さぁ
と、血が全身から抜けていくのを感じる。
「これって、バネちゃんの」
今通話していた相手の私物が降ってきた。その事実に、雫は目を泳がせ、明らかに動揺していた。
それは私も同じだが、まずは事態の把握が先だ。
理屈ではそうわかっていても、声が上ずる。
「『八房』を呼べ。今すぐに!」
「う、うん!」
言われたとおりに『白札』から現れた犬が、尾の玉を四方に散らす。
「あっ良かった! バネちゃん、無事みたい!」
「なんでわかる?」
「だってほらっ」
弾んだ声で伸ばした指先が、画面に浮かぶ青いポインタを示す。
その三角の印が、
つい
と動く。
「……違う」
声と足がわななく。
「こいつは、彼女の『識』じゃない」
言った瞬間、私はすべて悟った。
「え? でも目印青いし」
「固定されている『霹靂』が、移動なんてするか」
あるいは、移動中の小山田かすみが彼女を見つけて救助した可能性もある。
しかし、あいつのバイクが乱入した気配はない。
何より今まで多数あった青が、消えているという時点で、危機感を煽るには十分だ。
――ならば
これは、誰だ?
『識』構築者。
『八房』が何をもって敵味方を区別しているかはわからないが、本来は味方である、と主である雫の意識が見なしているのだろう。
私の脳裏、派手な髪色が蘇る。
「……こいつは……芦田直人だ!」
次の瞬間には、私の足はエスカレーターにかかっていた。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! 芦田先生がいるなら問題ないんじゃ!?」
「考えてもみろ! 敵がいる時に反応がなかったのに、敵がいなくなった瞬間、なんで『識』を使う必要がある?」
「それって……まさかっ!」
「あぁ! 芦田も内通者だったんだよ! 羽々音やお前を『切札』の中に取り込むために、敵を増やして連戦を強いた! 私が去った直前は自身の引き継ぎで動けなかった! バレるとまずいから、調べようとした雪路を排除しようとした!」
――だが、口にして、舌にザラリと違和感を覚える。
はたしてこれは、芦田の考えか?
確かにあいつはクソ生意気な後輩ではあるが、どうにもらしくもない狡猾さ、計算高さ……そして、陰湿さ。
携帯が落ちたところから大体の場所は割り出せる。
それを確実にするため、私は雫に問う。
「場所は?」
「ちょっと待って! 三階奥にある、えーとえーと!」
「アウトドア用品店か」
案内板と雫の案内を照らし合わせて、再び動かないエレベーターの上を駆ける。
一段飛ばしで、上りきり身体を旋回させ、『八房』の示す奥へと向かう。
その犬と、雫がよたよたとついてくる。
やがて、声が聞こえた。
「……ぜ。なぜ、あなたが……」
羽々音の声だ。
かすれる声が、焦燥感を再びかき立てる。
一歩が、もどかしい。
「何故、だと? 正義のため以外にあるか? 俺に私心はないよ!」
芦田の声が、はっきりと聞こえた。
拳に構築させた『識』をまるで宝か何かのようにさすっている姿が、実に薄気味悪かった。
その指先に『札』がある。
よく見えないが、おそらくは黒い札。
――『切札』。
赤いマフラーを巻く。
フルフェイスの黒いヘルメットをかぶる。
「それは……っ」
「そうだ。正義の味方は涙を隠して悪を討つ。これは、その決意の表れだ。そのためなら俺は、君という犠牲によって、さらに高みへとのぼる! 何かを犠牲にしようと、汚れようともいとわない! それが正義の味方……仮面の戦士だっ!」
「……そんなのはもう、正義なんて言わない……そんな正義を人に押しつけちゃ、いけない」
「花見先輩だって、我が身惜しさにだが、君らを盾にした!」
「違う……っ」
「……え?」
「大悟、さんは……、あの人は……犠牲に陶酔なんてしない……っ、自分を尽くして、それでもどうしようもなくなって……それで何かを、犠牲にすることがあっても……犠牲にしたその相手のことをちゃんと見てる、そのうえで……。そうやって妄想にふけって罪から逃げて……他人どころか自分すら見えていないあなたとは……違うっ!」
ようやく部屋に入ることができた。羽々音の両目が、完全な闇の中で、燃えて光っている気がした。
「……っ、また、またあいつかぁっ!」
振りかざした拳。
届く前に、私の足が腕が伸びきり、その場にいたる。
「っ!」
ガラスが砕ける。
ヤツの『識』が青白い電流がほとばしる。
私は羽々音を抱きかかえて転がり、その下をくぐり抜けた。
羽々音の身体は、柔らかいが、燃えるように熱くなっている。
熱があるんだろう。
あえぐように息をしている。
「先輩……っ。この市に踏み込んじゃいけないはずじゃなかったんですか」
「百地として、教師として、何より人として……道を踏み外したお前に、とやかく言われる筋合いはねぇよ」
吐き捨てるようにそう言うと、
「大義のためです」
なんら罪悪感も感じずに言う。
「その大義のために、雪路をあんな目に合わせたのか?」
「人間、限界を超えた先に、勝利をつかめる! 彼にはそんな試練を与えた。いわば生徒への愛です。すべてはやる気のない彼を勇気づけるための、俺の秘策ですよ! 勇気、根性、そして勝利! それさえあれば脚の一本や二本! 無くしたって動けますよ!」
私は羽々音をそっと地面に下ろす。
「……悪いな。羽々音ちゃん。……そして雪路も」
――こんなゴミクズに、一秒だって君らを委ねちゃならなかった……
そして私は腰のベルトから、ナイフを引き抜いた。
刃渡り五十センチ。
革で出来た束を握りしめて、芦田に突きつける。
「まさか先輩? あなたのように何の能力もない凡人が、そんな安いナイフと、安い心で、俺の『識』を壊せると?」
「……」
私は歩く。
「俺の『識』はまさしく雷の王。超高速の稲妻がこの拳よりほとばしり、その熱は炎すら裂く! そして皮膚を焼き、血管を焼き! 焼き、焼き! 破れるものなんて……」
高説垂れてる間に間合いに入り、
ドン、と。
私は逆手にとった短刀で、その『識』を、突き刺した。
「……へ?」
信じられない、という顔つきをする。
要塞のような手甲を貫いて、血が吹き出る。返り血が服にかかる。気にせずそのまま
ぐりっ
と押し込んで、親指の付け根から貫通させ、壁に縫い付けた。
『識』は『識』で倒す。
そして他の霊能力を持たない私が、自分を倒せるはずがない。
――なら、その奢りを突かない手は、ない。
「なんで……っどうして……!?」
混乱する芦田は、まだ気づいていないような。
傷口をねじると、ひっくり返った声が、ヤツの混乱と恐怖を教えてくれる。
「……このナイフは『雷切』の一部だ。雪路から借り受けてな。まぁあくまで護身用だったんだが、お前を見てると、それ以上のことに使いたくなってきた」
私は、かかとを持ち上げ、
「やめっ……!」
縫い付けられた芦田の腕の関節を、蹴り砕いた。
不快な感触も、つんざくような絶叫も、今は気にならない。
下ろした足で、萎えたそのスネを、今度は頑丈だから数回に渡って蹴って、折る。
「あ、あぁぁぁ……足が、俺の足がァァァァ……」
粗相でもしたように情けない声を絞る男に、私は苛立ちながら、もう一発蹴りを入れる。
「……どうした? 根性があればなんでもできるんだろ? 足の一本ぐらいどうってことないんだろ?」
もっとなぶっても良いと思ったが、構っている時間はない。
舌打ち。
喉の奥を蹴り、無理矢理に気絶させる。
「胸クソ悪い……っ」
まさか自分に、こんなに残忍な怒りがまだくすぶっていたとは驚きだ。火種すら、とうにかき消えたと思っていた。
――いや、違う。
これは、ただの八つ当たりだ。
本当にそうしてやりたかったのは、私自身。
「ハナミン! バネちゃんすごい熱!」
いつの間にか介抱していた雫に呼ばれ、我に返る。
近寄って、汗すらかかない額に手をやれば、さっきよりもまた体温が上がっている気がした。
まるで命を燃やすように。……いや、実際命を燃やして、彼女は自分たちのチームを救おうとしていたのだろう。
「ん……大悟……さん……?」
よく聞けば、声もかすれている。明らかに衰弱していた。
でなければ不意打ちとはいえ、こんな 男に遅れをとるとも思えない。
思えば、帰ってきたあの日から、前兆はあった。
気になってはいたが、思いやる言葉をかけるわけにはいかなかった。
そしてこんなになってまで、彼女は『カフェ・シャレード』に尽くすとも
「良かった。無事……だったん、ですね」
「バカか、君は」
私は、そう言うしかない。
「なんでそんな身体になってまで、『カフェ・シャレード』を守ろうとする?」
羽々音は、黒い瞳で私を見上げている。眠るように目を細め、乾いた唇を開く。
「だって、みんなで作った場所じゃないですか」
「……っ、それがバカって言うんだっ」
その目から逃れることは、できなかった。
まるで磁力を秘めているように、彼女の細めた両目がこちらを刺す。
「人がいない組織なんて、なんの価値もない。そこにこだわることなんてない。コーヒーカップがなくても、お気に入りのエスプレッソマシンがなくてもカードケースがなくても、君ら三人ならきっとやり直せる」
「……でも」
「なんだ?」
「そこに大悟さんはいないんでしょ?」
思わず、声を失った。
透明感のある目の光が、私の心に浸透する。
「みんなわかってます。大悟さんが心にもないこと言ったことも、それで誰より傷ついてるのが、大悟さん自身だってことも。大悟さん、もし今回の事件が解決しても、出て行こうとしてたんでしょ」
「当たり前だ。私は、君の」
言いかけるその口に、そっと指が押し当てられる。
そのぬくもりに、顔が熱くなる。
「だから、守りたかった。言いたかった。あなたには、帰ることのできる場所があるんだって。あなたのしてきたことは、絶対に無駄なんかじゃない」
まるで、
まるで見てきたかのように、
彼女は、羽々音は確信めいたことを言う。
まるで見てきたかのように、
私の心奥を突いてくる。
私は顔をしかめる。
その温かみに甘えないように。
彼女の前で、泣くのをこらえるそのために。
――サイレンが聞こえる。
雫が呼んだ、とくもと総合病院直行の救急車が到着した合図だった。
■■■
「幸いなことに、ただの風邪だった」
「そうですか」
一安心だ。
「しかしまぁ、よく患者を連れてくるな」
夜の診察室というのは、また新鮮だ。
担当医、徳本永助は、椅子を回転させ、しきりに身体の向きを変えながら、私を睨んでいる。
「これで三人目だ」
「ちょっと待ってください。雪路と羽々音と……あと誰ですか?」
「俺の目の前にいるだろう。お前さんだよ、花見大悟クン」
呆れたような物言いに、肩をすくめて首を振る。
「私が? どこがです? いたって平常だと思いますが……あいてててっ!?」
思いっきり二の腕が掴まれて、私は痛みにもがいた。
「見ろ。古傷が開いちまってる。他にもいくつか新しい刺傷、裂傷、打撲、内出血もろもろ、といったところか」
「そりゃこんなに強くされれば……っ、痛いに決まってるでしょうよ! ……良いんですよ、私のことは」
私がそう言って振り払うと抵抗もせず、徳本は私を解放した。そして苦労人特有の、あのもったいづけたような重苦しいため息をひとつ、こぼした。
「……どうしてそこまで自分を追い詰める? いつも『すべて自分が悪い』という顔をする? 悪いが、死にたがっているようにしか見えんぞ」
「別に死にたがっちゃいませんよ。ただ私一人なんかであがなえることがあるのなら、誰にとってもハッピーでしょうに」
「……本気で言ってるのか? お前さんのために傷ついた彼らを前にして」
「だから、私は私が嫌いなんですよ。いけませんか?」
睨み合う。まったくおかしなことになる。相手は自分に好意を向けてきているのに、私がそれを拒むせいで、自然、対立した形になる。
しばらくは、ずっとそうしていた。
「梓の……妻の死は、お前の罪じゃない」
――徳本永助。
射場梓のかつての夫は、瞑目して私を慰めた。
「……全部、私のうかつさが招いたことですよ。今回のことも、同じです」
「だが、お前が直接何かをしてくれと頼んだわけではあるまい」
「同じことです」
「……その話、もっと聞かせてください」
白い帳が開く。
隣で寝ていたはずの一七○超の姫君が、まだ白い顔だけ、こちらに向けてきている。
「……君、いいから寝てろ」
「薬飲んだから、熱下がりました。それに大悟さんの話のほうが気になって、なんか眠れませんよ」
だが薬を頓服したところで、完全に回復したというわけでもない。
長話になるだろうに、長時間聞かせるわけにもいかない。
医者の視点から見てどう思うか。
私は無言で徳本に視線を送る。
徳本はちらりと、ドアの外にわずかに目を投げてから、頷いた。
「彼女だって子どもじゃない。中途半端に誤解させておくよりも、きちんとお前さんから説明する義務があるんじゃないか? いつまでもピーター・ジョシュアを気取ってる場合じゃなかろうに?」
――できれば止めて欲しかった。
それでも、これで良かったという思いもあった。
「どこから話したもんかな」
私の中で相反する二つの思いをかき混ぜるようにして、私は自分の髪の後ろを指で乱す。
「まず、ここだけはハッキリさせておく。私と君の姉さんは、生徒と教育実習生という間柄だけじゃなく、男女の交際をしていた」
「……はい」
「あぁ」
二人とも、やや苦い顔をして頷く。
向こうがせがんだのにこういう顔をされるのは心外だが、徳本にしてみればまぁ、面白くはないだろう。
きっかけとか、付き合い始めてからの流れとか、話すと長いし話したくもないから、羽々音の体力を理由に割愛する。
だが、
「いい女だったよ」
と、私は省いた部分を総括した。
「あのひたむきさがあったからこそ、私も大学で教職とろうって思えたし、少しだけマシな物の考え方ができるようになった。感謝してる。今も」
呼吸を置く。
肺の中を一度洗い出すように、染みついた消毒液の異臭を吸う。
「教員免許をとって、梓と同じ教壇に立つ。……そんな夢を描いていた矢先に、彼女は徳本さん、あんたとチャペルに入った」
それでも自分に恨みはないのだと、徳本さんには伝わっているだろうか?
だが今その疑問は、主題から外れた、どうでもいいことだ。
「おそらく射場重藤は私たちの関係を知っていた。いや、確信していたわけじゃないだろうが、感づいていたようだ。そしてあの男は万が一の時に、射場の血を絶やさぬようにと、中立の立場にある徳本さんと結婚させようとしていた。そこで間違いが起こる前に、事態がややこしくなる前に、急ぎ嫁がせたんだろう」
「その後、大悟さんはあたしの家庭教師に」
私は頷く。
「十神からの指示でな。思えば、そうして無茶を命じることで、私の忠誠心を試すためだったとも思えてくる」
「その時に、姉さん言ってました。大悟さんに『命をあげる』って」
「そこまで聞いてたか」
どちらにせよ説明するつもりだったが、向こうに先手を打たれると、なんだか気まずい。
そう、その言葉。
私が流して逃げたその一言が、彼女の誓いの言葉だった。
「そして羽々音ちゃんの中学入学とともに私は家庭教師を辞め、プライベートで射場家の人間との交流はなくなった。年月流れ、ようやく心の傷の痛みを忘れかけていた頃、十神と百地の抗争が起こった。そして私は十神に周辺勢力に味方につくよう説得するという任務を命ぜられた」
「てっきり、 その時に姉さんにも参戦を促したんだと思ってました。っていうか、そんなそぶりでしたし」
顔をシーツの上に置いたまま、その妹は言った。心なしか、不満げな調子で。
父親の方も、そう考えていた。
誤解を解く気にはならない。
「だが結果として私は梓の死の原因を作ってしまった」
「なぜ、ですか?」
「当時の私にとって十神は正義の味方の集まりで、百地は支離滅裂な暴君で、それを糾すことこそ自分の使命だと信じて疑おうともしなかった。持ち前の人脈を使い、あるいはおどし、あるいは懇切丁寧に口説いて回り、味方を増やしていった。自分がやったことが、どんな影響があるかなんて、まるで考えちゃいなかった」
自分で回顧し、言葉を紡ぐたび、吐き気がした。
「そんな時にな、ふと梓の顔が浮かんだ。諦めちゃいたが、むしょうに声が聞きたくなった。それでつい、電話をかけた」
――ああ、
悪夢のように何度もリピートされた、少女にも似た声が、蘇る。
大悟くん、と。
私を呼ぶ声が。
聞いた瞬間頭をよぎった、
命をあげる
誓いの言葉。
〈どうしたの? 百地と十神の争いのこと? 負けそうって聞いたけど、ここにかけてくるなんて、本当にそうなの? もしそうなら、約束、果たす時、なんだよね〉
「戦局、状況、任務の意義、役割、その結果、死人が出るという可能性。そしてそんなタイミングで私がかつての恋人にすがる意味! 全部っ! なんにも! 私は考えちゃいなかった! 私だけが考えてなかった! ただ誰かに与えられたものをそのまま鵜呑みにしていただけだ!」
早口でそう言い切ると、途端に喉が乾いた。
痛む頭を抱えてうつむき、顛末まで導く。
「私は怖くなって、通話を切った。イエスともノーとも言わずに。その結果は」
私がすがる思いで徳本を見れば、彼は沈痛な面持ちで、私と同じようにうなだれた。
「梓は俺と縁を切ってまで戦いに参加し、巻き込まれて木の葉のように死んだ。おかげで俺は大勢の命を救ったが、結局身内一人の命も心も救えずじまいだ」
懺悔するように異能の医者は言う。
「でも」と、
羽々音はそれで微笑んで、身体を休めている。
「大悟さんは、何かをしたわけじゃないんですよね」
「……していないから、今の心に残って離れない。予感はあった。ほんの少しでも良い、とにかく言葉をかけていれば良かった。そんな機会は何度でもあったはずだった。だけど私には、それができなかった。……君はさっき芦田に言ったな? 私と芦田の違う点は、犠牲にした人間と向き合ったかどうか、と。けど、私は梓と向き合うことができなかった。逃げ出してしまった」
「……」
「そして今、正直に言葉をかけてやらなかったせいで、雪路も、雫も、君すらも傷つけてしまった。……成長してないな。二度と、もう二度とこんな失敗はしない。……梓の時にそう、誓ったはずだったのにな……」
「……」
羽々音は、深い息をついた。ベッドの手すりに手をかけると、力を入れて起き上がる。
「お、おい!」
慌てて制止する私の向こう、閉め切られた戸に向かい、羽々音は大きく声をあげた。
「だ、そうだけど、みんなはどう思う?」
「は? みんな?」
振り返った先では、徳本がまさに、出入り口の引き戸に手をかけているところだった。
思いっきりそれが引かれると、
「うわ、わ!」
……まず雫がコケながら乱入し、次いで雪路がはにかみながら、肩をすくめて車椅子を前へと進ませる。
「お前らっ……」
そうだった。
こいつらの存在を忘れていた。
盗み聞きする可能性が、十分にあることも。
頭を抱える私の上から、キンキンと、甲高い雫の声が聞こえた。
「もー! ハナミンウジウジしすぎ! いつまでも引きずり過ぎ! ほんっと、めんどくさい大人だなぁ!」
「何がなんでもお前にだけは言われたくねぇよ!」
「そうそう。さっきまで雫ちゃんだって落ち込んでたじゃないの。『もしかして、ハナミンにヒドイこと言い過ぎちゃったかも……』とか『バネちゃんのこと、もっと気にかけてあげれば良かったな……』とか?」
「もー! 黙っててって言ったのにー! それにわたし、そんな五年も六年も引きずらないよ!」
「私だってそんなに引っ張ってねぇ!」
にわかに、場の空気が明るくなる、というか騒がしくなる、というか……ひたすらにやかましい。
ついつい引っ張られる私も、私だが、
「で」
と、雪路は顔を上げた私の方を横目で見た。
「誰が、傷ついたって?」
三人と、徳本一人が、私の方を微笑ましそうに見ている。
答えに窮する私に「でしょ」と羽々音が問いかける。
「あたし達は、この程度でへこたれるほどヤワじゃないですから」
「そうそう。ハナミンのなっさけないとこ散々見て、それでも戻って、ついて来てる猛者だよ?わたしら」
「そゆこと。ナミさんがヘマしたって、オレらならカバーもリカバリーもできる。そういう人間だから、ナミさんもオレらのこと、いろんなところで、信じてくれたでしょ?」
「……お前ら……」
きっと、見せられない顔になっている。
目を伏せ、前髪の奥へと隠す私の後で、
「……そうですね。あたし、心配しすぎちゃいました」
羽々音が、生気を取り戻した声を弾ませた。
「何もなくたって、あたしと、大悟さんと、キッペー先輩と、しーさん、四人揃えば、そこが『カフェ・シャレード』です」
噛みしめる唇に、辛いものが混ざり込む。
ぽっかりと空いたその心に、流れ込んで、埋めてくれるのがわかった。
「あっ、ハナミン泣いてるー」
「うっせバーカ! 泣いてなんかねぇよ! こんな、こんな安い感動で……」
「あっ、ナミさん感動してくれてんの?」
「うっせ、うっさい! んなわけあるか!」
ひとしきり騒いだ後で、徳本がタイミングを見計らい、咳払い。
「言っておくが、患者はお前らだけじゃないんだからな」
指摘されて、大人らしからぬはしゃぎ方をした自分を恥じて立ち上がる。
じっと見上げる生徒達の視線、それを甘受しつつ、強く頷く。
「ちょっと、気持ちの整理をつけてくる。ケリつけたら、戻ってくるから、その時、お前らに改めて問うことになるかもしれない。……それまで、待っていてくれ」
「……はい」
貞淑な良妻のように、嬉しそうに、羽々音の気持ちのいい返事が届く。
白い光の下、彼女を見て、私は、戻ることができたのだと、
そう確信することができた。
■■■
まばゆい光から、最低限の光がともる廊下へ。
緑がかった暗い照明の下、スーツの上着に手を突っ込んで、壁にもたれる男の姿があった。
射場重藤。
私と目が合うと、気まずそうに目をそらした。
無視して私が通り過ぎようとすると、
「……さっきの話、聞いてたよ」
その声が、私の足を止める。
「そうですか」
「なんで正直に言ってくれなかったんだ? 私はつい……君が」
「結果は同じですから、言い訳がましくて誰にも聞かせる気になれなかったんですよ。徳本先生にだけは、梓のことを誤解されたくなかったから、言いましたけど」
私との誓いを果たすために、彼女は散った。
それ以上でも、それ以下でもない。
決して、徳本永助より、花見大悟を選んだなんて、そんなことは決してないのだと、私はあの医者にそう言ってやりたかったから。
「……っ、…………すまなかった」
初めて耳にする、心の底からの、重藤の謝罪の言葉。
「……梓のことで思い違いして、君には辛い思いをさせてしまった。あげく、捨て駒だなんて……」
「別に良いですよ。そんなことは」
診察室からだいぶ離れた場所で、私は追従してきた重藤に向き直った。
優しい顔をしている。こうして微笑むと、やはり梓や、羽々音にその遺伝が流れているのだと感じられた。
「しばらくはまた会えなくなるだろう。でもこの事件が解決したら、羽々音と三人で旅行に行かないか? いや、『シャレード』の二人も連れて……どこか、海外も良いかもしれないな。エジンバラ、行ったことあるかい? マイナーだけど、美しい町並みでさ」
「……そうですね。それも、いいかもしれませんね」
だけど、私には、まだやるべきことがある。
この男にも。
「その前に一つ、射場さんに謝ってほしいことがあるんです」
「何かな?」
私は目を閉じる。
耳で周囲の空気の流れを確かめると、かすかに、少女たちの語らい合う声が、音楽のように漏れ聞こえた。
「あんただろ? 『切札』バラまいてたの」
射場重藤の微笑は、崩れなかった。
「……残念だな」
と、目だけは笑って呟いた。
「君とは今から仲良くなれる。そう、思ってたのにな。……それはアレかい? 僕が芦田を呼んだから、その一味だと思ったのかな?」
「一味じゃない。あんたが頭目だ。赤マフラーを巻いて、何度も襲ってきた」
市民ホールで、合宿先で
二人の骨格を照らし合わせてみると、類似点が数多く見られた。
「頭目、か。だが芦田はそのマフラーを巻いていたそうじゃないか。彼の姿は消えていたそうだが、まず彼を捕まえて、問い質す必要があるんじゃないかな?」
「それは必要ない。あいつは利用されただけの影武者。すでに、あんたが答えを持っている」
「……僕がその頭だという根拠は?」
「まず第一、ヤツの体さばき。……どうにも気になってた。あの質実剛健なスタイルと、まるでこちらの能力や性格を熟知したような柔軟性。どうにも敵と対する度、あんたの影がチラついててな。第二に、『切札』襲撃の日。雫には黙ってたが、よくよく調べてみたらまた、妙なところでシンクロしててな。……そう、あんたが周囲から姿を消した時に限って、奴らはタイミングよく襲ってくるんだ。そして、事が終わればあんたが後処理に先回りしてる」
「……どうにもあいまいだな。大体、僕がそんなことをしてなんになる? 方や白、方や黒を操って、八百長のイタチごっこをしているほど、ヒマじゃないんだがね」
「本命は黒なんだろ? だから雪路を始め、私たち『カフェ・シャレード』のメンバーを取り込もうと画策した。……まさか娘にまで手を出すとは思えなかったが。あくまで戦うフリをして、『切札』の『識』をかき集めていた。あわよくば、『白札』も実戦に投入しようとしていた。違うか?」
「そうして集めた戦力なんて、なんに使うっていうんだい? 百地に目くじら立てさせるだけだろうに」
言葉も、表情も柔和なまま。
だが、確実に心の牙城に踏み込んでいる。その門扉を叩く。
そんな手応えが、タイルを踏みしめる私にはあった。
「だってあんた、本気で百地に謀反起こそうとしてるだろ」
「……どうしてそう思う?」
陰差す表情に、変化はない。
だが、声は一段階下がる。
「目だよ。百地の尋問に頭を下げた時の、憎しみに燃える、あの目。……仲間が大勢殺された日も、あんた、あの目をしてた。それを探るために直後に腹を殴ってみたけど、力は入れてないのにずいぶん痛そうにしたじゃないか。……樹の枝で腹でも打ったか?」
「……くだらない」
と、彼は吐き捨て、私を横切り出口に向かう。
「聞いてみれば状況証拠ばかりか。刑事ドラマにもなりゃしないよ。腹の傷? じゃあ折れた枝の太さでも測って照合でもしてみるかい?」
「……じゃあ逆に訊くが、あんたは百地の『内部調査官』が今回の犯人だと踏んでいる。じゃあ、芦田直人が『内部調査官』だっていう証拠は見つかったのか」
「あぁ、もちろん!」
「……ほんとですか? 何が見つかったんです?」
やや言葉を選び、私は疑問で重藤の足を止める。
「彼が百地と連絡を取り合ったメール文が、彼が職場で使用していたノートPCから発見された。他にも小包の包装紙、そのルート、あぁそう言えば『カフェ・シャレード』メンバーの写真や、君のデータもあって、それはすでに先方に送られているようだ」
「本当に?」
「あぁ。なら、証拠を見せようか? 間違いなく、百地家の『内部調査官』のものだ」
「……なるほど。よくわかりました」
「わかってくれたかい?」
「はい。疑いは晴れました」
ほっと胸を撫で下ろす様子の射場家の主に、私は、ひどくいびつな、底意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「そう、疑惑じゃなく、確信した。黒い札の配達人は……やっぱりあんただよ、重藤」
「……しつこいな。何を証拠に」
「私は送っていない」
「……ははっ。送る? 何をだい? それがなんの証拠になると、で、も…………っ!?」
――ようやく、気がついたようだ。
「まさ、か…………まさか……っ!」
牙城は崩れ、黒幕が顔を出す。
醜く歯がみする射場重藤に、私はすべてを欺き守っていた最後の真実。
その錠を、今破壊した。
「そう。そんなもの一度だって送ってないんだよ。……百地家『内部調査官』花見大悟はな」




